白蝶Chapter 2 LotR編
-セオドレド-

第二話 死せる竜

『これから私――ローハン第一王子セオドレドが語る記録は、大いなる年の七年ほど以前から始まる。私は、暗雲を振り払い、ようやく訪れた光の時代をこの目で相まみえることは出来ないかもしれないが、関わった人々、異国からおとなった娘御、様々な助言をくれた竜殿やガンダルフの記憶に僅かでもこの存在が残れば喜ばしい。我が父、我が王が、かつての精彩さを取り戻すその日まで、私はアイゼン川の浅瀬で悪しき者らと戦い続けよう』  セオドレドの日記「我が従弟、エオメルを讃えて」より引用 中つ国第三世紀 三○十七年 ナーリエ月 夏至の日  *  闊達で勇ましい騎士だった父が年輪を重ね、ローハン国へ鬱々たる灰色の影が差し始めたのはいつからだったろう。私が父セオデン王の嫡子、セオドレド王子として大層可愛がられていたのは、おそらくそう遠い昔の話ではない。しかし私が産声を上げた頃、既に冥王は復活を成し遂げ、中つ国の東域で闇々のうちに寝刃を合わせていた。  戴冠以前、ゴンドールの大将ソロンギルと荒野を駆け巡り、オーク狩りに明け暮れていた王の後ろ姿を私はよく覚えている。しかし嘆きの露が積もり積もったこの世界に救いの種は芽吹くのだろうか。今から二百年ほど遡った時代、冥王は微かな動向を示し、それに呼応するよう悪しき者達が活発化した。  そうだ、ちょうど火竜スマウグが北方のはなれ山を襲い始める少し前の時期だ。ドワーフ、魔法使い、オーク、エルフ――様々な思惑が重なり合う中、火竜は排され、中つ国は一時の平穏を取り戻した風に見えたろう。だが人は朽ちゆき、世界は色褪せる一方である。我が国への襲撃も増加の一途を辿り、剣を握れる年頃まで成長した若かりし私は、オークを狩りに勤しむ父の背を護ることが目下最大の仕事となっていた。  されど情勢の変化はそれだけに留まらない。音に聞く白き竜も南方王国ゴンドールから姿を消した。幼少時、夜空を旋回するそれを眺めては勇気づけられたものだが、隣で轡を並べる女性はなぜか白き塔を離れて流浪の身となることを選んだのだ。それからというものの、ゴンドールの民は竜が冥王の元へはせ参じたのだと手酷く詰り、加護を失った彼らはいつ来るとも知れぬ影の手先に戦慄いた。  ゴンドールの次はローハン――この国とて他人事ではない。氷竜失踪による損害はかの地まで及び、我が叔父も激化する戦いの中で殉職した。すべからく父は深い慈愛の心で従兄妹のエオメル、エオウィンを引き取り家族同然に育てたものの、鼻先まで脅威が迫っている事実は変わらない。  ああ、ヴァラールの神よ。私が生まれた頃、世界はもっと緑溢れていなかったか。黄金館と称えられしローハンの館もその名の通り光輝いていなかったか。絶望が善き種々の心を挫く。敗北よりも厭うべきものは、戦う気力を失い冥王のなすがまま下僕へ成り下がることだと従兄妹達と語り明かした記憶もあるが、まさに今、少しでも気を抜けばたちまち我らの心は砕けよう。  けれど渋面する父に魔法使いは力強く告げたものだ。希望を持ち続けよ。悪しき者は必ず滅びる、と。そう。私がスキラ殿と出会ったのもその矢先である。ガンダルフの紹介に預かりし彼女は多忙な老人に代わり様々な助言をくれた。翳りゆく王国を支えねばならぬ重圧に老いが速まり、急速に衰えた父も、かねてよりその人を存じていたと見える。畢竟、ぬばたまの黒髪を靡かせる竜殿はしばしばローハンへ足を向けてくれるようになった。  その彼女が、である。先日、オーク狩りの途中で不思議なものを拾ってきた。「もの」と呼ぶのは失礼に当たるだろうか。とにかくなんでも宜しい。スキラ殿は見目珍しき娘御を掬い上げたのだ。それこそ魚捕りのように、湖の底から。彼女の名は史桜といった。竜殿に似た面立ち、完璧な丸腰で丈短し衣服を纏った娘御がびっくり眼で私を仰ぐ姿は些か滑稽でもあり、興味引かれるものだった。だが不可解なのだ。史桜殿の存在、何もかもが。  遠国ニホン――とんと耳目に触れたことがない国名だが実在するらしい――よりおとなった娘御は、どうやってこの地へ参った? それほど遠い場所なのに、たった今来たばかりとはどういうことだ? 納得しているのは竜殿ただ一人。幾度問いかけても「ご説明したこと、そのままなのです」と水の月を掴むような答えしか返らない。  自明のことながら、あの娘御が敵でないことは重々承知である。これでもローハン王子の目は肥えてるほうだ。けれど気になるものは仕方あるまい。帰路につく間、私は部下を労うのも忘れ、黙々と思索に耽った。 「セオドレド。もしもーし。聞こえていますか」 「……ん? あ、ああ。私を呼んだだろうか」 「呼びましたよ。明日の予定について話したかったのですけど……お疲れなら後に」 「構わない。考え事をしていただけだ」  結局のところ、オークだらけの場所へ放る訳にもいかず、かの娘御を連れ帰ることにした。けれど竜殿は史桜殿をどうするおつもりなのだろう。エオウィンは近しい友人が出来たと喜ぶかもしれない。が、その兄、従弟は快く受け入れるだろうか。血気盛んなエオルの騎士である彼は戦友ならば頼もしいが、感情的な面が目立つ。何事もなく過ぎるよう祈りながら、不器用に馬背へ跨がる新顔を一瞥した。旅慣れしておらぬ史桜殿は二日、三日の騎馬生活で疲労困憊し、竜殿に負けず劣らず血の気が引いていた。 「スキラ殿は明日ローハンを発つのだったね」 「その件なのですが。もうしばし王子のご厄介になりたく存じます」  つい相手の顔をまじまじと眺めた。何を思ってそう決断したかは分かっている。史桜殿を案じているのだ。同郷のよしみか、竜殿はなにかと新参者の娘御へ気を配っていた。中つ国に詳しいスキラ殿と一切合切を知らぬ史桜殿――さながら墨と雪にも関わらず、私のあずかり知らぬところで二人は妙なる共感を得ているようだった。 「それは喜ばしいな。もちろん大歓迎だ。私もゴンドールについて聞きたいことが幾つか残っているんだ。あなたが居てくれるならまた教えを請いたい」  すると人に化けた竜殿は頬を引きつらせ、 「ええ……?! あれだけ質問攻めにしておいてまだあるんですか。セオドレドは本当に勉強熱心なんですね」と仰け反った。 「ゴンドール執政のご子息も勉強熱心なのだろう? 私もローハンを護る王子として負けていられないのさ」  人は多くを知ることにより安心感を得る。私とて例外ではない。では彼女はどうか。彼女とは史桜殿である。軽く言葉を交わしたところ、我がローハン国どころか、中つ国という地名さえ知らぬようだった。そんな状態で不安ではないのか。否、心細いに決まっている。だから何を思ったか、私は竜殿の背にしがみつく史桜殿へ身を寄せ、 「娘御よ。黄金館に着いたら心ゆくまで安んじると良い。あなたや民を脅かす野晒れ者は私たちエオルの騎士が討とう」と励ました。すると娘御は疲れた顔から一転、はにかんで、「ありがとう」と頬を染めた。誇り高く、容姿に秀でた王家の女にない素朴さがある。私は我が子に向ける愛情を以て史桜殿の頭を撫でた。自分に子供がいればこれくらいの歳か、もう少し幼いかもしれない。  やや日焼けした肌はここ数日草原を彷徨たせいと推し測り、若い身空で天涯孤独とは哀れだと思った。中つ国にはオークの襲撃を受けて家族を失った者は多くあれど――竜殿の話が本当ならば――突然この国へ参ったこの娘御が殊更気の毒に思えたのだ。竜殿が拾ったその娘御が、数年の後、たまさか我が運命を大きく変えようなどつゆ程も思わずに。  史桜殿は私の手が心地よいのか、安堵したように息の塊を吐き出し、それから人知れず呟いた。 「けれど……それでは、セオドレド王子はいつ安らぐのですか」  「私?」  国を統べる者は民草のために身を削る。だからこそ民は王を敬う。いったいエオル騎士の国では当たり前のことだ。ローハンの民に平穏が訪れるまで己が安らぐ場はない、と厳格な意志を植え付けられて育った私は、娘御の意図をすぐさま理解できず、大欠伸する竜殿へ助けを求めた。しかれど、その人は暢気に微笑むばかり。私は途方に暮れ、史桜殿本人へ尋ね返すことにした。 「あなたはいま、私の安らぎ、と言ったか?」 「ええ。あなたの安らぎ」  戦ってばかりで疲れそうですと真顔で問われる。困った。何も思いつかない。己が安らぐ姿さえ想像できぬ私は、それだけ暗闇の時代に馴染んでいるということか。思案投げ首、えてして頭を捻りに捻って導き出した答えはひどく陳腐なものだった。 「考えたこともなかったが……おそらく民の安らぎが私の安らぎだ。だから他に特別なものは要らない。ただオークが去り、国に笑顔が戻れば良いと願っている」  論を俟たず王子として最善の受け答えだったと思う。そうあるべきだし、私自身も常に民草のため実を尽くしたいと願っている。すると水を打ったように静まり返る史桜殿と竜殿。彼女達は互いに目を配り、見兼ねたアルカエ殿がぱんと両掌を合わせた。 「あーと……彼はのべつ幕なしこんな調子ですから。史桜さんも気を配りすぎると疲れてしまいますよ。気にしないのが一番だと思います」  どういう意味だ。含みある言動が気に掛かり顔を顰めると竜殿は愉しそうに愁眉を開き、「セオドレドはもっと肩の力を抜くべきだという意味です。このままじゃ史桜さんに心配ばかり掛けそうで」と少しも悪びれずに答えた。 「父譲りの性分をあれこれ言われてもな」  今更直しようがない。確かに従妹からも指摘される部分ではあるが、父に輪を掛けた堅物であるエオメルに比べればマシというもの。私は憮然として、受けた刃を切り返した。 「そういうスキラ殿は、もう少し真面目になったほうが良いと父が仰っていたよ」  笑いをかみ殺す史桜殿につられ、私も喉を鳴らした。竜殿は心外といった体で私達を睨む。が、ちっとも怖くない。だから、かの女性を人間と信じて疑わぬ娘御へ竜殿の正体を告げることはしばらく避けおこう、とひとりごちた。 「――ああ。そろそろ黄金館だ。今回の遠征は長かった気がするな」  それから陋屋を幾らか過ぎたところに寂れた表札がひしゃげていた。片方は西の谷、もう片方は我が屋敷へ続く方角。私は、ほら、と史桜殿の注意を促す。さもあれど、娘御は困ったように私を見返すではないか。 「そう書いてあるんですか?」 「字が読めないのか」 「アルファベットなんだろうと思うけど……見たことない文字で」  文字は読めない。けれど言葉は話せる。そもそも識字率が低い中つ国だ、ずっとこの地へ住まわっていた人間なら大いに有り得る話である。しかし彼女は「見知らぬ国へ」「来たばかり」なのである。だのに言葉は理解出来るのか。不思議なことばかり起きるな、と率直な感想を漏せば、スキラ殿も神妙に頷き、 「私もその点は不思議に思っていました。自分が中つ国へ来た時は文字どころか、ここの人々が話す言葉さえ分からなかったのに、史桜さんは理解出来ている。何が違うのでしょう」と話題へ食い付いた。 「違いか。ああ、時代ではないのか。スキラ殿はだいぶ年を召しているだろう」 「王子は私を女性と思っていませんね……?」  竜殿相手ではつい口が軽くなってしまう。これは失敬、と棒読みで謝罪すれば、お腹を抱えて笑っていた史桜殿が不意にもっともな疑問を呈した。 「じゃあスキラさんはどうやって話せるようになったの」 「それは私も聞きたい。スキラ殿のことは、私も実のところよく知らない」 「私ですか? 竜に教えてもらったんですよ。彼らはどんな言葉でも話せる高度な知能を持っていますから、拾ってくれたドラゴンとだけ意思疎通できたんです」  やにわに娘御の顔色が曇った。それきりだ。彼女は固く口を閉ざしてしまった。しかし我らがようやく城下の関所を潜り、市井に盛大な歓迎を受けた折節。城門前を抜けて再び静けさが訪れた刹那、彼女は竜殿に大変馴染み深い、とある名前をさやかに挙げたのだった。 「竜といえば、スマウグはどうしているのかな」  ――あの時の竜殿の表情。潮染む悲しみは白き面へ波紋を投げかけ、浅き息は驚愕に詰まる。うだるほど暑かった城内に霜が降り始めた。氷竜殿の動揺は一目見て分かるほど。信じられないといった表情で彼女は恐々と見返った。 「スマウグを……知っているんですか」 「えっと。スマウグと、トーリンという名前のドワーフの王様だけです」  ずっと引っかかっていたのだけど、と娘御。なぜあの竜なのだ。中つ国についててんで知識がないと思いきや、妙なことだけ知っている。竜殿は「ああ」と熱っぽく掠れ声を漏し、感情を押し隠すよう口元を諸手で覆った。私はその唇が「知っているんだ」と紡いだのを見逃さなかった。そうだ、竜殿はあの旅へ同行していた。万感胸に迫り、言葉が出ない彼女に代わって私は会話を引き継いだ。 「史桜殿はスマウグやトーリン二世がどうなったか知らないのだね」 「はい。ほんの最初しか読んでいなかったから。スマウグとドワーフはどうなったの」  読む、とは。それにしても私が答えて良い質問だろうか。スキラ殿やガンダルフがはなれ山の偉業に関わったことは誰もが知る所だが、この口から語るべきことではない気がした。殊に、多くの死者を出したあの戦いに関しては。私は騎馬に踏み荒らされた大地へ視線を這わせ、発言権を竜殿へと譲った。それに倣い、忍耐強く待つ娘御。だがスキラ殿は物言わずじまい、とうとう口を開かなかった。  エオウィンが我ら騎士団を出迎えに城から飛び出す。この話は終いだと馬を降りれば、私は娘御の下馬を助けるべく女性らしい手を取った。と、遮るように馬上から祈りにも似た細め言が降り落ちた。それは気味悪いほど無感情で、淡々として。過度な平静さは、故人を失った悲しみが未だ癒え切っておらぬことを明瞭に物語っていた。 「スマウグは……討たれました。山の下の王国は再建され、くろがね山のダイン二世がドワーフの一族を治めています」  人は長命を求める。しかし長く生きるということは、それだけ多くの死を看取り、悲しみに埋もれるということだ。死者の魂が集うマンドスの館――竜殿は今までどれほどの友人を失い、これからいくつ屍を送り出すのだろう。幸か不幸か人心を残す竜殿と、ドワーフ王が代変わりした意味を悟った史桜殿。私は咄嗟に娘御の小さな頭を片腕で抱き、絶望ひた走るこの地へ参った異国びとをいっそう憐れんだ。

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