白蝶Chapter 2 LotR編
-深桜-
第三話 波立つしじま
綾なすつづれ織りの館――絶えず涙を流す女性の傍らでわたしは大きな背もたれがある椅子に座っていた。座したこの身は硬直している。四肢を揺らすと、長い間放置されていた蝶番を無理矢理動かすような不自然なきしみを感じた。 「セオドレド王子……? スキラさん?」 黄金館へ迎えられた以降の記憶がない。けれどわたしはこの部屋を知っていた。ごく最近訪れたことがある。ローハンや中つ国なんかより、ずっとずっと身近な場所だった。小さな蛍火がふいと眼前を横切り、暁闇を憐愍に染めゆく女性の肩へ止まった。その燈は次第に強まり、瞬く間に長躯の男性たちへ姿を変えた。 蛍だった彼らは波発つ金髪を靡かせ、美しい目鼻立ちをしている。四肢があり、目鼻があり、頭があって口があるところはわたしと変わらないのに、尖った耳の男たちは名状しがたい神々しさに輝いていた。わたしは更に多くの気配を感じたが、他者と触れ合うことを避けているのか、心を閉ざした彼らはついぞ姿を見せることなく、互いに侵し合う芳しい花々の香りと気配だけを漂わせていた。 また見知らぬ場所へ来てしまったのだろうか。せっかくスキラさんやセオドレド王子と仲良くなれたのに。わたしは、この館に入ったが最後、二度とみなに会えないのだと奇妙な予感が走った。けれど凍えるような不安はなかった。ここは「中つ国」に居た時よりも気持ちが安らぐ。強いていえば、自宅のような懐かしさがあった。 いつの間にか綺麗な男性たちも、涙を流す儚き女性も消え失せ、一人呆けるわたしだけが取り残されていた。窓から外へ外へと目を馳せると豊かな叢林と豪華な庭が見える。退廃した世界、空風が吹きすさぶ辺境国と比べようもない鮮やかな彩りが視界一杯に広がって心が浮き立った。 ここはなんて素敵な土地だろう。けれど、なんて悲しい館だろう。部屋の扉は開きっぱなし、わたしは我が物顔で室内を物色してから廊下へ進み出た。天井は高く、どこもかしこも織物で埋め尽くされている。壁に掛かったそれを手に取ると、織物の下にまた織物、建物はすべて折り重なる織り地で造られていることが分かった。 垂れ掛かるつづれ織りに触れると文様が浮かび上がる。それらは美しい柄を保ちながら文字のような配列をなし、一列一列指で辿ると脳内に文字が明滅した。これは知らない文字。これは英語に似ている。これは石版に掘ったような文字だ。中でも一番多かったのはセオドレド王子に見せられた中つ国の文字らしきものだった。 「ここは日本でもローハンでもなさそうね」 姿なき蛍火は敢えてわたしと関わろうとしなかったが、追いだそうともしない。いるのが当たり前、同居人程度の認識で互いの境界線を保っているように思えた。なにはともあれ屋敷を出てみよう。家の持ち主がどこかにいるかもしれない。そしてわたしは見飽きるほどの布――沖へ雪崩れかかる波際のように所狭しと枝垂れる織物へ手を触れた。すると突如として脳内に見慣れたものが駆け巡ったのだった。 「日本語?」 東洋風の文様は故郷の言葉だった。見事な桜並木の影から雉の尾が覗いている。わたしは何と書いてあるか読みたくてついつい花弁の柄を人差し指でなぞった。 「『中つ国……第三世紀。八九九年、ひゃるめんだきる一世が生まれる。一九七五年、えあるぬあがエテン高原にて死亡。一九九九年……すらいん一世がエレボールにて山の下の国を創建する』」 綴られていたのは中つ国の生誕と擾乱の歴史だった。聞き慣れぬ名前が我先にと浮かんでは流れゆく。わたしはある年の出来事を探すため無我夢中で文様を辿った。 「二九四一年……あった、これだ。ええと……『二九四一年。トーリン二世率いる一行はビルボ・バギンズを訪問し、五軍の合戦に参加する。トーリン二世、討ち死に。スキラは山の下の――』」 スキラさん? どうして彼女の名が出てくる。わたしは読んではいけないものを読んでしまった気がして、その部分だけ大きく飛ばした。それから、もう少し先。三○○○年に入った頃を辿る。そこでまたもわたしは驚くべきものを発見したのだ。 「『三○十一年。深桜、中つ国を訪れる』」 自身の歴史である。しかし記録はわたしがローハンを訪れた旨までで、そこから先は途切れていた。織り地の柄は春から夏、秋へと様変わりしていく。冬の凍原、深雪に覆われた富士山のまっただ中で白亜の爬虫類が傍観者を睨め付けていた。わたしは屋敷を出るという当初の目的も忘れ、壁伝いに織物を辿り始めた。 すると遠けき前方、どこまでも続く直線の果てに曲がり角があり、誰かの裾が吸い込まれていくのを視認した。遠ざかる嗚咽はその人が涙に濡れたあの女性と教えてくれる。彼女が消えた角へ駆けつけると行き止まりに穴が開いていた。その蛍火を透かした洞穴、歪んだ空間の向こうで一人の男が腕組みをして壁にもたれ掛かっていた。 夜半に類した濃紺の外套と射貫くような瞳。丈低き男と視線が絡まり合うと、断固たる横顔にある種の感情が過ぎった。何かを愛でるような、そんな表情。生まれてこの方そのような経験に乏しかったわたしはこめかみが熱く波立つのを感じた。 「――思ったより早かったな。スキラよ。私は長いことお前を待っていた」 裂け目から太い腕が伸びる。わたしが慮外な出来事にたじろいで「誰ですか」と問えば、 「もう忘れたのか。あれだけ共に旅をしたのに。私はトーリンだ。トーリン・オーケンシールド」と名乗る男。トーリンとはあのトーリン二世か。彼にはわたしがスキラさんに見えているらしい。やおら指を絡め取られ、小柄ながらも分厚い胸板に身体を押しつけられた。 「誤解するな。お前を責めてはいない。私は死人だ。生き別れて五十余年、心変わりをしても致し方ないだろう。だがこの顔まで忘れるとは、愛する女を見誤ったかと思ったのだ。半世紀も離れていれば当然かもしれんが……ああ、竜はまこと身勝手で残酷な存在だ」 哀調を帯びた言葉一つ一つが突き刺さる。どうしてそんなに切なそうなの。わたしはスキラさんじゃない、といおうとして、折り節、己の肌に鱗のような煌めきを認めた。右手。左手。首までかっちり詰めた白練りの衣服。その時、わたしの姿はスキラさんそのものだった。腕を伸ばすと壁掛け燭台が柔肌へ影を落とす。すると彼もしみじみとわたしの顔を嘱目し、 「まだ人へ戻れていないのか。人心を残したままのドラゴンメイドとはつくづく面倒な存在だな」と、皮肉った言葉と裏腹に慈しみの微笑を浮かべた。 ドラゴンメイド。聞いたことがある。何らかの理由で人が竜になってしまう御伽話だ。刹那、わたしはスキラさんが何千年も生きてきたという話、ドラゴンに育てられたという話の真相を理解した。ああ、彼女は竜なのだ。冗談を言っていたのではなく、わたしと同じであってまったく違う人なのだ、と。 落ちる。墜ちる。堕ちる。そうか、ここは死人の館か。儚い蛍火も、トーリン二世も、死人なのか。そして彼と彼女は愛し合っていたのだろう。わたしは視界が暗転するままに任せ、白頭交じる男のぬくもりに抱かれながら意識を手放した。 * 「エオウィン、こちらは深桜殿。身寄りのない可哀想な娘御だ。しばらく黄金館で世話をすることにした。そしてこちらは……と、スキラ殿は紹介するまでもないな」 「おかえりなさいませ。ああスキラ殿もいらしてくれたのですね。深桜殿も、ようこそ黄金館へ」 我に返るとわたしは黄金館だった。スキラさんが居て、セオドレド王子が居て。屋敷へ迎えられた時からさほど時刻が経ってない様子である。王子と同じ豊かなブロンドを頂く女性は身を低めてスキラさんを抱擁し、彼女越しにわたしへ目配せをした。辺境国の姫はセオドレド王子の従妹である。柔和なセオドレドが白馬ならば、気高き彼女は凜と佇む牝鹿のようだ。 姫は冷たい朝日の笑みでわたしの手を引くと、「エオウィンですわ。どうぞごゆっくりなさって。なんたってセオドレドのお客人ですもの」とくるりと一回転した。俊敏な動きである。 「わっと……!」 「おっと。大丈夫かな」 遠心力によろけたわたしを支えくれた王子は「すまない。スキラ殿がいらっしゃったから気が昂ぶっているのだよ」と片目を閉じて微笑んだ。 「まあごめんなさい。けれどわたくし、スキラ殿がいらっしゃって本当に嬉しいのです。どうしてでしょう。彼女がいると屋敷が明るくなる気がしますの」 熱烈な歓迎痛み入ります、と欠伸を噛みしめながらスキラさん。先刻垣間見た翳りはすっかり成りを潜め、いまは穏やかに受け答えをしている。わたしはトーリン二世と出会ったことを伝えるべきか悩んだが、さてもあれは夢だったのかもしれないと思案する。はからずも立ち入った館――死者の魂が休息を得る建物になぜわたしが居たのか分からないが、かの女性の纏う雰囲気が灰色の魔法使いに似ていると気付くのはもう少し後のこと。巧まずして、あの場所で出会ったドワーフの横顔が瞼の裏へ焼き付いていた。 姫と王子の会話が左から右へ抜けていく。それらは薄い氷上をつま先立ちで渡る道化の諧謔のようでもあった。 「殿方はみなみな戦いに出てお行きです。なのに女は屋敷の中。一人で兄やセオドレドの帰還を待っていると、スキラ殿が残していってくれた輝きも次第に薄れ、気付けばわたくし、塞ぎ込んでいるのです。だからまたたくさんお喋りをして、あなたの元気をくださいませ」 「スキラ殿は元気を落としていくというより、何事にも動ぜぬ暢気さで屋敷を混ぜっ返していくと表現したほうが正しいだろうね」 「彼女に失礼なこと仰らないで」 エオル王家の娘はほっそりとした女性だった。わたしが出会ってきたどんな女性よりも美しい。彼女は白いドレスの裾を引き摺っていたが、スキラさんが纏う残雪のごとき白でもなく、病人が痩身を覆い隠すそれでもない。意志の強さを体現したような白だと思った。スキラさんは笑顔のまま王子を小突くと、姫へ向き直り、 「姫がお元気になるなら、訪問した甲斐があったというものです。またしばしお世話になります」 「ええ、ええ、もちろんですわ。ニムダエ殿、いつまでもここにいらして。そしてお出掛けになる時はわたくしを女という檻から連れ出してくださいませ」 織り布の屋敷は波紋ひとつ発たぬ水面、生をまっとうした者らの後悔と涙を通じて注がれる慈愛深き叡智が深いしじまを作り上げて、憂慮すべきものなど何ひとつ存在しない場所だった。だがローハンの民へ見出す押しつけがましい溌剌にはそれとは別種の心地よさがあった。あの館が完結して閉じられた「静」とするならば、中つ国は未完成に甘んじた生脈溢るる「動」である。 姫はスキラさんから軽やかに離れて「部屋を案内しましょう」とわたしを手招いた。その折りである。王子の吐息がわたしの耳朶へ触れる。彼は声を低めて、 「……あれは父も手を焼くほどお転婆でね。お務めなれど、屋敷に籠ってばかりで辟易しているんだ。これからも何かとあなたを剣の稽古や着せ替えに付き合わせて迷惑を掛けるかもしれないが、仲良くしてやっておくれ」 ローハンの楯持つ乙女――彼女は未だ十代だろう。東より迫る冬至を恐れるように、若い姫の背中は断固とした拒絶を示す鉄盾と、耐えがたい孤独を癒す止まり木を求めているように見えた。わたしは感謝と了承を示すべく目尻を細めると、スキラさんと姫、両人へ続く。 力強い騎士の王国は斜陽に染まっていた。姫は一室の鍵を開け、うっすら埃を被った部屋をわたしへ宛がった。 「数月前、薬草を採りに出掛けた侍女がオークに殺されましたの。けれどこんな情勢でしょう。わたくしも贅沢をやめて、新しい者を雇っておりません。ですからずっと空室でした。しかし……深桜殿が使ってくだされば侍女も喜ぶでしょう。斜め向かいがわたくしの部屋です。王家の人間とて不十分なく生活出来るわけではありませんが、足りないものがあればすぐにお呼びなすって」 エオウィン姫は一般の「姫」というイメージから遠い人だった。姫というのはもっと高慢で、わたしのような下々と顔を合わせることさえ厭う人種だと思っていたが、彼女は決してそんな素振りを見せなかった。気品と優しさ、不遇な世界で生き抜く強靱な魂を併せ持った素敵な女性だったのだ。 「ありがとうございます。それと、その……わたしのことは深桜とお呼びください。姫に敬称を付けて頂くほどの者ではございません」 「しかし深桜殿はセオドレドのお客人ですわ。あなたを軽んじることは出来ません。わたくしこそ、姫などと固い呼び名ではなく、呼び捨てで呼んでくださいまし」 「え……?! そ、それはなんとも……」 姫を呼び捨てとは。唐突にハードルが高くなった。自分が言い出した話題であるが、何と申し上げれば良いか閉口しているとスキラさんが助け船を出してくれた。 「それじゃ、お互いにもっと気楽にお話したらいかかです? あーと……そう。友達になればいいんですよ。年だって近いだろうし、王子のお客人なら、姫と仲良くなったって誰も文句いわないと思います」 ついでに私も交ぜて頂いて宜しいですか、とドラゴンメイドの女性は相好を崩した。物腰柔らかな振る舞い。見てくれだけならばとうてい竜に見えまい。しかしトーリン二世が嘘を吐いたとも思いにくい。なにせあの時のわたしはスキラさんだったのだから。 「まあ。それは良い案です。ニムダエ殿はいつも最良の解決策をくださいますわね。では深桜、お友達として宜しくお願いします。エオウィンとお呼びになってね。あなたも、なんならずっと黄金館に居て良いわ」 「えっと。あの、こちらこそ宜しく……ね?」 エオウィンと小声で付け加える。すると姫のかんばせはいっそう華やぎ、玲瓏な輝きを増した。しかし咲き誇った花はふっと萎み、怨じる風情を込めた悩ましげな表情へと一変した。エオウィンは伏目がちに逡巡し、 「本当に……深桜やスキラ殿が来てくださって良かった。わたくし一人では心細くて」と己をかき抱き、 「最近おかしいのです。まだ夏の盛りだというのに悪寒がして。いいえ、寒気というより、えもいわれぬ恐怖が全身を包み込んで、生きていることが恐ろしくなるのです。暗鬱とした洞穴から誰かがこちらを凝視しているような……」 気丈な彼女がこれほど恐れるものとは何なのだ。わたしたちはスキラさんの答えを待ったが、「ウーライリ」とささやかな呟きに気付いたのはわたしだけだった。 「何と仰いまして」 「いえ……姫。それはおそらく幽鬼のせいです。彼らが振りまくのは『恐怖』そのものですから」 スキラさんは告げる。見えないだけで、彼らは何かを探してローハンの上空を彷徨っているのだと。 「幽鬼は何を探しているのです」 「ごめんなさい。私の口からはお教えでき兼ねます。ミスランディアならきっと教えてくれるでしょう。でもお二方、思い違いをしないで頂きたいのは、恐れの感情自体は決して悪いものではないということです。やつらがばらまく恐怖は善き種々の心を倦ませますが、恐怖することを恐れてはいけません。それこそが負のスパイラルなんです。どうぞ悲しみに、恐れに飲まれないで。良き友人の手と手を取り合って、王子たちを支えてあげてください」 竜である彼女は恐怖を抱くことはないのか。悲しみに飲まれるなと警告したその人は、館で待ち続けるあのドワーフを想い、亀裂から迸る水脈のように血飛沫を上げて胸を痛め続けているのでないか。みなが去り、与えられたばかりの私室を静寂が支配する。生の輪廻から外れた者らが集う館――すべての活動が止まったあの館こそ人間にとって恐怖の象徴かもしれない、とわたしは考えるのだった。
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