白蝶Chapter 1 Hobbit編
-スキラ-
第十八話 遠きささめき
黄金の輝きが瞼の裏を透いた。御手柔らかな金光はかの長虫というより闊達な英雄エルフへ似ている。柊郷にいた頃は東へ昇る陽光の中で鍛錬せんと叩き起こされたものだが、そのお陰で今の「スキラ」があるといっても過言ではなかった。師であり兄である眉目秀麗なグロールフィンデルは叡智を秘めた額、力満ちる掌に歌うような声音で常に味方でいてくれ、心から信頼出来るエルフの一人だった。 私は大仰に寝返りを打ち、隣で寝息を立てるホビットの頬を軽く突いた。 「朝が来ましたよー。そろそろ起きてご飯食べま……うわっと」 寝ぼけ眼の裏拳が危うく鼻先を掠めた。数日の強行軍で疲れが溜まっているようだ。私は熟睡する茶焦げた巻き毛をかき混ぜ、もう少しだけ寝かせてやろうと外套を掛けた。折節、包帯を巻かれた腕が露わになる。白く光沢ある詰襟は左袖から脇腹へ掛けて赤黒く染まり、見るも無残な有様だった。折角グロールフィンデルが見繕ってくれた服だったのに残念だ。お気に入りの服を汚してしまったことに胸沈みながら私は昨日の出来事へ思いを馳せた。 痙攣し絶命したオーク――事の顛末に仲間は驚愕していたが、それは――たしかに言いしれぬ予感はあったが――私も同じことだった。いかにも、竜について聞きかじった者なら、魔力を持つ竜の血を体内に入れたのだ、当然の結末だ、と納得するかもしれない。だが私は普通のドラゴンと事情が異なる。昏き時代ならば闇の力に影響されこの血は毒となろうが、太平の世、冥王率いる軍勢が弱り、悪しき者が地下深く息を潜めている間はそこらへんの火竜と変わらぬ。従って私の血を浴び飲み干したところで害などあるはずがない。 だのに、オークは絶命した。それが指し示す原因は一つ。中つ国の闇が濃くなっているからだ。久しく血を流していなかったせいで気付くのが遅れてしまったようだが、養いびとが形作った身体は虎視眈々と復活を目論むサウロンによって始祖へ近づき、おぞましい病毒を四肢に染み渡らせていた。 白の会議へ持ち込まれた魔王の古剣、砦に現われた死人遣い、贋作の体内を巡る竜血の毒。それらは不吉な前兆である。私は平静を装いながら破壊と蹂躙の記憶へ蓋をした。しかし救いはまだある。オインだ。彼は私の血へ直に触れても平気であったが、あれがまことに始祖の血であったなら、肌は焼けただれ、悶え苦しんだろう。 「サウロンが再起するにはまだ少し掛るのかもしれない」 世界中へ暗い影を落とすかの「眼」は未だドラゴンを支配するに及ばぬ。だがサウロンが千年単位の空白をたった数百年で乗り切ったというのなら、近いうち、否、この百年の内に甦って然るべきだ。 さても賢人達はいつから闇の暗躍を看破していたのか。少なくとも二百年前――久しく成りを潜めていた火竜スマウグの覚醒を偶然と片付けるほど私は若くも無邪気でもなかった。灰色の放浪者が例の砦へ潜り込んだのはそれから百年の後である。 はなれ山遠征を強要したあの時、踊る仔馬亭で老爺は変わり果てたドワーフ王からはなれ山の鍵を預かったと密かに打ち開けた。だがトーリンの父スライン二世はどうして廃墟の砦に捕われていたのか? そして、魔法使いはなぜ王を青の山脈へ送り届けず単身で戻って来た? 私の知る旧友は指輪所持者を見捨てるような愚かな人物ではなかった。 「ミスランディアを問い質さなければいけないことが沢山あるみたい」 旅の終わりまでに知ることが出来れば幸いだが。私は頭の隅で囁く声へ「静かにして」と呟き、忌々しそうに眉根を寄せた。どうもここ数日、おかしなささめきが聞こえる。ドワーフの声ではない。ホビットでも、魔法使いでもない。けれど白昼に意識を攫う誘いは娼婦のような甘さと執拗さ、堕落を内包し、実のところ私が傷を負った間接的な原因でもあった。その引力はまるで力の指輪――いいえ、あり得ない。白の賢人も会議で仰っていたではないか。あれは大海へ流れ出づ、中つ国から姿を消したと。 私は知恵熱が出そうな頭を抱えて億劫に部屋を見渡した。チェス盤の側、弟の世話を焼くドーリが居る。彼は三兄弟の母代わりであり、飛び抜けた怪力の持ち主でもあった。男は遅く目覚めた私を認めると、一目散にすっ飛んできて、 「スキラ、起きたなら顔を洗えよ。それからその服。なんて酷いんだ。昨日の血か? 白い服だと余計に汚れが目立って仕方ないな」と渋面した。致し方あるまい。旅団一、神経質な性格なのだ。彼は綺麗にしてやるから脱げと言い捨て、おかっぱ頭の弟からも上着を剥いだ。 脱げってそんな。外套ならまだしも上着を脱ぐには抵抗がある。だから聞こえないふりをしていると、彼は無傷なほうの右腕を取り、私の襟元へ手を掛けた。 「さあ早く脱げ。さもないとこれからずっとオークの唾液と自分の血にまみれた服で過ごすことになるんだぞ」 「あー……お申し出はありがたいのですが」 「気なんか遣わなくて良い。その赤黒い染み、見ているだけで気持ち悪いんだ。ほら何を躊躇うことがある。せっかく洗う場があるのに。オーリだってもう脱いでいるぞ」 オーリと私を一緒にしないで頂きたい。華麗な乙女が男所帯の中で肌を出したと知られたら裂け谷の卿や光の奥方になんと叱られるか。しかし、はたと気付いた。ドーリは私を男と思い込んでいるのかもしれないと。外套を脱いだらさすがに察しても良さそうだが、なんにせよ、こんな場所で剥かれてたまるか。私は咄嗟に鷲掴んだ藁を世話焼きドワーフの顔へ向かって投げつけ、寝床から這いだした。 「どうせ洗ったって血の染みは取れないので結構です!」 「こら、逃げるんじゃない! オークの体液だけでも洗ってやると言ってるんだ! 上着をよこせ!」 「もう勘弁してくださいってば……!」 刹那、頭上から大きな影が差し掛かり、私は固い腹筋へ鼻から突っ込んだ。この巨体は言わずもがな、家主である。私は慌てて面を上げたが、熊人は昨夜とさして変わらぬ気色で謝るより先にこう言い放った。 「女に脱げと言うからにはそれなりの理由があるのだろうな。ドワーフども」 不法侵入を許した心広き熊人は嫌悪の表情でこちらを見下ろした。だが私へ向けられた感情ではない。ビヨルンと呼ばれるその人は、私の左腕を労るように蜂蜜瓶を脇へ置くと、仲間の身ぐるみ剥がさんと奮戦していた友へ毒を含んだ言葉を投げた。 「いかに服が汚れていようと女へ露出を強要する理由にはならん。確かに……酷い服だがな」 否定は出来ない。けれど、事情があるのだとひっそり目配せすると、口喧嘩に自信を持っているらしいドーリが、 「女? はっ。何を言ってるんだ。どこにも女なんて居ないだろう」と剣呑に応戦するではないか。いや、いますって。あなたのすぐ側に。すると熊人はぎょろ目を天井へ遣り、「お前たちは金や鉱物ばかり見ているから身近な花にも気付けないのだろうな」と嫌味ったらしく憐れんだ。ビヨルンは見た目にそぐわず生き物を愛する人なのだ。 だが、ドーリはなおも鼻で笑い飛ばし、 「性別を間違えるなんてお前こそ失礼なやつだな。スキラ、そういう時は怒っていいんだぞ」と要らぬ忠告をくれた。 「だいたいオークの口に腕を突っ込むような女がどこにいるってんだ? ドワーフ女だってしないぞ。脆弱な人間の女なら尚更そんなことをするはずがない。それに、スキラはそこらへんの男よりずっと力持ちだし、体力もある。そんなやつが女だなんて本当に思っているのか。そうだとしたら、あんたは頭がおかしいな」 そうだおかしい。褒め言葉が貶し文句に聞こえるのだから。神経を逆撫でされた家主は些か機嫌を損ねたものの、挑発を受け流し、腕に巻かれた白布へ視線を滑らせた。 「お前、オークの口に腕を突っ込んだのか。ふ、よくやったものだ。哀れなオークは喉を焼かれ、臓物をまき散らして醜く死んだろう?」 自分の身体を傷つけるのは感心しないがな、と熊の眷属は口角を上げた。私の正体を知っているらしい。出会い頭から友好的だったことと関係あるのだろうか。動物の血を色濃く受ける中つ国の生き物はすべからく竜の気配に敏感であり、可能な限り遠ざけんとするのに、親しみ深く接してくれる男の存在に心が弾んで頬が緩んだ。 折り節、妙な咳払いが耳朶を打つ。へんてこ帽子を被ったボフールである。彼は食卓から身を乗りだし、 「はっはあ。やっぱりみんな気付いてなかったんだな。彼女が女だってこと」 俺は知ってたぞ、と彼は少年のような輝きを放つ顔でくしゃっと笑った。その瞬間、辺りは水を打ったように静まり返る。朝食の準備に取りかかっていたドワーフの視線が一挙にこちらへ集い、私は咄嗟に柱の裏へ姿を隠した。 「おいボフール……お前今、なんつった」 剃髪頭の荒武者が恐る恐る問うた。 「だから。スキラは女だって」 「……冗談じゃないんだな」 「はー。そんなに疑うなら本人に確認したら良いさ」 その一言がすべての発端だった。ドワーフ達は一斉に騒ぎ始め、張り上げたがなり声が小屋を軋ませた。なぜだろう。一日は始まったばかりだと言うのにどっと疲れた気がする。旅に支障がなければ性別など関係ないだろうと高を括っていた私は、朝食を準備するビヨルンの隣へ鬱々と屈み込んだ。 眼前には「俺は知ってたぞ」と主張するフィーリに、「俺のほうが先に気付いてたから」と騒ぐキーリ。 「なんだよ、お前らいつから知ってたんだよ」 「女性なら傷が残ってはいかんな。もっと丁寧に処置しよう。こちらへ来なさいスキラ」 「はっ。嘘に決っておろう。わしの妻はもっと女らしいぞ」 誰が誰だか分からない議論の嵐。そのまっただ中で我関せずとどこ吹く風の魔法使いを恨めしげに睨んだが、次第に自棄になりつつあった私は無言で成り行きを見守ることにした。その時だ。不意にドワーフ王と眼がかち合ったのだ。トーリンは一人静かに坐していたが、仲間以上に狼狽していた。そんなに驚くことですか。私は本日一番のショックに打ちひしがれ、乾いた涙を拭いた。 「信じられん。あいつが女だなんて。嘘に決まってる!」 甥っ子やボフールがいくら熱弁しても疑念を捨てぬドーリ。こうなったら裂け谷の友人の忠告に従ってもう少し着飾ってやろうかと思案に暮れていると、折りしも、背後で見知った気配がした。 「あれ? どうしたの、みんな。そんな騒いで」 小さき人は私の外套を担いで佇んでいた。そこへ仲間を押し退けて三兄弟の長男が顔を出す。 「ビルボ! 良いところに来たな。スキラが女かどうか会議していたんだ」 いや、してない。する必要もない。私が女であることは疑いようもない事実だ。すると、小さき人は苦笑して、丁寧に折り畳んだ外套を返し、 「なんだその話か。うん、そうだよ、スキラは女性だ。私の家へ来た時からずうっとね」と微笑んだ。
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