虎落笛Lost 1 四面楚歌編

第一鳴 儚き逃亡者

 小夜風に降り落ちる紙はさながら綿雪のごとく、墨の抜け落ちた雪原を渡る。戸惑う女にそれは告げた。全ての元凶はここにありと――。  荒々しい蹄が群を為していった。張遼率いるしんがりの一団は昼夜徹して本隊を追い捲る。あと一日もあれば合流できるだろう。かいなで眠る娘の睫がぴくりと震えた。激しい揺れに因らず、深く寝入っている様子である。自分の側で安心してくれたのかと思うと人知れず笑みが零れた。 「もう少しの辛抱ですぞ」  夕日に照る透いた鼻筋。身じろぎしたところに声を掛けると史桜は瞼を降ろしたまま微かに頷いた。滑り落ちぬよう張遼の服を握る掌は手綱を握り続けたせいで血が滲んでいる。戦に情けは無用。わかりきったことだが妙齢の娘に酷なことを強いた境遇に憤る。出逢ったころはもっと綺麗な手をしていた。そんなことを考えていると幾らか血の気が戻った顔で女が問うた。 「一体どこへ向かって」 「徐州だ」 「もう袁紹さんは……頼らないのですか」 「一度仲違いしているゆえ。おおむね、呂布殿は仁徳ある劉備殿を頼るおつもりだろう」 「……そうですか。受け入れて、くれるでしょうか」  おそらく、と答えた張遼の声が掠れた。  呂布が董卓を殺し都を落ち延びて数年、彼らは主を変え土地を変えて延命した。しかし主君殺しに親殺しを重ねた汚名は拭いがたく一行の背に暗光を投げかける。ひと所に留ろうとすればすぐさま刺客が送られ逃避行を続ける日々に上司――呂布も辟易していることだろう。であるならば拾われたばっかりに流浪を強いられる史桜にとってこの状況がいかに過酷か議論する余地はない。 「本隊、なんだか随分急いてますね。そんなに一大事なのかな」  不意に漏れた疑問。張遼は呆れずにいられなかった。なんのために自分が最後尾を任されたとお思いか、と嫌味を突き刺したくなる。それでもなんとか飲み込んで 「呂布殿の首に賞金が賭けられたのはご存じだろう。したがって我々を狙う刺客は有り余るほどいるのです」とだけ返す。すると「追いつかれたら危険ですね」と理解してるんだか分からない暢気な調子で女は頷いた。  追撃部隊を撃退しながら勤めるしんがり。それが孕む危険は計り知れない。一石二鳥を狙ったと言えその中に彼女自身が含まれていることは相当な賭けであった。だからこそ張遼は他人に任せて置けず、いまここに在る。 「追っ手は巻いたが、敵も我々が徐州を目指している情報は掴んでいよう。徐州へ入る前に一戦あるかもしれん。心しておくように」  彼にしては口疾な調子で言い含めると 「まさか他人の領土を攻撃する訳にもいかないですものね」と史桜はくすりと笑い、「無事辿り付いたら、呂布さんは徐州でどうするつもりだと思います?」など問い掛けた。 「それは……」  倫理や徳を軽んじ己が武のみに生きる呂布である。大人しく劉備の下に収まっていると考えにくい。曹操の濮陽を奪ったごとく恩人を脅かすくらい容易にしよう。みなまで口説するのを躊躇った馬上の人を見て、女はふと頬を緩めた。 「みんな腰を落ち着ける場所を得られると良いですね」  まるで他人事の呟きである。岩のくぼみに堪った雨水が軽妙に笑った。蹄の響きが水面を揺らした。彼女の言葉は規則正しい波紋を乱したが、それさえも興だと言うように、時雨に濡れぼそった木々がさわめいた。  史桜を拾ったのは貂蝉である。斬り付ける敵兵から庇ったのは張遼である。宛てもない旅に同道させると決めたのは呂布である。みながみな史桜に関わることを決めた。すべては本人のあずかり知らぬところで起こってしまったが彼女はいま、果たして幸福なのだろうか。 「史桜殿はなぜ我々に同行しているのだ」 「張遼さんこそどうして呂布さんと一緒にいるのです」 「む。それは……。戦場をおいて他に我が武を誇るに相応しい場所はない。呂布殿の側は常に戦の匂いがするゆえ、私のような人間が呂布殿に惹かれるのは道理かと」  若造の頃、人中最強の武に憧れたのは間違いない。 「しかしあなたは違う。敢えて自分から死地へ向かう必要はあるまい」  これでは本隊と合流する前に逃げろと告げているようなものである。長年の逃避行で、上司に対して払拭しきれぬ心緒が芽生えていることは否定できなかった。しかし女は、安全な場所で生きたとしても居場所がなければ幸せなんて感じられませんよ、と返した。  史桜を拾ったこと、それは貂蝉にとって単なる同情だったのだろう。  史桜を拾ったこと、それは呂布にとって単なる気まぐれだったのだろう。  では張遼にとってどんな意味があったのか。彼女は呂布のように敬うべき存在でもなければ、貂蝉のように慈しみ可愛がる存在でもない。少なくとも、かような娘が戦場に在れば、無視をされるか断ち斬られるかが関の山である。しかし数年も共に在れば情が芽生えるというもの。数年の歳月ですっかり守り役が板についた張遼は、馬さえまともに乗れなかった頃の女に思いを馳せた。 「そなたは心から呂布殿を信じておいでか。いつか……いやよそう」  部下が聞けば反逆の意有りと捉えられかねない言動である。しかし張遼は、腹心である自分でさえ不安を覚えるのだから、呂布の世は遠からず途絶えるだろうとどこかで予感していた。 *  行きがかりの竹林で野宿を始めて間もなく劉備に謁見した呂布から連絡が届いた。徐州で受け入られた旨を綴る内容に胸を撫で下ろす。劉備ならば寝首を掻かれる心配もなかろう。やおらかんばせを輝かせた史桜に部下一同も笑みを零した。 「これでしばらくみなさんも休めますね」 「うむ。そなたもよく頑張られた」  哀愁が潮染む希薄な笑みで女は目尻を細めた。しかしその様子を見ても伝令兵は留まったままである。臆病風に吹かれた蒼白さに不穏な空気を察した。まだ何かあるのか。部下の興をそがぬよう張遼が低い声音で問い質すと、伝令がびくりと戦慄いた。 「あ、あの……それが……先ほどこちらへ参ります前に動物の足跡を見つけまして」 「足跡?」 「はい。鳥のような……巨大な。猛禽ならば危険です。どうぞお気をつけを」  油断している今だからこそ。疲れているだろうに、伝令兵は拱手するとぱっと栗毛に飛び乗り獣道を引き返していった。 「鳥、か」  たまさか飛び出た話題に好奇心が首をもたげる。そういえば史桜は動物が好きだ。可愛らしい小鳥を手懐けて戯れている姿を見掛ける日も珍しくない。索敵がてら軽く捜索してみるかと独りごちり、厳戒態勢を敷いて水平線に落ちる夕暁を遠見した。  それから張遼が異変に気付いたのは三日月が西へ沈み始めた卯の刻だった。焦げた匂いがつんと鼻孔をつく。馬の嘶きを聞いて飛び起きると、暗鬱とした薄暗い森は一面火の海だった。謀れたか。厳重な見張りを置いたにも関わらず気付くのが遅れた。ここまで気配を伺わせなかったのは敵の策だったのかもしれない。部下が安臥していた場所は燃え広がる劫火に飲まれ、生死の判別がつかなかった。 「くっ……なぜ気付かなかった」  警戒の声が上がらなかったということは見張りは全員殺されてしまったのか。しかし己ならば気配に気付いたはずだ。午後の雨で濡れていた森がこれほど燃え広がるには、ある程度時間が必要だろうから。ええいままよ。張遼は生きている馬に飛び乗ると人の気も知らず赤々と煌めく海原を駆けた。 「史桜殿! 居たら返事をなされよ!」  彼女が生きている可能性は限りなく低い。しかししんがりを請け負った以上、放り出して逃げ出す訳にいかない。男として、そして武人としての意地だった。 「誰か! 誰か他に生き残っている者はいないのか!」  木々が爆ぜる音がごうと響いた。このまま留まれば張遼の命も危なかった。単騎残された騎馬隊長は嘲笑うかのように触手を伸ばす絶望を振り落とし、観念して火の気が弱い東へ馬面を向けた。その時だった。巨大な影が眼前に立ちふさがった。黒い猛禽類。宵闇を映した毛艶の良い体躯は縮れることもなく、みるみるまに膨らみ広がった翼が炎の中で異様な存在感を示していた。 「生き残った者がいるのか。感心だ」  それは流暢に人語を操った。堂々たる口ぶりに男は鋭く両手斧を構える。 「貴殿は……此度の火災を引き起こした張本人とお見受けする。問う、何者だ」 「なるほど、胆も座っているか」 「答えよ!」 「そう急くな。史桜とかいう世迷子を探しているのだろう」 「行方を知っているのか」 「無論。あれは世迷子だからな」  会話が上滑る。しかし猛禽は張遼が最も知りたかった問いを探り当てた。黒いそれは舌先を伸ばす炎を踏みつけ――足裏は熱くないのだろうか――鷹揚に身体を捻った。知性を称えた凶鳥が一声鳴きかけると帰途を遮る火の壁が割れ向こう側にか細い肩が見える。背を向けていたが、黒髪を縛る結い紐が探し人であると告げていた。 「史桜殿!」  ゆるりと女が見返った。煤だらけの彼と異なり彼女は五体満足でまっさらな姿をしていたが足下にはひたひたと紅が滴っていた。馬上の人間を認めると彼女に怯えたような色が灯る。 「ご無事か、史桜殿!」  ああ、この科白も何回目だろうか。切羽詰まった状況なのにそんなことが過ぎる。世迷子と呼ばれた女は心なし狼狽し足下に散る血潮を踏み締めた。奇妙だ。彼女は怪我をしていないのに。一体誰の血か? ここで戦いでもあったのか? ちらとも痛がらずそれを見る女の目付きは、猛禽へ向けるのと同様、名状しがたい恐怖を孕んでいた。 「人語を解する鳥よ、彼女に何をした」 「なに。猛火から救ってやったというのに随分な物言いだ」 「それは有り難いことだが、森を燃やした張本人がのたまう科白と思えんな」 「ほう。我が犯人とは一言も申しておらなんだよ」  鳥が喉を鳴らした。威嚇というより、笑顔を見せるような塩梅で音が弾んでいた。 「まあ良い。ご託は要らぬ。世迷子を連れて早々に去りゆけ。お前達が徐州に入るまで、我が追っ手を留め置く」  ――最も、こんな山火事があっては近づきたくても近づけないだろうがな。  猛禽は優雅な翼で史桜の背を押すと紅蓮へ消えていった。仙の類いだろうか。炎を纏う様は朱雀を彷彿とさせたがどこまでも掴めぬ猛禽に幻惑される。が、張遼は我に返ると、根が生えたように立ち尽くす史桜をひょいと持ち上げ東へ東へと駆けた。  あれの言った通り誰ともすれ違わなかった。人が逃げ惑った形跡も、敵が待ち伏せしている様子もない。彼らは人気の無い森樹木の間を暁光に向かってひたすら走り、劉備の支配地を目指して、いまだ統一されることのない乱世を迷走した。

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