藍傘Night 1 花散嵐

第十七夜 松鳥

 睦月も半ば、大晦日に慌ただしく駆け回っていた商人たちは寝正月を決め込み、英気を養って再び活動を始めんとする時分である。史桜は雪見をする男女の脇を通り過ぎて八木邸を後にした。新選組が住まうその屋敷は半ば本を伏せたような木造屋根、棟を境に両脇へ流れゆく切妻造が雪深き富士の鈍角を彷彿させる。明け六つ、紺の羽織で身体をすっぽりと覆った史桜は前川邸を目指して足を速めた。  世間は既に小正月を過ぎている。江戸城でも巨大な門松が片付けられ、粛々と政が再開された。史桜はかじかむ手を擦り合わせ、もう一つの「新撰組」居住区で歩みを止めた。東にさんざめく朝日。界隈は賑わいを取り戻しているというのに異様な静けさが前川邸を包み込んでいる。寄りそうようにして足元へ這い寄る冷気が正体不明の悪寒を呼び覚ました。「新撰組」隊士達は寝入った頃だろうか。史桜は足音を忍ばせ閑散とした邸内を伺った。そうして安全を悟ると心許なげに傾いた玄関前の締め飾りを取り外した。 「山南さんの言う通り、か」  これを新八と共に飾ったのは先日のこと。やや歪んだ結び目から兄の大雑把な性格が伺い知れる。以後、誰かが外すだろうと八木邸の人間も史桜も気にしていなかったのだが、血に狂いかけた前川邸の隊士に世間の祝事へ気を配る余裕を期待するのは酷だろう。不審に思った近隣住民が邸内へ押し掛けては困ると物静かな総長は翌朝彼女を遣わしたのだった。 「それにしても……綱道さんはどこへ行ったのかな」  町人街を練り歩く行商人、暖簾の埃を払って店開きの支度を始める町人――人斬りや過激攘夷派より遙かに恐ろしい化け物がこんな身近にいるなど誰も想像しまい。史桜はかつて人体実験に関してあれほど旗本と対立した自分が、こうして実験を行っているという事実に純然たる疑問を抱いた。  歯止めを掛けてくれる家定はいない。人体実験の反対派筆頭だった井伊大老も死んだ。滑稽なことに、幕末という時の流れが変若水の実験を後押しているように思えてならなかった。  ――時代は、それを望んでいるのか。  罪悪感に勝るとも劣らぬ恐怖が彼女を包み込んだ。風間という鬼に指摘されるまでもない。動乱の芽はここかしこで芽吹いている。彼女は己が後戻りできないところまで来てしまっているのだと悟った。だというのに、発案者である当の綱道からは何ひとつ音沙汰ない。数ヶ月前、新撰組へ薬の説明をしたきりあの鬼は忽然と姿を消したのだ。薬を開発するという実質的な業務は山南へ移ったといえど捨て駒にされた気分であった。 「(綱道さんは何を企んでいるんだろう。千鶴ちゃんにまで秘密にするなんて)」  あれほど可愛がっていたのだ。鬼族の復興を誰よりも望んでいた綱道が治安の悪い江戸に娘を一人置き去りにするとは思えない。気を揉む新選組面々の傍ら、綱道の復興計画――無論、詳細は知らされていない――に狂いが生じたのか、と正月飾りを握り締めた。  その刹那だ。とさ、と前川邸の瓦から積雪が降り落ちる音が耳朶を打った。と同時に彼女の影が踏まれ、それから蚊の鳴くような微かな音が自分の名を呼ぶ声だと気付くまで数秒を要した。 「沖田さん?」  新選組局長を深く慕う若き剣士。かつ、最も折り合いの悪い男の登場である。今朝の彼はだんだら模様の上着を羽織っていなかった。となれば散歩中か。しかし今は隊士揃って食事をしている時刻であると思いなし、先に浮かべた案を消し去った。ではどうして彼はここにいるのか。薄く開いた口腔から覗く紅、肩で息をしている沖田は着流し姿のまま袴さえ履いていなかった。その瞳に苛立ちと、嫌悪とも相異なる別の感情を読み取る。それは風と戯れる几帳のごとくおぼろげなものであったが、迸る不快感は確かに沖田を支配していた。 「お、どろいた……なんで君、五体満足なの」 「……は?」  死んだかと思った、と不穏な呟きを小耳に挟む。しかし訝しむ史桜を余所に、彼は用心深く前川邸を仰いだ。 「君が一人で前川邸に行ったって聞いたから、驚いてさ」  数本向こうの道から新八の声も聞こえる。どうやら沖田が一番乗りだったようだ。だが史桜は菊小袖の袂を引き寄せ、叱られまいと弁明した。 「山南さんに頼まれてこちらに参ったのですが……」  加えて言うなら彼女が前川邸にいても何ら不自然なことはない。なぜなら以前、史桜は薬品庫を破損した罰で、原田、新八と共に前川邸の掃除を一ヶ月言いつけられていたのだから。だのになぜ今更それほど驚くのか。焦燥する沖田の真意が理解出来ず困惑した。  すると無言の内に秘められた問いかけを理解したのだろう。沖田は例の微笑みを浮かべて愛刀の鞘を撫ぜた。 「あーあ。そんな顔されるなら、慌てて探しに来なきゃよかったかな。折角心配してあげたのに」  昼間ならともかく、明け方ではまだアレが活動しているかもしれないでしょ、と男は口疾に眉をしかめた。 「君なんかでも居なくなったら困るんだ。言い出しっぺはちゃんと責任とって最後まで僕らの仕事に付き合ってよね」  綱道が失踪した今、彼らが教導を仰ぐべき人間は史桜のみである。新選組にとっても史桜にとっても不名誉この上ない信頼ではあるが、彼女を失えば幕府のお咎めは避けられないと副長は踏んでいたのだ。詳細を心得た彼女は、いつも一人で来ているのだから心配無用だ、だが以後気をつける、些事に付き合わせて申し訳ないと大人しく肯う。すると男は容赦なく吹き付ける寒風に身を震わせた。小寒を迎えた京の冬はにわかに沸き上がる幕末を凍てつかせ、転覆を謀る反逆者、生き血を啜る吸血鬼たちへ平静さを諭しているようだった。  その時史桜は、ようやく追いついた兄の姿を認め、帰宅を促した。 「風邪を召してしまいます。立ち話もなんですから戻りませんか」  このままでは本当に沖田が身体を壊してしまうと思った。よほど寒かったのだろう、男も不承不承といった体で従うと史桜の隣へ並び、大手を振る新八目指して歩き始めた。 「ああ――そういえばあの子」 「え?」 「あの千鶴って子」  いくらも歩かぬうちに沖田が沈黙を破った。半月前、新選組へ転がり込んだ男装娘のことである。史桜千鶴が友人だと知る沖田は、不遇に文句ひとつ言わず男所帯で軟禁される妹分について下された新たな処分を、無関心そうな口ぶりで告げた。 「幹部の誰かが一緒なら、あの子、外出しても良いことになったよ。護身術も身に付けてるみたいだし」 「外出許可が出たんですね。良かった。軟禁状態が続くようでは可哀想ですから」 「ふうん。その割には、君、待遇改善してあげようとしなかったみたいだけど?」 「何度もお願いしたのに、はね付けたのは沖田さん達では……」 「はいはい。そうでした。君は実験以外の権限ないもんね」  沖田との会話は逐一嫌味が交じる。だが慣れとは恐ろしいものだ。右から左へ聞き流すと、裸一貫、沖田と同じく刀のみ所持して駆けつけた兄と合流した。ただ少し、一番乗りの沖田と違うのは、口元にご飯粒が付いていることだ。ご丁寧に朝飯を平らげて来た兄に笑いを隠せなかった。同時に、千鶴が早く新選組に溶け込めれば良いと思う。少なくとも、新八や原田となら仲良くやれるだろう。  そうだ、部屋へ戻る前に菓子を持って顔を見に行こう――唐突な思いつきは妙案に思えた。史桜達は納豆売りの囃子を背に賑わう市を擦り抜け数刻も経たぬうちに屯所へ舞い戻った。そうして下駄を脱ぎ、午後にある山南との打ち合わせに思いを馳せつつ粉雪を振り払っていた折りである。 「ま、あの子に関してはそういうことだから。だけど史桜ちゃん、君はあの子を連れ回しちゃダメだよ。変な気を起こして逃がさないとも言えないし、ひ弱な女の子相手なら力尽くで逃げることだって可能でしょ」  擦れ違いざま。沖田が囁いた。 「千鶴ちゃんは逃げないと思います」 「どうだろうね。僕はまだ、君も、あの子も信用してないよ。でも、面白くなりそうだとも思ってる」  不安に浸されているのはどちらだろう。史桜か、沖田か――柔らかい肉の合間に吸血鬼たちが刀を滑り込ませる姿が脳裏にちらついた。だがそこには滴る紅もなければ青ざめた瞼もない。彼女にとって屍肉から漂う芋の香りだけがこの世を現実たらしめるものだった。訴えるような黄緑色――塗り立ての漆に残された指跡を辿り綴り字を読み取る作業に似た病患こそ、幕府を揺るがす動乱の囁きであった。  時は未だ乱世。ただただこの途を進む新選組と命運共にする少女達は漠々たる世界へと命融かして使命に果てていく。 一章完結

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