藍傘Night 0 嵐前夜
第一夜 遠雷
一陣の光が空を切り裂く。その輝きは刀身のごとく。天に雷神の矛が轟いた。闇夜に枝分かれし、尾を引いて消えゆく稲妻は、刹那の輝きの後に唸りを上げて走る。それは裁きの鉄槌に似て、命の采配の行方を握っていた。史桜は膝立ちの状態で刃物を突きつけられていた。辺りには髪を結った男達が姿勢を低くして身構えている。刀を腰に差し、袴を着ていた。侍、もしくは武士と呼ぶのが相応しかろうか。堂々と凶器を振り回すこの男達に史桜の常識が通じるとは思えなかった。 はて、と考える。今は仕事帰りだったはずだ。夜遅く、皆が寝静まった頃にとぼとぼと路地を歩いて。その証拠に一日着続けていたブラウスは皺になっている。もう一つ、帰宅間際に紙で切ってしまった指先の傷もそのまま残っている。滲み出す痛みはあれからまだそんなに時間が経っていないことを示していた。 「(じゃあ、どうして私の命は風前の灯火なの?)」 ぐるりと一周りして導き出した結論は、やはりそこだった。人気の無い夜道を歩いていたのは史桜のみ。こんな大勢どこに隠れていたのだろう――否、そこは重要ではない。まずは、自分がどこにいるのか知ることのほうが先決だ。 「くせ者め! 上様の命を狙っているのだろう!」 前後不覚とはこのこと。何がなんだか理解出来ないまま、喉元へ刀が突きつけられる。備前長船、柄に近い刀身にその文字が見えた気がした。 「さてはお前、あやかしの類いではあるまいな!」 切っ先を押しつける力が増した。申し訳程度に喉を覆っていた薄い皮膚が破れる。冷たい痛みが走った。くせ者、果ては化け物扱い。おそらくは自分のことを言っているのだろうと想像する。だが一方で自分が陥っている状況を全く把握出来ていなかった。 「(時代劇の練習……な訳ないか)」 百歩譲ってそうだとしても、どうしてそこに自分が入り込んでいるかが甚だ疑問だ。混乱極めたこの場で頭の芯がすうと冷えるのが分かった。なおかつ冷静に頭を働かせている自分に驚きもした。 「あの、すみません」 史桜は抵抗の意志がないことの証に諸手を挙げ、 「失礼ですが、ここはどこなのですか」 「なにを申す! ここが上様の座敷であると知らずして参ったと言うのか!」 無礼な娘め、叩き斬ってやる! と意気込む男。どっちにしろ斬られるのではたまったものではない。しかし相手の覇気に気圧され反論出来なかった。悲しいかな、男達は冗談を言っているようには見えない。それがまた恐怖を助長させるのだ。 少なくとも相手が何者か分かれば多少考えがまとまるのに、と眉をしかめる。すると案の定その様子を見咎められ、 「なんだその顔は、文句の一つでも言いたそうだな」 「ええと……私は誘拐されたんですか」 思い当たる節を片っ端から挙げてみることにする。まずは確率が高いと予想される内容から。しかし史桜の目論見は外れることとなる。一つ目の問いで相手の顔がこわばったのだ。ふざけていると思われたらしい。男達の殺気が一瞬で膨れあがった。 「その脳天たたっ斬って、解剖好きな蘭方医たちに提供してやろうか」 物騒にもほどがある。しかし聞き慣れぬ単語に疑問を呈しながら食い下がる彼女もなかなかだ。 「でも自分の足で歩いてきた記憶がなくて」 「おのれ、まだ侮辱するか! 我々がそんな卑怯な真似をすると思うな!」 戯れが過ぎるぞ、と怒声が飛ぶ。父親以外の大の男に本気で怒鳴られる経験などなかった史桜は縮こまった。反射的にひっと目を瞑る。すると激昂する武士を遮り、か細く、それでいて重みのある声色が割って入った。その声は、一人絶壁に立たされながらも、まだ望みを捨てたくないともがいているような掠れを含んでいた。 「娘よ。雷と共にわしの前に現れたのはお前のほうじゃろう。家臣の言う通り、わしはおなごを誘拐なんてせんよ」 わしがされる可能性はあってもな、と彼は自嘲気味に微笑んだ。 「どなたですか」 名乗る時は自分から。然るべき礼儀も忘れて不躾に問う史桜にも、相手は鷹揚な態度を崩さなかった。 「わしは徳川家定。名ばかりの十三代徳川幕府将軍じゃ。お前はなんという」 「……史桜と申します」 名前を聞いて「やはり時代劇に違いない」、そう思うも、現代を生きる人間とはどこか違う男たちを訝しむ。彼女は歴史に明るくないが徳川幕府くらいは知っている。どの時代の幕府よりも身近で有名な権力集団だ。将軍と名乗った白髪男は赤みの強い浅蘇芳に渋柿色を襲ね、一番肌に近いところは白練りの白衣を纏っていた。くすんだ色は枯れた生命力を表しているよう。だがそれを覆い隠すように金に近い黄色で絢爛豪華な刺繍がところ狭しと施されていた。匠の技だ。落ち着いた色合いを決して損ねることなく、しかし高貴な身分の人間が身につけるべき優美さを備えている。史桜はすぐにその着物が京友禅の匠によるものだとわかった。 友禅と西陣は京着物の双頭。染めの着物とは友禅、織の帯とは品格が高い西陣の錦をさす。伊達に着物の仕事に関わって生きていない。その中でも格別良い品だ。家定はお上と呼ばれるだけあって、良い仕立て物を身につけている。一段高くなった座敷の上で多くの家臣に囲まれていた、否、守られていた男は、肘掛けにしどけなくもたれながら、食い入るように史桜を見つめ返していた。 彼女は意を決して浅蘇芳色の男に問い掛けた。この男なら話を聴いてくれそうだと思ったからだ。 「あなたは、私が自分から来たと仰るんですか」 「覚えておらんのか」 「はい」 まったくの初耳である。妖術を使って現れたのでは、と周りの武士から畏怖の混じった表情ですごまれるが、あいにくと史桜にそんな力はない。あればこの場から逃げ出すためにとうに使っている。 史桜は正真正銘の一般人、仕事帰りで疲れた身体を休ませるべく夜道を急いでいた只の女だった。その証拠に、上司から預かった着物が二着、足下に落ちている。友禅の着物だ。彼女は相手を刺激しないよう静かに屈み大切な品を小さな胸に抱えた。 「女、その胸に抱えて居るものはなんだ」 だいたいおかしな格好をしおって――と、包みを奪われそうになった瞬間だった。突然、人々のわめき声が遠のいた気がした。しかし実際は空を引き裂く轟音によって遮られただけだった。びりびりと柱が共鳴する。そう思いきや、史桜は揺さぶられるような大きな乱れを感じた。 取り囲む男達も異変に気づく。足下のバランスを崩し、壁のごとく史桜を閉じ込めていた包囲網は崩れ去った。 「揺れが……! みなのもの、上様の安全を確保せよ!」 「わ……!」 揺れと同時に部屋一帯が輝き始めた。燃えているのではない。床、壁から掛け軸まで、部屋のすべてが光を発している。男達は驚愕に固まっていたが史桜はその光に包まれることに恐怖心はなかった。むしろ、この光を越えればいま自分が置かれている不可思議な状態から抜け出せる、そう思った。無我夢中で床へ張り付く。その身を支えてくれる者は他にいない。みながみな自身の安全を図るのに必死だったのだ。しかし彼女は目を痛めるのも介せず、光を食い入るように見つめる。何かが光の帳から手を伸ばす。だからこちら側も手を伸ばした。が、揺れと、下から舞い上がる突風のせいで身体が安定せず、何度も何度も触れ合いそうになっては離れた。 そして幾度目かで二人の指先が触れ合った――はずだった。 唐突に身体が後ろからぐいと強く引っ張られたのだ。二度と戻れない、そんな焦燥が脳を駆け巡る。自分もそちらへ行かなければならないのに、と手を伸ばす。しかし大きく身を乗り出した刹那、より強い力で肩を後ろへ引かれ、くしくも史桜の願いは絶たれた。 振り向きざまに見たそれは色素の薄い金糸を携えた、先とは違う男だった。剃髪の男ばかりいるこの部屋で、ざんばら頭は酷く目立つ。だが彼に気を配る者は誰一人いない。みなはこの男が見えていないのかもしれない。男は背が高く白い着物に身を包んでいた。家定とは対称的な逞しい身体。茶褐色の内襟に黒の格子、白に映える黒い羽織物が風格を添える。史桜の瞳が赤い瞳とかち合った。 「マレビトよ、お前が帰るべき場所はそこではない」 唸るように低く、威圧するような声だった。気怠げで傲慢な話し方。しかしすべてを悟っているような、そんな深みがある。それに反して、男の表情は存外柔らかかった。同情の念さえ見て取れた。 「その手を離してください。私はあっちに行かなきゃならないの」 「無理だな」 「あなたが邪魔しなければ行けるんです」 だからやめて、と男の割に綺麗な手をなぎ払うと、瞠目する男。その影も霞のように霧散してしまう。と同時に、唐突に膨らんだ光は、現れた時と同様急激に縮み始めた。指先に走るうずくような痛み、喉元から垂れる血が要らぬ現実味を添える。 「城下で火の手が上がったぞ! 雷が落ちたようだ!」 「何人か火消しの手伝いに回れ、ここは数人で十分だ!」 「承知いたした!」 そんな掛け合いが飛び交う。その時だ。ふと、突き刺すような視線を感じた。熱い。しかし敵意ではない。それは新しく出来た包囲網――ある人物を守るために作られたそれ――の中心から注がれていた。 「家定さま、ご無事ですか!」 「よい、わしに構うな。どうせすぐ死ぬ身じゃ」 「なにを仰います、家定様には長生きして頂かなければ困ります」 生を諦めた者、それが家定の第一印象だった。酷く顔色が悪い。線も細い。死期が近いと語る彼には、どこかその台詞を納得させてしまうような儚さがあった。しかし家定公は揺れの中、不思議と直立姿勢を保っていた。病的な外観は立ち上がることさえ苦しそうなのに。その目はらんらんと燃えさかり、恍惚と史桜を眺める。幼少より仕えてきた者でさえ、長年病に犯されている将軍がこれほど生命力に溢れている様を見るのは初めてだった。 家定はぽつりと呟く。 「わしには必要なのだ。病魔に犯されたこの身を這い回る苦痛を和らげることができる物を。……のう、そうじゃろう歌橋〈うたはし〉」 歌橋と呼ばれた老年の女は頭を下げる。 「左様でございます。我々は殿のために尽力を尽くしております」 「じゃが、この身体はもうダメじゃ。どれほど探しても特効薬など見つからん。……そう、諦めていた。しかしとうとう見つけたようじゃの」 家定は滑るように史桜との距離を縮める。側仕えを任されている旗本が危険だと警告するも、 「かまわぬ、どうせ死ぬ身じゃ!」 と口癖のような台詞を繰り返して聞く耳ももたぬ。奇抜な行動、可笑しな物言い。将軍の奇行は日常茶飯事だったが、今回は今までにない利発さが垣間見えることに家臣達は首を傾げた。 史桜はその瞳に溜まる涙を認めた。 「わしなどどうでもよいのだ。それよりこの娘を守ってやるがよい。決して傷をつけてはならぬ。……この娘、わしが保護する」 白髪交じりの男は凜と宣言した。その声からは、死神を彷彿させる絶望は消え失せていた。戸惑う家臣と史桜をよそに、家定は折れそうなその手を差し伸べる。その指先が彼女に触れる直前、史桜の意識は闇に溶けた。
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