藍傘Night 0 嵐前夜
第二夜 迎火
その日は陰鬱な天気だった。天気読みが快晴だと読んだにも関わらず朝からどんよりとした曇り空。城下の者達はみな、そこに不吉な色を読み取っていた。予感が当たったのは午後六時。不吉の前兆であるかのように雷〈いかづち〉が鳴り渡る。夕闇迫る刻、人々は急に落ち着きをなくした動物達を不審に思った。――その刹那、意匠を凝らして作り上げた一世一代の城はうなり声を上げてその身を震わせたのだった。 狂ったような稲妻が幾度も城下町へ落ちる。家々は燃え上がり、人々は泣き叫んだ。安政二年、十月二日。後に「安政の大厄災」と呼ばれるその事件は、江戸幕府十三代将軍、徳川家定の時代に起こった。風間千景は煌々と輝く江戸の町を見下ろしていた。都心へ向かうにつれ被害が大きい。そこから稲妻によって燃えさかる炎が突風によって広がり、すべての家屋を灰にせんと猛火を奮っていた。 「風間、あなたも感じましたか」 「ああ、俺も感じたぞ。時空が歪んだ音だ」 赤々と照らし出された横顔。不機嫌な色を称えたその緋色は微動だにせず天霧の問いに答えた。 「しかし『本当の』マレビトでしょうか。我が天霧家は歴史が始まってこの方、一度もマレビトと遭遇したことがありません。簡単に信じていいものやら」 「いや、間違いない。あれはマレビトだ。空が、大地が唸っている。異質な者の侵入に抵抗を示しているのだ。……お前も見えよう、生命力の弱い無力な虫けらどもが怯えきっておるわ」 人々の悲鳴が耳をつんざく。時に心温め、時に我々の手となり足となって活動力の一端を担っていた炎は暴れ馬となって江戸中を駆け巡っていた。その舌先は夜空を舐め、たったいまふさがったばかりの傷口を癒やさんとする。だが亀裂の入った空を気遣い、悼もうとする者は一人としておるまい。風間は眼下でただ一つ、無傷でそびえ立つ江戸城を見据えた。この騒ぎの張本人は、きっとそこにいる。 おそらくは、日本中の鬼が異変を感じ取っているはずだ。明日にでもどこかかしらで動きがあるに違いない。だが風間は知っていた。どの鬼よりも、この自分こそがマレビトと深い関わり合いがあることを。 「大きな力を持った鬼が動くとき、空間が歪む――ですか。風間家の頭領、あなたは必ずやマレビトと出会うことでしょう」 「ふん。俺は運命なんぞに操られん。そんなものに導かれるくらいなら、自ら動こう」 すぐにでも接触するぞ、と、天霧と、たった今合流した不知火へ合図を送った。風間の独善的な振る舞いにやれやれと嘆息する天霧。彼らは偵察にきただけだというのに。やっかいなことに巻き込まれてしまったと渋面した。 易々と崖を降りる西の頭領を前に、彼は呟いた。 「時代が、動く」 予言じみた天霧の呟きが、はるか西の都、京で夜空を見上げる千姫のそれと重なった。 * 後ろに歌橋を控えた家定は別室でゆったりと寛いでいた。狂乱の興奮は去り、普段の物静かな将軍に戻っている。城下では未だ消火活動が続いているが、臣下にとって乱心した家定ほど怖い物は他になかった。将軍の乳母は史桜が所持していた着物を広げ、うっとりと眺めた。 「大層な反物ですね。こんな小娘が、どこで手に入れたのでしょう」 しかも見慣れない服を着ている。異国の者では、と問う。対する家定もさして反論が見当たらなかったらしい。 「やもしれん。我々の祖先が異国に行き、そこに住着き町となった『日本町』といものが存在しているらしいしのう」 と頷いた。 ここは鎖国の国、日本。もしこの娘が密航者ならば厳重に処罰しなければならない。だが家定が処罰を命じる様子は微塵も見られなかった。歌橋は史桜の服を正し、起こさぬようそっと布団をかけた。喉から流れる血はもう固まっている。しかしブラウスの裾についてしまったそれは洗っても取れそうにない。老女は新しい着物を用意し、脇に畳んでおいた。そして珍しく背筋を伸ばして座する将軍を一瞥した。 「起きていて宜しいのですか」 「大事ない。不思議と、この娘が現れた途端に痛みが引いたのじゃ」 「はて、どうしてでしょう」 家定は黙っている。この娘を手放す気がないのは明らかだった。痛みがなくなったとて、彼の命がつきるのは時間の問題。しかし苦しんで死ぬよりはいくらかましだ。仮に史桜に帰るべき家があったとして、ほんの数年。いや、数ヶ月かもしれぬが、自分が死ぬまでここに留まることを願っていた。家定は、こんなに楽なのは何年ぶりじゃろうと笑みを零した。頭も冴えている。いつもは痛みを紛らわすために奇行と呼ばれる行動を起こさざる得なかったが、この娘が居る限り必要なさそうだと語った。 「良きかな良きかな……私の権力を持ってすれば、小娘一人この城に留めるなど容易きこと。この歌橋、お上のお力になれることを嬉しく思います」 史桜は安らかな寝息を立てている。と、寝顔を眺めていた家定は廊下を歩く足音に顔を上げた。蘭方医が来たのだ。通せ、と命じると小柄ではげ頭の男がすり足で入室した。医者は綱道だった。若くして蘭学を学び、家定が将軍に着任して以来ずっと面倒を見てもらっている。最もその努力むなしく、家定の身体からは酒樽に穴が開いたがごとく生命が流れ出ているようだが、他の医師より腕利きだという事実は変わらない。 史桜の枕元に立った途端、綱道の口からはっと息を飲む音が漏れ出た。どうした、と尋ねると、なんでもありませんと返る。文字通り綱道の表情は元に戻っていた。綱道は脈を測り、瞳孔を調べる。そして「眠っているだけでしょう。随分疲れているようです。煎じ薬を処方致します」と薬を盆に乗せた。 「早くて今宵。明日には目覚めると思います」 それから、町の様子を見に行かなければなりませんので失礼致します、目覚めたらすぐに呼んでくださいと告げて、妙にそそくさと退室した。遠ざかる足音に耳を澄ませながら、ためらいがちに口を開く歌橋。 「しかしお上……この娘を城内に留め置くことは正しいのでしょうか」 「何故そう思う」 「今宵の厄災はこの娘がもたらしたのでは、とあの場に居合わせた家臣達の間で専ら噂になっております。むろん、口封じの対処はしてありますが……民を守るべき将軍が厄災の火種を匿っているなどと城下へに広がれば、混乱を招きかねません」 歌橋は困惑顔で将軍の意見を求めた。――以前なら、話し合いを求めるなど決してしなかったのだが。家定自身が自負する通り、少なからず史桜の影響はあるのだろう。すると家定はだらしなく姿勢を崩した。考えたくないことを強要された時に見せる癖だ。彼は、そうじゃなあ、なにせ現れ方がまずいのよなぁ、と低く唸った。あの場に居合わせた家定らにすれば、史桜は明らかに異常だった。 あの夜、ぽつりぽつりと雨が降った。と思うや否や、夜空に閃光が走った。息つく間もなく雷鳴が轟き、紙が破れるような音が鼓膜を震わせたと思ったらこの娘が現れたのだ。それも、何もないとこから。神隠しにあった娘が何かの理由で神に捨てられたのか。もしくは、百代生きた狐が妖術を身につけて将軍を化かしに現れたのか。家定は前者だと信じていた。 「お上はもうお休みになってください」 「いやじゃ」 「苦痛がなくなったというだけで、病は治っておりませぬ。お体に触りますゆえどうか私の言うことを聞いてくださいまし」 家定は史桜がまた神隠しに遭うことを心配していた。怯える家定。彼は側を離れようとしない。しかし歌橋の執拗な勧めによって、渋々自室へ戻ることにした。今宵は歌橋が手ずから看病することになるだろう。将軍家に仕える気の置けぬ忠臣、そして名もなき名家の老女はしばらく様子をうかがっていたが、いつしか船をこぎ始める。 ――再び降り始めた秋雨の中、史桜は一人、何かの気配を悟って目を覚ました。
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