白蝶Chapter 2 LotR編
-深桜-
第一話 水底の出会い
御山に積もるまばらな残雪が生々しい白さを主張する。冬は明けた。今は盛りと皇居に咲き乱れる御桜は、掘を満たす水鏡の上をなめらかに漂い、黒く濡れ細った幹へ乱反射した光を注いでいた。 鈍行電車の窓際、焦げ茶色のワンピースに身を包んだわたしが映る。アクアマリンで飾られた小さな髪飾りは煌めく水滴のよう。わたしは用事を終えて地元へ帰る途中であった。黄昏を受けた景色が見慣れたものに変わっていく。そろそろ下車駅であることを知り、広げた文庫本を鞄へ滑り込ませた。 「まもなく到着致します。開くドアは進行方向の右側です。お降りのお客様は、お忘れ物なきようご注意願います」 帰り際寄った皇居の水音が耳にこびり付いている。引込まれる深い色。枝垂れた太い枝が水遊びをするように水中へ花弁を散らす。さながら、白い蝶が戯れているようだ。 ぴちゃり。 不意に、窓を叩く雨音に混じって、涼やかな音色がこだました。なだらかな水面に一つ、木々の葉より滑り落ちた雨粒の音だった。けれどどうして分かったのだろう。車内の騒音でさえ車掌のアナウンスでかき消されているのに。 音は妙に近かった。すぐ後ろ。耳朶に触れるか触れないかのところに水の気配を感じた。わたしは恐る恐る耳裏へ手を伸ばした。静かに、そっと。誰かに誘われるかのように、その衝動に逆らうことは出来なかった。 ――次の瞬間。わたしは身一つで水中を漂っていた。足掻けば足掻くほど絡みつく衣服。深淵な水底へ足が届くはずもなく、無我夢中で両足をばたつかせる。鬱蒼と生い茂る植物が行く手を遮っていた。酸素が足りない。驚いた拍子にほとんど吐きだしてしまったのだ。これは夢だろうか。ならばなんて苦しく嫌な夢だ。いや、夢ならまだいいのだろうか。様々な思考に埋もれる意識。水面が遠のいた。 その折。奇妙なことが起きた。突として力が漲ってきたのだ。自分の身体なのに自分ではない感覚。誰かが力を添えてくれているような力強さが全身を満たした。まだいける。まだ、泳げる。想いが通じたのか、光射す水面が乱れた。白い腕が波間に揺れる草木をくぐり抜ける。わたしは二の腕を力強く掴まれた。上へ導く引力へ浮力が加勢した。なにとなしに下を振り返ると何者かがわたしの足を押し上げていた。黒き兜を被り、鎖帷子を纏った男。眉間に刻まれた皺から人を超えた叡智を読み取る。わたしは丈高く厳めしい容貌を透かして、生きとし生けるものへの深い愛情を認め、無意識に己を預けた。 「これは夢ではないぞ」 太く低い囁きが全身を縛り上げる。 「夢では、ない」 呪詛のように繰り返される文言。地の底、この世の最果てから響く深い声の持ち主は身体中に魚を這わせ、強大な姿を取って繰り返した。男は人の領域を遙かに超えている。それは波にのまれる寸前のわたしへ向かって諸手を広げた。途端、水という水があらゆる穴から注ぎ込み、目の前が真っ白になった。どこかで腕を引く力が強くなる――わたしは底へ押し返す水圧を感じながら力尽きた。 * 我に返ると柔らかい芝生へ倒れ込んでいた。辛くも溺死を免れたのだ。 「げほっげほっ」 肺の奥深くまで酸素を吸い込む。ああ空気が美味しい。あと少し遅ければ死んでいたに違いない。夢らしからぬ現実味に寒気を抱きつつ判然とせぬ頭で命の恩人を探した。そこには一人の女性がいた。わたしと同じ東洋人か。夜空のごときあでやかな髪を高く結わえ、蒼ざめた顔で私を見つめている。普通の日本人よりもずっとずっと黒い瞳が印象的だったが、どこか爬虫類をも彷彿とさせた。 「あ、ありがとうございます。助かりました。わたし、どうしてか水中にいて。もう駄目かと思ったのですが」 女性は応えなかった。身体を強ばらせて瞠目する様はさながら蝋人形。彼女は唇を薄く開いたまま私を凝視していた。食べられそうだ。思わず身震いする。彼女は人のようでもあり、肉食獣のような鋭さも持ち合わせていた。 しかし、どうしたものか。狼狽して辺りを見回した。ここは湖畔らしい。今し方上がってきたわたしの背後に大きく丸い水盆が口を開けていた。そして前方――女性の背後――は鬱蒼と茂った樹木が立ち並ぶ。空気は湿り、湖の向こうは靄に覆われた大草原が広がっていた。 わたしが沈黙に困り果てていると、さわさわと枝が揺れる。その音に女性が正気に戻った。 「ご、ごめんなさい。ちょっと驚いて。あー……どうしよう。セオドレド、セオドレド、近くにいますか」 彼女は肩越しに誰か呼んだ。身体を捻った拍子に、腰に掲げた剣の柄が目に映る。古風な身なりだ。おおよそ中世ヨーロッパあたりの服装か。残雪のような鮮烈さを帯びた白いベロア生地、金刺繍の留め具をあしらった詰め襟の上着に、韓紅色の手甲を付けている。彼女の横顔から予感めいたものが閃いたがわたしはおぞましい考えを心の奥へ追いやった。 「どうされたスキラ殿」 「良かった、セオドレド。ちょっと困ったことになった」 「そんなに狼狽したあなたは珍しいな。ところで……そちらの女性はどなたか」 「いま、溺れていたのを助けて」 木漏れ日から騎士の風体をした男が現われた。年は三十代後半だろう。高貴な顔立ちに数多の戦をくぐり抜けた厳しさ、上品な柔らかさが同居していた。金の巻き毛を携えた彼は恩人の女性と二言三言交わすと、立派な馬を降り、愁いを帯びた瞳をこちらに差し向けた。 「お身体は大丈夫ですか。溺れていたと伺いましたが、オークの襲撃か何か受けたのですか」 「はい、おかげさまで大丈夫でした。少し寒いですが」 彼らの言葉が一瞬、知らない言葉に聞こえた。だが体内で微かに水音がしたと思うなり、投げかけられた言葉の意味がすとんと腑に落ちた。王子のような風格を備えた彼はマントの留め具を外しわたしの肩へ御手柔らかに掛ける。マントは女性のそれより幾分厚く冷えた身体を温めてくれた。 「私はローハンの王子、セオドレド。こちらは故あって共に行動しているスキラ殿だ。この辺りはオークが多い。女性だけで動くのは危ないから、待ち人がいなければ我々と共に黄金館へ参ると宜しいでしょう。しかしその前に、あなたの名を聞かせてくれまいか」 やはり彼は良家の子息である。しかし、ローハン――その単語を聞いて何かが後頭部で疼いた。日本でないのは明らかだが、主要な西洋諸国でもなさそうだ。馴染みない外国へ来てしまったと困り果て、戸惑いながら名乗った。 「深桜と申します。危ないところを助けて頂き感謝しています」 もう一度丁寧に礼を告げた。するとスキラと呼ばれた女性が「あっ」と短く声を張り上げる。 「どうなされた、スキラ殿」 「い、いえいえ、なんでも……」 命の恩人は尋常でない熱意を持って私を凝視した。そんなに見つめられると顔に穴が空きそうだ。 「ねえセオドレド、私からいくつか質問しても」 「ええ、構わない」 彼は身体を横にずらし、女性が立ち入る隙間を空けた。 「ご紹介にあずかったスキラです。あなたが無事でなにより。でも深桜さん、どうして溺れかけていたんです。ここら辺は滅多に人が来ません。私達もたまたま休憩に寄っただけですし。貴女はどこから参られたんです。なぜ、私たちの言葉がわかるの」 女は口早に問うた。奇妙な問いだった。彼女はわたしがなんと答えるかほとんど検討が付いて、その上で質問していた。でなければ最後の質問が出てくるはずがない。わたしは質問攻めに遭い、我にもなく後退っていた。それが怯えたように映ったのだろう。彼女は口を一文字に結び、詫びるように身を引いた。つい興奮したと頬に紅葉を散らす姿は初対面より幼く見える。 「どうして溺れかけていたのかわかりません。電車に乗っていたら突然水の中にいたんです。それで兜を被った男の人がいて、あなたに助けられて……」 どこから来た、という質問にはどう答えるべきか。細かい出身地を述べるべきか悩んだが、どうやら此処は外国のようである。なぜ外国に居るのか、荷物はどうしたのか、なぜ水中で溺れかけていたのか、突き止めたい事実は数多あるけども、誠意を込めた差し障りのない自己紹介に徹しようと努めた。 「出身は、日本です」 「日本……間違いない?」 「間違いありません。日の本と書いて日本です」 手頃な小石を取って地面へ漢字を書く。スキラさんは感慨深そうに刻まれた文字を眺めた。湖水の乾ききらぬ指先で、掘られた溝をなぞる。その動作が深い哀愁を包有しておりわたしまで胸を締め付けられた。 「ニホンなんて国、聞いたこともないが。けれどスキラ殿、あなたのその様子じゃご存じなのでしょうな」 セオドレド王子が穏やかに尋ねた。スキラさんを信頼しているのが手に取るように分かる。王子は私の使う単語を納得し得ぬ様子で聞いていたが、スキラさんは彼へ向き直り、自嘲めいた微笑みを浮かべた。 「ええ、よく存じています。とても遠い国。その代わりサウロンの魔の手が決して届かない、大変豊かな国ですよ」 やはりというべきか。ここは故郷から遠く離れた場所らしい。しかしスキラさんが告げた内容は悪い事ばかりではなかった。察するに、この土地には何か悪い者がいるようだが、遠すぎるゆえわたしの国は安全らしい。 「(でもそれって、此処にいるわたしが安全保証された訳じゃないんだよね)」 複雑である。さりとて王子は淡い目を細め、更に疑問をぶつけた。 「今更だが、彼女がサウロン側の人間である可能性は」 「ないと思う。どう見ても真っ先にオークに食べられそうだし、敵が丸腰で湖に溺れているはずないもの」 「しかし誰かと戦い武器を取られたということは考えられないだろうか。それに、この姿だって我々を欺くものでは」 「いいえ。彼女の様子だと、今し方来たばかりかと……」 しばらく淡々と議論が続いた。しかしセオドレド王子はスキラさんの言い分が時々理解できない様子だった。 「スキラ殿、彼女が今し方来たばかりとは? あなたは、日本国がかなり遠い場所にあると仰っていたが、かような女性が一人で危険な中つ国を旅していたと思えない。必然、彼女は身を守る術を身に付けているはずだし、そうなると我々と敵対する勢力に組している可能性を排除できない」 「そのままの意味ですよ。彼女は今突然、此処に来たばかりだし、日本も大変遠い場所にある。だけど間者ではありません」 「あなたの言い分は破綻している。それでも信用しろと仰るのか」 「そう。女の子には色々あるんです。それに灰色のガンダルフだって、いつも意味分からないことを仰って、わしを信用しろなんて無茶苦茶仰るでしょう。彼のことは信頼して、私のことは信じてくれないんですか」 鶴の一声。かくも難しい顔で沈思していた王子は観念したように緊張を解いた。女性は、あたかも迷子になった子供へ接するように、屈んで私と目線を合わせる。 「話してくれてありがとう。深桜さん。だけど、残念なことをお伝えしないといけないかも……」 改まって悪い知らせを告げられるのは遠慮したいが、真摯な瞳に心を鷲掴みにされる。 「なんで、しょうか」 「ここローハン……いいえ、中つ国は、あなたが住み慣れた日本と大変離れた土地。物理的にも、精神的にも。あくまで経験談だけど、かなりの確率で家へ戻れないかもしれない」 どうしてスキラさんがそんなに悲しそうな顔をするのだろう。今し方放たれた言葉が右から左にすり抜けた。その刹那、発作的といっても差し支えぬような、一種霊感に近い考えが舞い降りた。思い違いでしたら申し訳ないと断りを入れて、スキラさんと対峙する。 「スキラさんもわたしと同じなんですか。その――」 ――日本出身なんでしょうか。 セオドレド王子とスキラさんの顔立ちは随分と異なる。わたしはどちら寄りかと問われれば、迷わずスキラさんだろう。しかし訊かなければ良かったと後悔した。彼女の顔から表情が剥がれ落ちたのを認め、自責の念に苛まれた。人は誰しも他者に土足で踏み込んでほしくない孤高の領域が存在する。わたしは己の問いを真と疑わなかったが、出会い頭でいささか無礼すぎたのかもしれない。 「ごめんなさい。失礼なことを伺って。ただ、ここは日本から遠いはずなのに、スキラさん色々詳しいから」 違う。ただ心細かっただけだ。同じ文化を共有する仲間が欲しかったのだ。わたしは既に分かり始めていた。これは夢ではないと。水底で出会った翁の告げた言葉が雷を振り降ろし、脊髄を貫いた。日本から外国へ遊びに行くような、そんな安い次元で考えてはいけない。そういう意味で「遠い」国なのだろう、日本は。だからこそ、聞きたかった。彼女も同じように参ったのかと。わたしの問うた意味はスキラさんなら心得てくれるはずだった。 混乱と、羞恥と、望郷と。あらゆる想いが交錯して私はさし俯いた。それを阻むように顔へ暖かな手が添えられる。セオドレド王子の手。日焼けした顔がスキラさんと並んで近くにあった。王子の綺麗な巻き毛が緑陰をわたる風に揺れた瞬間、またも頭に引っかかるものがあった。わたしは肝要なことを忘れている。没却された禍々しいものを喚び起こさなければならない――と。 湖の淡水らしからぬ塩辛いものが、頬を撫ぜる王子の指を濡らした。誰の涙だろう。わたしではない。酷薄なことに、帰れぬと告げられてもさほど悲しくなかった。実感がないのだ。そんなことを言われても。だからこれは、ひょっとすると彼女の涙かもしれない。 スキラさんは晴れやかな目元を細めると、わたしの手を取り、セオドレド王子のそれへ重ねた。 「うん、そう。私はあなたと同じ。あの時代はあまりに遠すぎて、もうほとんど記憶がないけど」 私は日本から来たけど、此処で朽ち果てると決めたんです――。彼女の言葉に潜む哀愁を理解できるのはわたしだけだった。王子は訳も分からず、合わせられた手とスキラさんを見比べる。 「深桜さん、私たちはもう帰れないと思う。少なくとも私は、何千年も生きてきたけど、一度も故郷に帰れなかった。最初はあなたみたいに戸惑ったし、途方に暮れた。だけどドラゴンに助けられたのです。それがどんな結末になったとしても、深く感謝しています。だから今度は、たぶん、私があなたを助ける番」 馬のいななきが響き、葉叢を濡らす朝靄に陽光がさんざめく。その日、わたしは黄昏を越えて、豊穣の朝を迎えた。
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