虎落笛Lost 1 四面楚歌編

第二鳴 雪火の籠城戦

「張遼さん、お待ちください!」 「史桜殿。そなた下ヒ城内にいたのでは」 「はい。ですが陳宮さんから伝令があるんです。呂布さんと共に城内へ留まっていらっしゃる侯正殿らに不穏な動きあり、と」  矢傷を負いながら戦場を疾走して来た女は、二年前より随分と馬術の腕を磨いたようだった。 「先日の一件以来、侯正殿が諸将らと結託して反乱を企てているとのこと。また、曹操軍が水門に向かって移動しているようです」 「水攻めの可能性はあらかじめ陳宮殿から聞かされていたが、やはり動いたか」  先日の件とは、禁酒令を出した呂布が酒盛りしていた侯正らを叱責した事件に他ならぬ。にしても、なぜ史桜が伝令兵まがいな真似をしているのか。此度は激しい戦である。だから城の奥へ隠れているようにきつく言い含めたはずだが。視線がかち合うと、 「あっ……ええと。ち、違いますよ。別に戦場に出たかった訳じゃありません。伝令兵がやられてしまったのが見えたので」と叱る前に先手を打たれる。いま無理に呂布が出陣して総大将を失う訳にもいかず、かといって籠城する他の面々が動くわけでもない。それで仕方なく――むしろ嫌々――彼女が参った。しかし誰に伝令すればいいか分からず、親しい張遼を頼ってこちらへ向かったらしい。  嘘は混じってなかろう。一行が徐州へ降って以来、史桜が戦場へ赴く機会はとんとなかった。此度もまさかこのような形で出陣するとは夢にも思っていなかったはずだ。それだけでも呂布軍の苛烈な現状がうかがい知れる。曹操軍は徹底的に呂布を追い詰めるつもりだが、なればこそ激戦地において史桜が右頬や腕に滲む矢傷だけで済んだのは奇跡的だ。 「私がこっそり出てきた時、相手側の軍師は跳ね橋を降ろすために中央で戦闘中でした。それと水門には賈ク殿が向かっている模様。あちらの将を助けに向かうべきかと思います」 「そうか。では水門へは私が参ろう。敵を動揺させたいので内密に頼む。して史桜殿はこれからどこへ向かわれるつもりか」 「そうですね。私は反乱を止めに――と言いたいところですが……」  女は言葉を濁す。整った眉が八の字を描く。 「張遼さんと共に進んでも構いませんか……?」  彼女は侯正を説得するほど彼と親しい訳ではなかった。仮に説得へ向かったとして、激昂されれば太刀打ち出来ずに殺される。無駄死にするくらいならばあなたと共に戦場へ、と女は笑った。邪魔になるようなら見捨ていい。そう啖呵まで切る。冬月の透明な日射しに照り明かされる女、異国からおとなったいたいけな娘、見知った彼女らしからぬ大胆な発言に張遼は口を結んだ。  ろくに剣を扱えぬ人間が吐いた台詞と思えず場に不釣り合いな笑みが零れた。女というのは土壇場に強いらしい。否、半ば自棄なのかもしれないが、勝算がないと悟って籠城を決め込んだ女官に比べたら頼もしい限りである。 「宜しい。ついて参られよ。曹操軍相手ならばそなたの馬術でも逃げ切れましょうぞ」  張遼率いる騎馬隊は愛馬の腹を蹴ると雲霞のごとく地響きを立てて敵陣を横断した。戦えぬ女を連れて敵将と相まみえようなど褒められたものではない。しかし史桜を戦場に放っては却って集中力を欠く。彼女が咄嗟に下した決断はあらゆる状況を鑑みて最善であり、張遼の士気を大きく上げた。 「史桜殿、出来るだけ身を低くされよ!」  兵を蹴散らしつつ、震える声で手綱を操る女を一瞥した。上達したものだ。以前の逃避行では曹操軍にしてやられたが、伊達に呂布に付いて各地を彷徨った訳ではないらしい。安心材料をまたひとつ得て、張文遠は意気揚々と獲物を薙いだ。  それでも敵の数は圧倒的であった。次から次へと白刃が掠り――致命的な怪我は避けられても史桜の四肢に傷が増えていく様は痛々しかった。せめて籠手や鎧くらい纏って来ても良かったろうに。とはいったものの、それだけ火急だったのだろう。もしかせずとも、陳宮はわざと史桜の聞こえる範囲で話したのではないか。ならば三ヶ月もの籠城で士気の低い呂布軍が勝つため、彼女にはもう一つ課せられた仕事があるはず――が、張遼の煩雑な思考は新たな敵の登場によって寸断された。  やにわに、蛙が潰れたような悲鳴が響いたのだ。声の主は言わずもがな。敵騎馬を斬り伏せて振り返ると史桜が隻眼の武将と対峙していた。あぶない。叫ぶ間もなく、女は大振りの刀をすんでの所で避けた。あれは曹操の身内である。猛将と称えられる夏侯惇だ。夏侯将軍は場違いな女の存在を認めた刹那、驚いたように瞠目したが、秀でた馬術から凉州の呂布軍と判断を下して再び朴刀を翳した。  一方の娘は焦燥した口ぶりで、 「そちらの殿方、私は戦えませんので……!」  お相手不足で退屈かと思います、どうか武器を収めください、と叫んだ。  ――戦場で戦えないと豪語するのはいかがなものか。  味方である張遼も聞いて呆れたが、夏侯惇も毒気を抜かれて問い返す。 「は? ならばなぜこんな場所にいる」 「申し訳ありませんが、その質問にはお答えできない身でして」 「戦えない。答えられない。貴様、ふざけているのか」 「いえいえ滅相もございません……」  女はさして怖がっているように見えない。が、心中では「こんな怖い人いるなんて聞いてない」とさぞや不満たらたらなのであろう。史桜は端から武器で応戦することを諦め、手に汗を握って馬綱を奮った。はあっ、と小回りの利く愛馬が一際高く飛び上がったところへ獲物を構えた張遼が飛び込む。相手はさすが曹操の右腕と言われるだけある男だった。しかし十合いほど斬り合ったところで、男の意図は別にあると知る。紛れもない、時間稼ぎである。  危険を察した張遼が号令を上げると、瞬く間に隊列は組み直され、騎馬隊は五頭身ほど前を走る女を追った。逸る気持ちを抑えて史桜と同時に目的地へ辿り付くと、時は既に遅し、水門を護っていた武将は絶命していた。すれ違う魏将。賈クの不敵な笑みと共に、決壊した泗水と沂水が堰を切って溢れ出したのだ。

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