虎落笛短編 魏IF
第四鳴分岐ルート

奸雄の采配(前編)

「もう一度問うよ。あなたは何者、かな」  金属音。獲物を構える音がした。捕まれば処刑、さもなくばこの場で乱暴されるだけだ。それでは張遼に申し訳が立たない。こうなったら万に一つ賭けるしかあるまいと史桜は立ち上がった。かくして声の主と対峙し―― 「ごめんなさい!」  踵を返して全速力で馬の許まで駈け走った。一に馬、二に馬である。相手は見惚れる程の美丈夫、張遼と似ても似つかぬ痩身の武将だったが、それでも武将のようだ。短刀を振り回したところで敵うはずない。己の実力をよく知っていた史桜は雪原を疾走した。   「うん。なかなか脚が早いね」  引き離したと思ったのに真後ろで艶のある声が聞こえる。直ぐにでも追いつかれそうだ。史桜は呂布から賜った短刀を懐から取り出し背後へ薙いだ。 「おおっと危ないな。可憐な見掛けの割になかなか手強い人だ。でも、たまには追いかけっこも楽しいかな」 「う……」  減らず口め、と胸裡でささやかに罵る。必死の抵抗も軽くいなされその分の距離を縮められる。史桜は相手の顔を知っていた。音に聞く敵軍の軍師だ。陳宮と伝令兵の話し合いを盗み聞きしていた時、城下中央で獲物をなぎ倒すこの男を窓からしかと見たのだから。確か、名前は郭嘉。此度の呂布討伐も彼が支持したと噂されている。  史桜は憎らしい気持ちを抑えて一寸先で待つ愛馬へ向かって跳躍した。折良く飛び乗ると樹木に繋いだ留め紐を短刀で斬り落とす――つもりだったのだが。 「あなたを逃がすのは惜しいんでね。残念だけど、大人しく捕まってくれるかな」  史桜は突然の出来事に声を失った。身体が傾ぎ、振り上げた手から短刀が滑り落ちる。数秒遅れて脇腹を鋭い痛みが貫いた。わずかな空白の後、我に返ると敵軍師に組み敷かれて雪上に伸びていた。顔横に郭嘉の獲物が無造作に放られている。決死の努力虚しく一振りで馬から投げ落とされたらしい。脈動する右腕。乱闘の弾みで傷口が開き雪上に血が滲んでいた。だのに間近にある不必要に整った顔は色っぽい笑みを浮かべ、いやが応にも体重を掛けてくる。 「暴れなければ手荒な真似はしないよ」  既に脇腹へ一撃食らった身としては大変信憑性の薄い台詞だ。長い下睫に象られた瞳を睨め付けると郭嘉はやや力を緩めた。 「手は離してあげよう。でも逃げないでくれるね。おてんばな女人も好きだけど、今あなたに馬を与えたら困ったことになるのは皆まで言わずとも分かることだ」  逃げ場はない。脱出手段である馬はこんなに近くにいるのに。史桜は観念して全身の力を抜いた。折角全力で走れると思った愛馬がどうしたのかと鼻面で突いてきたが、この子とも此処でお別れらしい。史桜が無傷の左手で名残惜しげに撫で返してやると潤んだ瞳が見つめ返した。 「そんな顔しないの……。今までありがとうね。私はここまでみたい。新しいご主人様を見つけるのよ」 「ふふ。さて、それはどうだろうね」  奇異そうな面持ちで振り返る娘に郭嘉は肩を竦めただけだった。捕らえられた時の行動がどうであれ、軍師の告げた通り今すぐ何かされる訳ではなさそうだ。彼は史桜がこれ以上抵抗しないことを悟ると柔和に抱き起こして両腕を縛った。 「大人しくしてくれてありがとう。少しの間だけ我慢してくれるかな。用事が終った後なら、たっぷり疲れを癒やしてあげるから」  喜ばしい用事でないことは確かだろう。面を伏せる。すると長い指が史桜の頬を撫ぜて鈍い痛みが走った。水門へ向かった時に出来た古傷か。彼は治りかけた傷跡にそっと爪先を立て、憂いた眼差しを投げた。 「ああ、可哀想に。戦場で付いた傷だね。きちんと手入れしなければ跡が残ってしまうよ」  いや、誰のせいだ、誰の。この男のせいで呂布軍は四面楚歌へ陥ったようなものなのだが。史桜は眉間に皺を寄せた。 「敵とは馴れ合いたくない、と言ったところかな。強気なところも素敵だね。けれど流石にこの腕は治療しないと」  この男、どこまで知っているのやら。稀代の天才軍師と賛美されるほどの男だ。全てお見通しやもしれぬ。郭嘉は史桜の腕に応急処置を施しながら、 「あなただろう。張遼殿と一緒に戦場を駆けていた女性は」と、一連のあらましを説明し始めた。 「実はね、私はあなたを探していたんだ。そう、あれは一週間ほど前だったかな。夏侯惇将軍がすごい剣幕で本陣に戻って来てね。丸腰で馬を駈ける女性に出会ったと言うんだ。それで、呂布軍は女性であっても騎馬の技術が高い。みな心してかかれと活を入れて去っていったんだよ」  あの時に遭遇した隻眼の将だろう。いつ何時も油断しない姿勢は褒められるべきものだが、こうも情報が早くては包囲網を突破する以前の問題だった。史桜は張遼に会わせる顔がなくて弱々しく項垂れた。しかし意気消沈する女と対称的に、美丈夫は愉快そうに笑う。 「一目散に馬へ向かって行ったあなたを見てすぐ分かったよ。報告通りの身なりだったし、なにより随分と可愛らしい女性だったから」  それが戦場となんの関係があろう。史桜は両手を縛られながら促されるまま歩き始めた。 「郭嘉殿は、私をどなたかと間違っていらっしゃるのかも」 「まさか。この私がそんな間違いを犯すと思ってるのかな。……ねえ、史桜」  そうして男は甘えるように女の名を呼んだ。青天の霹靂。名前まで筒抜けらしい。 「可愛らしいというのは人物特定に関係大有りなんだ。だってその女性は、あの張遼殿が随分とご執心している女人というじゃないか。それを聞いて私は、だったら彼女はさぞや可愛らしい人に違いないと踏んだんだ」 「は、はい?」  いけない。反応が遅れた。どこかで情報が混線している。張遼に対する申し訳なさがいっそう募る一方、名を耳にして彼の安否が気になった。 「予感的中、という言葉は李典殿の十八番だけれど、私の予想に狂いはなかったようだ。こんな可愛らしい人とお近づきになれるなんて、ね。あなたに会えてとても嬉しいよ」  これが素ならば恐ろしい男だ。史桜に馬を奪われることを警戒してか、徒歩での移動だったが、道中甘い台詞を囁かれては口説かれるために捕まったのかと勘違いしそうである。しかし実際、これからどうなるのか予測が付かなかった。彼は「用事が終ったあとなら」と言ったが、その先があると信じて良いのだろうか。一見軟派な男。とは言え一軍の軍師たるもの、捕虜の扱いに関して嘘を吐くと思えぬ。  運が良くて下働きや慰み者か。命があるだけ幸せである。張遼との約束はまだ続いているのだ。どんなことがあっても生き延びると。史桜が郭嘉に付き従って駐屯地の天幕へ脚を踏み入れると先ほどのもじゃもじゃ頭が静かに坐していた。瞼を閉じて何かを唱えている。はて、彼は進軍したのではなかったか。  郭嘉が一言二言告げると、李典と呼ばれた男ははたと顔を上げた。 「……あんたが、あの」  仇を見る目だ。史桜は彼の恨みを買った覚えがなかったが、おおかた呂布軍全体に恨みがあるのだろうと独りごつ。 「そう。彼女が夏侯惇殿が仰っていた女人だよ」 「は、泣く子も黙る張遼がご執心ってか。笑えねえぜ、俺」  だからまったくの誤解である。史桜のため、張遼のため全力で訂正すべきところだが、李典の醸し出す雰囲気がそうはさせなかった。今すぐ斬り伏せそうな剣幕なのだ。彼は、先日呂布軍に叔父を殺されたこと、呂布を絶対に許さないこと、たったいま仏前でそう誓ったことを告げて色白の顔を歪めた。 「俺だってあんたが殺したんじゃないことくらいわかってる。憎むべきは呂布と張遼だってこともな」  だけど、と続く言葉は史桜の背筋を凍らせた。 「張遼の野郎があんたを大切に思ってるってんなら、あいつにも同じ苦しみを味わせてやりたいと考えるのも普通だよな?」 「――李典殿。勝手に捕虜を殺しては曹操さまに罰せられてしまうよ」 「分かってるって。だけど頭の中で考えるのは勝手だぜ、俺」  出会ったばかりで何度その心中で史桜は殺されているのだろう。ぞっとしない話だ。本能的に身を捩って李典から距離を取ろうとした。しかし男のほうが素早かった。縛られた両腕を掴まれ先ほど殴打された脇腹に衝撃が走る。二度目の打撃は手加減がなかった。女は不協和音を立てて襲い来る激痛に意識を手放しその場へ崩れ落ちた。 「駄目だよ、李典殿。かよわい女性に何てことを」 「呂布と一緒に曹操さまの前に突き出すって聞いたから、てっとり早く気絶させたまでで……」 「しかし私は彼女に乱暴しない約束をしたのだけど」 「あちゃー。それは悪かったです」  いとも簡単に気を失った女を見て李典は狐につままれたような気分になった。想像以上にただの女だ。これが本当に張遼が執着する女なのだろうか。果たして曹操の前に出す価値が? 慧眼の郭嘉がそうと頷くなら信じるしかない。李典は目覚めても身動きできぬよう全身縛り上げ、小脇に抱えて馬上の人となった。目指すは曹操が待つ城――下ヒ城である。

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