藍傘Night 1 花散嵐
第十六夜 瓶墨
天秤は決して都合良く傾いてはくれない。動乱の意志は手を変え品を変え時を流れ、気の赴くままに御霊を抜き取る。史桜にとって、余命あと何年、などと言葉は泡沫のような儚い実感しかもたらさぬものだった。 史桜は僅かな間視界が暗転していた。だが何者かの放つ遠々しい無言の愁いが意識を呼び覚ました。桃とも桜ともわきまえがつかぬ水滴が肌を濡らし、永倉家の義母がしつらえた着物に点々と染みをつくる。消毒薬と麝香〈じゃこう〉を混ぜたような香りが口内に広がった。ちり、と指先に走る痛み。滴る雫から目を庇い薄く開けた瞼越しに視線を泳がせると、棚に並んでいるはずの硝子片がへたりこんだ足下で散り散りになっていた。額を拭い、唇についた液体を舐め取ろうとする。だがその行動は何者かによってすかさず阻まれた。 「お、おい、舐めるなよ」 愁いの正体は原田であった。しかし青ざめた顔を見定める隙もなく、降り落ちた戒めともども口元に摩擦が与えられる。甘ったるい薬品にきめの粗い麻の香りが混じり大きく咽せた。距離を取らんと手を伸ばしざま血糊に染まった指先を認める。先ほど暴走した平隊士のものだ。手元に咲いた紅が家定公のそれと重なって、まるで天地が倒錯したような錯覚に陥った。なんてこった。焦燥した男の声が素通りする。 「史桜、すぐ山南さんを呼んでくるから待ってろ」 「私なら大丈夫ですので」 原田がくれた布で水滴を拭き取りながら紺絣の袂を強めに引き寄せる。狼狽した男の顔が娘の瞳を見下ろした。 「んなわけねぇだろ、変若水は危険だって言ったのお前だろうが」 「いえ……この棚の試薬は四十倍に薄めたものですからほとんど効果ありません。濡れただけです。どうかお気になさらず」 刹那の間にラベルを読んだらしい。一呼吸置いて男の顔を伺うと彼は躊躇しているようだった。確かに史桜は変若水に関する知識を豊富に持っている。原田など比べようもない。その女が構わないと言うのだからこれからの信用も兼ねて判断を委ねるべきだろう。だが、万が一はないのか。ラベルを貼り間違っている可能性も皆無といえまい。「試薬」の時点で常に危険は伴っているのだ。 原田は腰を屈め、史桜の額に張り付いた前髪をたわやかな手つきでかき分けた。何にせよだ。変若水に害があろうとなかろうと彼女が危ういことをしでかしたことに変わりない。なんてったって試験管の破片で怪我をするかもしれない。棚が倒れてきて押しつぶされる危険だってある。原田にとって史桜は守ってやるべき存在なのだ。 「あのなあ、危険がないならどうして庇うようなことをしたんだ」 「万が一原田さんが狂ってしまったら、止めるのは一苦労でしょう?」 彼女の口から「万が一」が飛び出た瞬間、氷水を浴びせられたような玲瓏さが原田の全身を駆け巡った。可能性を想定していたにも関わらず前に飛び出した娘へ物恐ろしさと一抹の寂寞を感じたのは思い過ごしだろうか。だが史桜は動じない。原田は途端、今まで心の奥底にあり、不思議でならなかったしこりの謎が解けた――決してか弱い存在ではないのにこの少女を労りたくなる理由が。 「安全じゃないかもしれないと、分かってたのか」 「原田さんにとって、です。薬に触れたことのない人は過敏に反応するかもしれません。その点、私には経験があります」 「だとしても、お前だって安全だと限らないだろ」 「……はい。すみませんでした」 分かっているのか分かっていないのか。とりあえず謝ってこの場を収めようという調子で気の抜けた返答が返る。透明な水底に落とされた墨が少しずつ脱色され、瓶全体が桃色へ染まる様がまざまざと原田の脳裏へ浮かんだ。庇われたのは彼であるのに、変若水の底知れぬ脅威の前で己が丸裸のまま立たされているような心細さを感じた。 史桜が変若水へ関わるようになった切っ掛けを知りたい。原田はわれ知らずそう思った。なにせ彼女は仮にもお上が大切にしていた人間だ。だのにこんな危険な薬へ触れさせるだろうか。伏せられた睫は白練りの頬へ影を落とし潤みのある瞳に涼しげな艶を与えている。眼前に腰を下ろす少女が言葉以上に繊細に見えた。いつだったか沖田や土方が――ほんの一回あるかなきかだが――史桜を褒める言い訳に「気性の激しい江戸女」という言葉を使ったことがある。しかしどうだろう。座しながら試験管の破片を集める娘は「江戸女」とは似ても似つかぬ大人しい少女だった。 「まったく……。男のほうが身体は丈夫なんだ。そういう時は気軽に任せりゃいい。何かあってもお前の兄貴がどうにかしてくれるさ」 「そうでしょうか……」 「じゃなくたって副長や局長だっているだろ」 「沖田さんも、いらっしゃいますしね」 嘆息に乗せてはき出された台詞は苦笑を含んでいた。 「とりあえず医者に診てもらうぞ。新選組にも腕利きの医者がいるんだ。ほら、立てないなら背負ってやる」 「本当に大丈夫ですから」 大事になって胃洗浄なんてされたらとんでもない、と。つい本音がこぼれ落ちたらしい。原田は軽い拳固を一発お見舞いしてやる。 「いたっ」 「馬鹿野郎、そういう問題じゃねえっての」 なるほど。隣で頭を擦っている史桜という少女は劇薬を被っても泰然と振る舞う。家定公に仕えていた経歴を紐解けばその要因は少なからず察することが出来ようが、しかし原田にはこの娘が生来そうであったように見えない。そうではなく、何かそう振る舞わなければならない理由があるように感じてならなかった――おそらく尋ねたところで教えてくれるはずもないが。同情を否むこの女を憐れんだところで鼻で笑われるに決っている。 薄膜を隔てているようなどこか寒々しい隔絶を感じながら原田は少女が立ち上がるのを助けてやった。 「後片付けはどうしましょう……。隊士の方は普段こちらにいらっしゃらないと伺いましたけど、さすがに放置は出来ませんよね」 「だな。やっばり山南さんに報告したほうが無難か。お前を先生に預けた後いってくるさ」 「私なら一人で行けますから、早めにご報告したほうが宜しいんじゃないでしょうか。説明するより先に沖田さんや土方さんに見つかったら面倒では」 「馬鹿言うな。お前の安全のほうが大事だろ」 「原田さんは気にしすぎですって」 史桜の呆れたような視線が突き刺さる。心配しているだけなのに何故こんな冷たい扱いを受けなければならないのか。原田の目がそう語っていた。 「――前言撤回か。やっぱりお前は江戸女なのかもな」 「どういう意味ですか」 「なんでもねえよ」 原田は苦笑し、羽織を頭から被せて部屋を出た。女がいるだけでも目立つ屯所だ。裏口から忍び出て直接医者の家を訪ねるべきか。丁度出口の向かいに新八の部屋があった。後のことは史桜の兄に任せ自分は報告にいくのが上策だろうと告げ、寝息の聞こえる部屋の障子を開けた。 「新八、おい、新八起きろ」 「んあ? なんだ左乃かよ……折角良い気分になって寝てたってのに起こしてくれるなよ」 「悪いな。頼みがあんだよ、ちょっといいか」 「頼みだあ? 酒一升瓶で手打って……っておい史桜もいたのか。どうしたんだ、ずぶ濡れじゃねえか」 原田がことのあらましを説明する間、史桜はやや乾いて固くなった毛先をつまんだ。薄めたといっても薬に変わりない。医者に掛かるより先に水浴びしたかった。この隙に逃げてしまおうかと脳裏を過ぎるが原田は真剣そのもの。申し訳が立たないと考えながらくしゃみをひとつ。気化熱で体温が奪われ身体が冷えていた。だからぬくもりを逃さぬよう羽織を引き寄せたその折りである。聞き覚えのある声と共に、頼りとしていた羽織りが唐突に剥がされた。 「ねえ。薬保管庫が随分荒らされてたけどどういうことか詳しく教えてくれるかな、左乃さん、新八さん――史桜ちゃん?」
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