白蝶Chapter 1 Hobbit編
-裂け谷王-
第十七話 九つ彼方
死誘う氷原の夢を見たのはいつぶりだろう。第二世紀の指輪戦争が終結し、柊卿の客人に過ぎなかった私が裂け谷のエルロンド卿として、残存するエルフを束ね始めた頃以来か。闇の召使いであり次代の冥王であるサウロンが予言と偽ってエルフへ見せた事実無根の幻覚の中、私は白竜と相対して冥王の召使いを呪っていた。 久しく忘れていた静寂が耳元で広がる。どうして今になって見るのだ。白きドラゴンの酷寒が森の精を蹂躙し世界が眠りに沈む様はあらゆる竜がもたらす災厄の中に就いて甚だ残酷である。しかしあの幻夢は三千年もの昔、サウロンによって仕掛けられた罠だった。奥方の手で暴かれた企てに今さら価値があると思えず、私は所在なげにガウンを引っかけた。 「おやエルロンド殿、まだ起きてらっしゃったのですか。まだ夜中前ですよ」 考え事をするなら絶えなき暖炉の側だと火の広場へ足を踏み入れると金髪エルフが先客として居座っていた。グロールフィンデル、柊郷でニムダエの指南役を請け負った眉目秀麗な男である。彼は先刻着いたばかりだと居心地の良い長椅子を譲り、あの子の特等席であった安楽椅子へ滑り移った。 「しかし丁度良かった。お耳に入れておきたいことがあるのです。柊郷の白夜に関して、よからぬ噂が広がっています」 奥方を無事に南の住処へ送り届けた後、とんぼ返りで戻って来た彼は眠らず私を待っていたらしい。彼は若々しく艶やかな顔を微かに曇らせ、 「卿よ、ご存じですか。若いエルフたちが例の幻夢を見て、スキラを怖がっているという話を」と身を乗り出した。 「例のとは。サウロンが我々に見せた指輪の幻か」 「はい。我々にスキラを脅威と認識させ、エルフの手で排除させんと策を弄したあの夢です」 となれば私が今朝方見たものと同じである。しかしすぐにある疑問が過ぎった。直に冥王の召使いと敵対した私やグロールフィンデルが見るならまだしも、なぜ指輪戦争を知らぬ若者があの幻を見るのか。曰く、裂け谷に限った現象ではない。中つ国に住まうエルフたち、とりわけこの第三世紀に生まれた若者がその夢を見ており、意図せず白き竜へ敵愾心を抱く輩が増えている。いつ頃から始まった現象か定かではないが、グロールフィンデルがもたらした水面下の噂と魔法使いが運んだ魔王の剣、同時期に舞い込む報せとしては重すぎる内容だ。偶然と片付けて良いはずがない。 かの娘を陥れんと地下深く蠢く闇は知らぬ間に肥大化し、見えざる触手を伸ばしているのだ。私は白亜の竜へ向かって放たれた悪意を感じ取り、日に異に明確な形を為すそれへ警戒心を強めた。 「ニムダエは長らく我らエルフの友だ。指輪が作られた時代、彼女がいなければサウロンの企みに気付くことはなかったろう。けれどあなたや私と異なり、若い衆はその事実を知る由もない。知らぬ間に幻夢を刷り込まれるばかりで、このままでは、かつての我々と同じ道を歩むだろう」 次代の冥王がエルフを誑かしたあの時、奥方が止めてくださらなければ我々は白き宝石を捕え、悪竜退治と称して尊き命を奪っていたろう。かような情勢下で憂さ晴らしよろしくドワーフの竜退治に同道させるべきではなかったか。魔法使いは今だからこそニムダエを連れ出したいと申し出たが、私は彼の選択が最善だったと思いがたい。思案に余る私を尻目に、見目麗しき金髪エルフは「スキラはまだ寝ているのですか。厳しくしすぎて避けられているのでしょうか」と筆無精の弟子を嘆いて立ち上がった。 「ああ。奥方がいらっしゃった十日ほど前にこちらへ立ち寄ったのは知ってるだろう。その後まもなくして発ったよ。彼女はドワーフに付いて北を目指していた」 しばらく戻らぬ旨を告げるとグロールフィンデルは不思議そうに片眉を上げた。 「あの面倒くさがり屋が長旅に。スキラとドワーフなんて珍しい組み合わせですね。さては誰かが唆したに違いない」 「人聞き悪いことを言うものではない。灰色の放浪者たっての願いだ。私も驚いたが、本人は楽しんでいるようだよ。報酬は何かの材料だとか。それで呪いを解く薬を作れるやもしれぬと言っていたな」 「……つまり狙いはスマウグの血、と。エルロンド殿、正気ですか」 肝要な箇所を誤魔化してもすぐにそれと悟られる。端正な顔に信じられぬと書かれてあった。その顔は作り物のように美しかったが、彼の魅力は生来の朗らかさが紡ぎ出す生命力の輝きである。まさかスキラに討たせるおつもりではありませんよね、と問い質すグロールフィンデルは兄馬鹿ならぬ師弟馬鹿だ。けれど彼が言わんとすることは分かっていた。及びも付かぬ相手に立ち向かわんとする娘をなぜ止めなかったのかと心中でさぞや責めていることだろう。だから私は先手を打って批判を遮った。 「さよう。スマウグは今世紀最強の火竜だ。彼女が無事で済むとは考えにくいだろうな」 「分かっていらっしゃるのなら、なぜ。奥方もご存じなのですか」 「その奥方が反対なさらなかったのだ。あの方なりに考えがおありなのだろうと思ってな」 私はグロールフィンデルの鋭利な視線を甘んじて受け止めた。しかし否定するまでもなく、かの娘がはなれ山のスマウグを討てるなど信じておらぬのは火を見るより明らかだ。加えて相手は竜――ニムダエにとっては同族の。魔法使いは彼女とスマウグを対面させて現実を認めさせるべきだと荒療治を考案するも、必ずや良き方向へ作用するとは限らぬ。弟子を思う金色の戦友は謳うように独りごちた。 「スキラの正体を知ってか知らずか。どうせドワーフは彼女の力を当てにしているのでしょう。しかしあの子には荷が重い相手だ。殊に、人の姿を保ったままでは」 ああ、それこそが最大の問題だった。本来、ニムダエは紛い物とは言え、始祖から受け継ぐ強大な魔力を有している。光の奥方が見出した白夜は他竜に負けるべくもないのだ。だが人の御姿を保つためには多大な力を浪する。従って小さな体躯へ宿す魔力を最大限に発揮することができず、図らずも力負けをするのだ。 「卿もご存じでしょう。人の姿で生きる限り、スキラははなれ山の火竜に勝てません。けれど皮肉なものだ。そうすることで慈愛を解する心を保つことができるのだから。人でありたい、否、今でも人だと主張するスキラにとってはむしろ願ったり叶ったりでしょうが、かように騙し騙し生きていては、いずれ歪みが生まれましょう」 ニムダエが他の生き物へ姿を変えるということは始祖より授かりし魔力を余すところなく全身へ行き渡らせることだ。人の姿であれ蛾の姿であれ、それはたまさか指輪の支配を防ぐ障壁の役割を果たしている。だからこそかの娘は濃い闇の時代に確固たる自我で冥王の召使いへ逆らうことができたのだ。翻って、ドラゴンの姿へ戻ることは始祖の加護を捨て、闇の強制力へ身を委ねることである――ニムダエがニムダエたる所以はここにあった。 かつて悪鬼を討ちし英雄は、あの子がいつか傷つく日が来るのではないかと心配なのです、と悩ましげに艶なる面差を顰めた。グロールフィンデルの懸念は侮れない。麗しの君はこれまでも大きな予言を残し、的中させた男だ。だが目下私の関心はニムダエの心より中つ国の平和へ向いていた。忠告を受けた時にもう少し気に掛けておればと六十年の先に悔やまれてならぬのだが、この時の私は迫る闇に心奪われていた。だが後々考えると、それこそサウロンの思惑通りだったのやもしれぬ。 「くだんのことは奥方へ相談してみよう。自分の意志であれ、唆されたのであれ、万が一ニムダエが竜の姿へ戻ることがあれば一大事ではないか。我々はあらゆる手段を以て先手を打つべきだ」 すると師の欲目、私の口調に指南役は気分を害したようだった。 「お言葉ですが。卿はスキラが我々を害するとお考えなのですか。彼女を慈しみ育んだ中つ国を破壊すると」 彼がかようにかしましい男だったとは思わなんだ。否、弟子愛が高じて口うるさくなっただけか。私は目角を立てるグロールフィンデルへうっそうと嘯いた。 「あなたがニムダエを大切に思うのも分かる。師は弟子を可愛がるものだ。だが、あの幻夢を見て感じたことはないか。白き大珠が産み出す氷原は、水神のそれよりも、冥王が司る酷寒へ相通ずると」 いくら人心を残そうと彼女がドラゴンであることは紛れもない事実だ。 「だが私は白夜を殺めたい訳ではない。あれが諸刃の剣であることは否定しないし、あらゆる危機を見越して手段を講じることは不可欠だが、黄金竜や奥方の養い子であると共に、ニムダエは私の養い子でもあるのだ。子の命を奪いたいと思う親がどこにいよう」 グロールフィンデルは審美眼のある男だ。善いものと悪いものの噛み分けは彼が一番分かっている。でなければ奥方が柊郷へ白竜を連れていらした時、真っ先にニムダエへ近づいたりしなかったろう。彼は他のエルフへ警告を発するべきと進言した。とみに闇森のスランドゥイル、エルフらしからぬ欲を持った王へ。私は南へ昇る下限の月を認めた。月光文字から読み取った秋の最終日は迫っている。 「我が友。戻って来たばかりで悪いが伝言を頼みたい。魔法使いは闇の森を抜ける道を選ぼうが、森のエルフも幻夢を見ているなら、畢竟、諍いは免れん。けれど娘は我々がさような幻夢を見ていることを存ぜぬのだ――今も昔も。あの子が要らぬ弾みを食う前に森の王と接触してくれまいか」 「三日と経たぬうちにお伝えしましょう」 「遠いところをすまないな」 強靱な足腰を持ったエルフは折り目正しく礼をして踵を返した。腹の据わったグロールフィンデルならば森の王と渡り合えよう。我々を恨むドワーフたちが障害になるかもしれないが、スランドゥイルのほうが何倍も厄介だった。私は奥方と話し合うため彩ずる木の葉を辿って部屋を抜けた。 * 「そろそろおいでになる頃だと思っておりました。かつて指輪が見せた夢についてお話がおありなのでしょう。分かっております、エルロンド卿。わらわも一昨日、あの幻夢を見ました」 私室へ戻ると思いがけず奥方から接触があった。心を見通す彼女には敵うまい。最年長エルフである女王は柊郷にて白竜を拾った養いびとの一人であり、戦いへ投じた張本人でもあった。白衣に身を包んだ光の奥方は深淵なる瞳で私を捕え、「スキラが敵になることを恐れているのですね」と不安の種を掬い上げた。 「さよう。たとえ紛い物であっても竜は竜だ。その身一つで戦況を覆す巨大な力を持つドラゴンはサウロンにとっても脅威だが、我々にとっても同様の恐怖をもたらす。私にはあの幻夢が必ずしも虚偽と思えないのだ」 そう、エルフを洗脳せんと広められた幻夢を完全に否定することはできぬ。三千年前に敗北を喫した闇の勢力は、今度はニムダエの心をいかにドラゴンへ堕とさんと画策するだろう。 「奥方、あなたは太古の昔から悪と闘い、サウロンがそう遠くない未来に復活すると予見した。そして間違いなく、これはドル=グルドゥアの動きと関係があるはず。近いうちニムダエにも影響が出よう。果たして然らば、かような折りにスマウグと彼女を会わせるべきではない。あなたの力を使って今すぐ呼び戻してはいかかだろうか」 されど横を向いた奥方はこちらを流し見るのみ。束の間思案に耽け、たおやかに手を翳した。 「わらわにも灰色の放浪者の選択が正しかったのかどうか分かりませぬ。ですが、もしかしたら、この旅がスキラの別れ路なのではないかとも思うのです」 奥方と繋がる水面へ波紋が広がる。小川のせせらぎのごとき清らかな貌がふと薄れた。代わりに素朴な小屋が現われ冴えた声音だけが耳朶を打った。 「かの娘が己のあるべき場所を定めればどのような姿であっても竜へ堕ちることはありませぬ。しかし未だ彷徨うスキラはどちらへ付くか明確な答えを持ちませぬ。彼女は一見、善き種々の味方でありますが、その実、心はどちらへも向いておらぬのです。なぜならあれは、狭間の中にあって傍観しているだけの無為な存在だから」 奥方はニムダエについて我々が預かり知らぬことをご存じだ。かように断言出来るのも知られざる秘密へ帰因するのだろう。しかし、と彼女は続けた。 「それもきっとこの旅で決まるでしょう。スキラは旅を続けるべきです。わらわたちがしてやれることはありませぬ。ただ害が及ばぬよう見守るだけ。そして彼女が最後にどんな決断を下すか、待ち続けるのです」 エルフは忍耐強い生き物だ。いくら長旅と言えど、かの旅が終わるまでさして長くは掛からぬだろう。私は揺れる水盆を覗いた。魔法使いの灰色ローブが見える。ドワーフ一行は安寧の眠りに就き、色白の娘だけが覚醒していた。彼女は錠前が降りた大扉へひっそりと身を寄せて黄昏れていた。 折りに触れて画面の外枠より濃紺の男が現われる。祖国の復興に燃えるトーリン二世は黄緑色の飲物を手渡し、飲めと身振りで示した。 「痛み止めだ。これを飲んだらさっさと寝ろ。見張りなら私が代わる」 「あの……これ人間が飲むものに見えないのですが」 「オイン手製だ。文句を言わずにさっさと飲め。それが怪我人の仕事だろう」 ニムダエはなぜか腕を庇っている。傍らに血の滲む布がぞんざいに積み上げてあり、外套の隙間からまっさらな包帯が見え隠れしていた。私は驚愕する。あの娘が怪我をしたなど何年ぶりだ。あれは竜の鱗を鎧代わりにする特異な術を体得していたはずだが、不測の事態に巻き込まれたか。気苦労を重ねて薄暗闇へ目を凝らすと、ニムダエは恐る恐る舌で舐め、途端に苦悶の声を上げた。 「うっ! 何が入ってるんですか。まさかさっきのオークの血を」 「そんなもの入れてどうする。第一、怪我をするお前が悪いのだ」 されども、トーリン・オーケンシールドはつと目を逸らし、 「いや。お前は私やボンブールを庇って怪我をしたのだからこちらにも責任はあろうな。家主が戻って来たら私が鍵を開けおく。だから今夜は眠るがいい。魔法使いには明日私から説明しておいてやる」と言い含めた。些細な恩義も忘れぬところは生え抜きのドワーフか。だが、どう転んだところであれが従順に従うはずもなく。さように説き伏せることが可能なら我々とて苦労しておるまいと水盆越しに怨ずると、「わらわも良き方法を教えて欲しいものです」と朧気な声が同意した。 「お心遣いありがとう。と言っても私はミスランディアの命で仕方なく起きている訳ではないのですけれど。でも、トーリンがどうしても気になるのでしたら、二人で家主を迎えましょうか」 喧嘩されてはことですし、と意味深長に言い足す娘。 「どういう意味だ。私はさほど問題を起こしておらぬはずだが」 「あー……そうでしたっけ?」 蛇の一睨みで白竜は唇を結ぶ。量もなし。だが妙なることにトーリン二世の敵意は以前より薄れていた。旅団が裂け谷に滞在していた頃はなぜだか私が気を揉んだものだが、端なくも打ち解けたなら喜ばしい。けだし男の心境の変化が原因だろう。ニムダエは鼻をつまみ、一気に薬を飲み干して「こんなの飲まなければならないなんて怪我人は大変だ」と深く息衝いた。 「ならば今後は傷を負わぬことだな」 「あはは。ご心配なく。普通の人間より頑丈なのが取り柄ですし」 誤解を招く物言いだが、娘は己が竜である事実をしかと受け入れている。しかしニムダエにとって彼女は「人間」でもあった。ドラゴンである自身を否定せぬが、人の心も否定したくない――さような思いが強いのだろう。ニムダエが「人」でもあることを主張すると、始めつ方、いにしえの時代を存ずる者は「贋作とはかくも難儀である」と早耳を走らせるが、同じく端境の存在である私はその心へいたく共感する。半身に人の血が流れる私でさえ人間と見て親近感を抱くのだ。元々人間であった、否、あの時のまま心を保つ彼女ならば「自分は人だ」と高唱しても責めることはできぬ。 「おい、スキラ。ドワーリンから話は聞いた。お前は長命だそうだな。見目よらず丈夫であることと関係あるのか」 話の接穂を探していたのか、おもむろにドワーフが口を開いた。彼は「お前はまこと人間か」と問うた。大地の民らしく実に直球であるが、歯に衣着せぬ物言いにさても娘はどう答えるか。私は好奇心に駆られて先を待った。淡泊な表情に微かな迷いが過ぎる。ゆるゆると面を上げた娘の瞳は過ぎ去りし来し方を眺めていた。 「正確なところは私にも分かりません。けれど、人で在りたいと切に願うことが私の心を人間たらしめるのだと、ある方が仰いました。ですから、それで良いのだと思います」 「いやに漠然としているな。だがまあ良かろう。エルフでないことはたしかなのだな。それを確認したかっただけだ」 「はあ。トーリンはとことんエルフがお嫌いで」 半ば呆れた娘が口を滑らせる。竜であることはともかく、もう少々口を慎めば周囲の反応も違おうに。そういうお前はエルフが好きなようだな、と憮然とする男へ憚らず笑顔を差し向けるニムダエに頭痛がした。 「ええ、好きです。それに私の故郷はエルフの国ばかりですから」 「なんだそれは。故郷とは一つだろう」 「沢山あっていけないものでもないと思いますけど」 故郷とはそんな曖昧なものではなく、自身が生まれ育った一地点こそそう呼ぶに相応しいのだと男は反駁する。それで私は思い出すのだ。娘の生まれ里は帰郷叶わぬ遙けき彼方だったことを。七つ海を越え、九つ空を超えたところにあると冗談交じりに語っていたのを覚えている。エルフの故郷も灰色港から西へ位置する遠方に存在するが、さように航海すれば辿り付くという次元の話ではないらしい。すると果たせるかな、そっくり同じ内容を吟じた娘へ王はやるせない眼差しを送り、 「……そうか。生まれ故郷を失ったという点では我々と同じなのだな」と細めいた。 「ふふ、そうですね。けれどあなたと私はまったく同じではありません。だって私にはもう故郷の記憶がないのです。木々を支える大地の香り、冬空に冴える満月の色さえ思い出せない。それはあまりに古く、私一人では焦がれることも出来ぬ遠い事物となってしまいました」 決して取り戻せぬものを渇望することほど虚しいことはないが、思い出せぬものを嘆くことも不可能だ。しかし我らがニムダエが悲嘆に暮れる様子もなく。彼女は、だから、と続けて、 「愛おしく思える生まれ故郷があり、取り戻したいと願えるトーリンが少しだけ羨ましくもあります」と面映く花顔を綻ばせた。 「でもね。生まれ故郷がない私でも、それと同じくらい大切にしたいと思える場所があるんですよ。ナルゴスロンド、柊郷、南方王国ゴンドール、裂け谷にロスロリエン。たしかにトーリンが仰る定義から外れているかもしれませんが、この身を受け入れてくれた人がいる場所は『故郷』と呼ぶに相応しいのでは」 それは寄る辺を失った彼女なりの打開策だったのやもしれぬ。ドワーフ王は聞き耳遠く白夜の紡ぎ言へ浸っていたが、やおら「見事にエルフの国ばかりだな」と筋違いの不満を漏した。月光射し染める家屋を潤すのは軽やかな鈴音。水面は暗くなり、再び奥方の顔が映った。しかれどその折り、磨り硝子越しのようなくぐもった男の声が響いたのだ。 「……ならばスキラよ。エレボールが再興した暁には、かの地もお前の故郷へ加えるか?」 思いがけぬ申し出にニムダエがいかな表情を浮かべ、なんと返したか今となっては分からぬ。だが春宵のごとき華やぎがドワーフ王へ返されたろうというのは推し測るまでもない。奥方の仰る意味を解した私の胸は軽くなっていた。 「裂け谷の主よ。花に嵐は付きものですが、スキラは正しい決断を下すでしょう。大丈夫、ドラゴンは中つ国でも一、二を争う強き心の持ち主です」 我々が彼女へ背負わせんとする責務は単なる冒険心で立ち向かうドワーフたちと雲泥の差がある。しかし今この時は広大な視野で闇の脅威へ目を光らせる灰色の放浪者を信頼しよう。私は瞼を閉じれば聞こえる細波にいつしか帰る西国を思起し、グロールフィンデルの伝言が間に合うようにと願ってやまなかった。
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