虎落笛短編 魏IF
-夏侯惇-

洞の愁い

「夏侯惇さま、今度遠乗りいきませんか」  水面を前に憤る夏侯将軍。自邸の庭で忌々しそうに隻眼を眺める彼を見ていられなかった。 *  張文遠から預かった書類を届けた帰り。客間で夏侯家の家令と談笑していた折だった。水音に惹かれて外を見遣ると、軽装の将軍が桶を片手に家事をしていた。 「まだいたのか。さっさと帰れと言ったはずだが」 「でも家令さんにゆっくりして行けと言われたので」 「……あいつは」  一階の窓から首を出す史桜へ呆れたような視線が突き刺さる。隻眼であっても眼光の鋭さは魏随一だ。史桜は窓を全開にしてひと息に飛び降りた。 「玄関を使うということをしらんのか」 「そんなことしている内に、夏侯惇さんはさっさとどこかへ行ってしまうおつもりでしょう」 「当然だ。お前に構っている暇はないからな」  夏侯惇の邸宅は他将と比べていくらか質素である。倹約家である彼は将軍という身分に奢らず、掃除も洗濯も自分の手で行う希有な人であった。その背中はどこか張遼に似ている。だけど彼以上に潔癖な人。そんな気がした。 「見てわからんか。俺はいま洗濯中だ。忙しい」 「ずっと水面を見ていたのに?」 「……いつから見ていた」  笑って誤魔化すと惇将軍は桶を放り投げる。溢れた水は勢いよく飛び出し、晩夏にうだる草花の栄養となった。少し。いや、かなり前から見ていた。正直に白状するといつも以上に睨め付けられる。彼は趣味が悪いぞと唸って渋面した。 「何をしているのかなと思って眺めていたら、ご自分のお顔を見て随分と怒っていらっしゃったので」  ――だからなんだか気になってしまい。  最後まで告げる前に緩んだ眼帯がはらりと落ちる。夏侯惇が捕らえる間もなく、金装飾を施した派手目のそれは池の中へ吸い込まれていった。 「あら、眼帯が」 「くそ!」  悪態と共に露わになるのは名誉の勲章だった。否、彼にとってそれは忌々しい傷に過ぎない。彼は眼帯なき潰れた目を恥じ、腕で庇った。隻眼であることがそんなに嫌なのか。こちらへ注意を払っていないのを良いことに史桜も真隣へ並んだ。常ならば冷たくあしらわれて終わるのだが、空いた手で水中をまさぐる男は冷静さを欠いている。なんとなしに軽く背中を押してみた。史桜は惇将軍の勇姿を覚えていたので、てっきり男が堪えると思ったが、彼はあっという間に池の中で濡れ鼠になっていた。 「貴様……! 一体なんのつもりだ!」  案の定、恐ろしい形相である。水も滴るなんとやら。般若のように猛り狂った彼は史桜の襟倉を掴み、青筋を立てた。 「あんまりに必死だったので、つい……というか本当に落ちると思ってなくてですね」 「言い訳になっとらんぞ!」 「ご、ごめんなさい」   怒りに我を忘れ、眼帯を探しを中断する夏侯惇。初めて間近で見る隻眼は空虚な洞穴だった。呂布との戦いで射られたというそれは彼が史桜に冷淡な態度を取る原因の一つでもあった。夏侯惇は女の視線に気付いたのか、怯えたように身を引く。が、史桜がそれを許さない。襟元を掴み返すと、光のない左目を、生気に満ちた右目を、交互に見つめた。 「……そんなに面白いか。俺の醜い隻眼が」 「いいえ」  そうではない。懐かしいのだ。彼が左目を失ったあの時代、史桜はまだ呂布軍に居た。それは愛しい日々。彼らと共にいたことを証明する手立ては張遼と己の記憶以外ほとんど残っていないけれど、夏侯惇に刻みつけられた醜い傷跡は破り捨てることの出来ない確固たる証となって史桜の前に存在していた。  淀んだ感情を埋め込まれた洞〈うろ〉にかけがえない色がさんざめく。 「夏侯惇さまがどんなにご自分の隻眼を忌み嫌ったとしても」  隠さないで、そう願う。 「あなたのこの傷を、私は慈しまずには居られないのだと思います」  酷い女だろうか。別の男に触れながら違う人たちを慈しむなんて。夏侯惇は濡れて張り付いた前髪を掻き上げ視線を逸らした。好きにしろ。呆れた声色に心持ち弾んだ色が灯った。 「ほんとうですか。じゃあやっぱり今度遠乗りに行きましょう」 「俺の話を聞いていたか。そういう意味で言ったんじゃないぞ」  そんな冷たい目で見ないでいただきたい。男はこめかみを押さえると、再度「好きにしろ」と掠れた声で呟いた。 「いっとくが、貴様のような物好き以外の前で眼帯はとらんぞ」  つまりは史桜の特権である。傷を透かして見る思い出を独占出来ることか、はたまた夏侯惇の秘密を共有したことか。何がこんなに史桜を喜ばせるか分からなかったが、女は破顔一笑した。 「分かったら洗濯を手伝え」 「承知いたしました、夏侯将軍」  夏侯惇の耳がほんのり染まっていたのは見なかったことにしよう。沸き立つ心を隻眼のせいにして史桜は冷たい桶に手を浸した。

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