虎落笛短編 魏IF
第四鳴分岐ルート
奸雄の采配(後編)
中原北方に生命の理と法の厳しさを体現した男がいた。曹孟徳、快進撃を続ける後漢末期の立役者である。その御前に二人の男が控えていた。吹き渡る風巻きが真紅の兜飾りを揺らす。一人は人中最強の武を誇る男。もう一人は彼の部下である。歴史的瞬間が迫っていた。世界を揺るがした呂布という男をまさに討ち滅ぼさんとしているのだ。曹操は長い長い戦いに幕を降ろそうとしていた。だが奸雄は黙したままである。彼は辛抱強く待っていた。二人の部下の到来を。 「夏侯惇。郭嘉と李典はまだか」 「焦るな、孟徳。いそぎこちらへ向かっているらしい」 「ふん。曹操ともあろう男が何に手こずっているのか」 呂布の嫌味を聞き流して腰掛ける。面白いものだ。主君と臣下、呂布と張遼は両者ともひとかたならぬ武勇を誇るものの、対称的な性格である。 死に臨んでなお、命乞いを続け、きたる裏切りを謀策する呂布。 死に臨んでなお、凪いだ表情で瞑想を始める張遼。 張遼――死神へくれてやるのは惜しい人材である。繰り返し呂布軍と戦う度に、曹操はこの男を強く配下に望んだ。 「義理堅く、冷静沈着。騎馬および武において右にでる者なし。……殺すには惜しい者よ」 「あははあ、義理堅い、ですか」 賈クが怪訝そうに首を傾げる。呂布を称した言葉と取ったのだろう。とはいえ曹操は訂正するでもなく意地悪く口元を歪めるのみだ。そうしてどれほど待ったろう。郭嘉と李典が到着した報に胸躍らせる。足取りも軽く、明るい微笑みを浮かべて現われた天才軍師を認めて、万事成功したのだと悟った。 「曹操さま。夏侯惇殿が見たという例の人物を連れて参りました」 「待っていた。どこにいる」 「こちらに」 数歩遅れて姿を見せた李典が拱手した。ぐったりした女が床に投げ出される。報告にあった右腕の矢傷以外に目立った外傷はなかったが、それはぴくりともしなかった。 「夏侯惇、間違いないか」 「ああ。こいつだ」 「しかし動かんぞ。まさか殺しておるまいな」 命を奪っては元も子もない。曹操は上座を降り女の細顎を持ち上げた。生きている。薄く開いた唇が微かに動いた。 「いえあの、気絶させただけです。運ぶ間に馬を奪われたら手間だと思いましたので。だって馬に近づけちゃいけないって言われてましたし。これでも迷ったんですよ。一応相手は女、乱暴はしちゃ悪いかなって、俺」 私は乱暴しないと約束したのに、と口を差し挟む郭嘉。渋面しても相変わらずの色男である。しかし李典の言うことも一理あった。この女は馬術に秀でていると聞く。武器も持たず手綱捌きだけで夏侯惇の攻撃をしのいだとは、さすが西涼育ちである。鉄仮面の張遼を見て曹操は蒼白な顔がよく見えるよう女を移動させた。 「呂布、張遼。双方この女に見覚えがあるだろう」 「ほう。戦場には珍しい顔ぶれだ」 「なんと、史桜殿か……!?」 どこまでも対称的な二人だ。悠然と笑うだけに留まった呂布に対し、張遼は見るからに血相を変えた。戦鬼と恐れられる男にも血は通っているらしい。半ば凍った冷水を浴びせかければ女が呻いた。瞬きを数回。睫が震える。ゆるりと開かれた瞳は焦点が合っていなかったが黒々した宵闇は底知れぬ奈落を彷彿させた。 「ここは」 娘の容姿は戦場を舞った貂蝉にはほど遠い。玲綺のように戦女の凛々しさもない。しかし目を惹くものがあった。血を纏わぬ美しさだろうか。相手が曹操であっても、帝であっても、傍若無人の気風を灯した眼光に興味をそそられた。 「痛あ。何度も同じところ殴らなくても良いのに」 女は捕縛された状態のまま横腹を庇う形で丸まった。すると視線が捕虜二人と絡まる。彼女は己の状況を把握したと見え唖然と硬直した。 「呂布さん、張りょ――文遠さん。どうしてここにいらっしゃるのですか」 「それはこちらの台詞だ。史桜殿、なぜそなたがこんなところに。上手く逃げおおせたのではなかったのか」 「申し訳ありません。捕まってしまいまして……。でもお二人がご無事でなによりです」 「どの目が見て無事と言い切るか。ふん。役立たずのくせに戦場へ出るからそんなヘマをするんだ」 「む。そういって捕まってるのはみんな同じじゃないですか」 憎まれ口を叩くのは呂布。互いの無事を確かめ合うも複雑な心境なのが張遼。女は幾らかほっとした様子だったが、他将兵の姿が見えないことを察知して身体を強ばらせた。 「陳宮さんや貂蝉さん、は」 「――悪いがそこまでにしてもらおう。お前たちが無事かどうかはわしが決めることだ」 曹操が三人の会話に水を差す。この期に及んで和気藹々と談笑されては面目が立たない。しかも女は敵総大将を恐れるでもなく、あたかも存在を無視するかのごとく真っ先に別の男へ話掛けた。不愉快だ――史桜と呼ばれた娘は乱世の奸雄をなんと心得るか。捕虜二人と並べて座らせれば女のかんばせからするりと感情が抜け落ちた。 「あなたは、曹操殿」 「ほう、わしの顔は知っているようだな」 「間近で拝見したことがありますので……」 意味深長な言だった。しかし器量は上々、気立ても良いほうだろう。彼は長年手こずらされた呂布軍への報復として手籠めにしてやろうかと思い做す。そこにすかさず割って入る男がいた。 「お待ちくだされ。曹操殿。なぜ史桜殿が我々と共にこの場へ並ばされているのですか。彼女は将兵でもなんでもありませんぞ。なのになぜ」 「やかましいぞ、捕虜の分際で」 夏侯惇の叱責でその場は鎮まる。鬼張遼がご執心という話はまことらしい。戦鬼は冷めた顔で坐す史桜を必死に庇っていた。されど、どうも恋人同士とは思えぬ。では張遼の一方的な懸想か。はたまた見かけ以上に女が剛胆なのか。歯ぎしりする男を嘲笑うかのように呂布が好き勝手に口を開いた。 「はっ。何をうろたえている、張遼。女に興味を持った男がすることはひとつ。閨の伴に呼び手籠めにすることだろう。史桜も女として見られてさぞ嬉しいだろうよ」 「呂布殿、女人の前ですぞ。口を慎まれよ」 「そうですよ。もうちょっとデリカシーってものがあっても良いと」 「でりかしいとはなんだ」 「気遣いという意味です」 大笑いする、愕然とする、嘆息する。三者三様の反応がある。さもありなん、英雄色を好むと言っても――そして似たようなことは考えていたとしても、曹操がたったそれだけを理由に女を捜索したと思われては心外だ。此度は歴史を決定する大戦なのだから。 「史桜といったか。夏侯惇が馬上のおぬしを絶賛しておったぞ」 「おい孟徳、ひょうひょうと嘘を吐くな」 「嘘ではなかろう。手こずらされたと憤っていたではないか」 「かなり意味が違うだろう」 いずれにしろこの夏侯将軍の手を逃れたのだ。張遼の助けがあったとしても並の馬術ではない。それだけ各地を転戦する呂布の逃避行が厳しかったとも取れるが。なんにせよ留め置いて悪いことはあるまい。 「その馬術、わしのために生かしてみぬか」 すると、一瞬の間。 「どこかで情報が間違っている気がするのですが……。私は確かに馬には乗れます。ですが戦えません」 「知っておる。夏侯惇との戦いで武器を抜かなかったということは、そういうことであろう」 「では、どうやってあなたの役に立つというのでしょうか」 史桜は不可解だと言い放った。さりとて、なにも馬術は戦場だけで使うものではない。用途に限らず優れた技術はいつ何時でも役立つものだ。そう戒めれば女はぐうの音も出ない。それでも中々頷かない姿に業を煮やし奸雄は大きく賭けに出た。 「では史桜よ。戦場に出るのが嫌というならば、わしの妾になれ」 「――曹操殿、戯れもほどほどにされよ」 「張遼、今わしが話しているのは史桜だ。おぬしこそ口を慎むが良い」 後宮はひとしく女の憧れである。これで頷かぬならば相当の変わり者だ。無論、断わったなら、それはそれで垂涎ものだが。 「わしの妻になれば敵軍から逃げ回る日々におさらばできるぞ」 「いえいえ。いえいえいえ……申し訳ありません。わたくし独身貴族を貫く予定ですので」 どこぞの従兄弟のような口ぶりで女が青ざめた。即答である。というか、そういう問題か。曹操は内心傷ついたが張遼の反応が大袈裟なのを気に入り悪戯心が芽生えた。女がのけぞるほど至近距離で腰を抱いて衣服の合間から太股を撫でる。過敏に跳ねた肩を押さえ、顎を掴んで上を向かせると牡丹のような赤い唇に瞳が吸い寄せられた。悪くない。そう過ぎって鼻筋が当たるまでたぐり寄せる。互いの息が掛かった。が、史桜は恬然とし、照れもせぬ。ただ張遼一人が青い。 「実に愉快よ」 ふ、と本心が漏れた。元より愛想のない女だけに史桜は一層冷ややかに目を細めた。童ぽい訳でもないが調子の狂う女である。貴人の慰み者で終るよりもっと大仰なことをしでかしそうな。そんな予感めいた感覚さえある。 「ふむ……わかった。嫌がるならば無理にとは言わん。お前は我が軍で引き取るが妻にはせん。縄も解いてやる。逃げなければ丁重に扱うと約束しよう。これなら文句はなかろう。だから許昌に入ってゆっくり疲れを癒やすが良い」 どうせ張遼は配下に加える予定である。史桜という女、餌として多少野放しにしても構わぬだろう。彼にしてみれば限りない英断だった。呆気に取られる三人を放って曹操は自席へ戻る。なぜか史桜よりも張遼のほうが胸を撫で下ろしていた。つくづく危機感のない女である。あまり可愛げがないようだと鍛えて戦場に投げ込んでやろうと考え、劉備一行の到着を待った。 時は群雄割拠の時代。黄巾の乱から早くも十年以上が経過していた。
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