虎落笛Lost 2 柳暗花明編

第十四鳴 しとどに濡れた心

「危ないところを助けて頂きありがとうございます。私は陸遜と申します」  戦火の日照りは遠く、史桜と陸遜は閑散とした場所で一息ついた。優雅に頭を下げた男に倣い史桜も名乗り返す。ゆえあってこれから桂陽に世話になると告げると陸遜は顔を綻ばせた。 「徐庶殿は良き人材を連れてきてくれたようですね。彼にお願いして正解でした」  さながら少年のような快活さだと史桜の心に爽やかな涼風が流れ込む。褒められ慣れておらぬ彼女は些か居心地の悪さを覚えたが陸遜に他意は無さそうだ。彼女は、このまま逃げ道まで連れていく、城内に詳しい陸遜殿が案内してくれれば心強いと反応を伺った。しかし、ここで徐庶の予想を超えた誤算が生じたのだった。  なにせこの男、 「折角助けて頂いて申し訳ありませんが本隊が帰還する前に正門をなんとかしなければなりません」と渋面するではないか。そうなのだ。陸遜は端から逃げる気などなかったのだ。男は、とはいえ、と口を濁し、 「武器を持たぬ女性を連れ回すほど私は薄情者ではありません。特にあなたは恩人です。あなたは先に戻りこのことを趙範様に伝えてくださいますか」と頭を下げた。 「……え。えええ?」  突然の申し出に頭が回らないのは史桜である。彼女が託された使命は「陸遜を無事連れ出す」こと。だのに本人は再び戦いへ赴くと言う。放っておけるはずがあろうか。 「でしたら私も共に参らせいただいても宜しいですか。馬が居りますので足代わりになれると思います。なにより陸遜殿を置いて帰ったとなれば馬超の槍で串刺しにされてしまいます。どうか連れて行ってください」  乱心したのではと心配する蒼白な史桜を見遣り陸遜は沈思した。なるほど、馬がいるのは心強い。だがそれ以外は足手まといだ。彼女を庇いつつ敵から大砲を奪取するのは決して容易くなかろう。 「そうですか。恩人を面倒事に付き合わせてしまって、私は駄目な男ですね。この礼はいつか必ず返します」  それでも連れて行く価値があると彼は判断したらしい。導かれるまま鞍へ跨がると娘の背面、ほっそりした腰に腕を回す。やおら蛙が潰れたような悲鳴が上がった。 「ああすみません。このままでは落ちてしまうので。その、変な意味ではないのです……他に掴まるところもないものですから」 「い、いえ。構いません。飛ばしますからしっかりお掴まりください」  狼狽える陸遜にこちらまで恥ずかしくなる。幼な顔の割に図太い男だと思っていたが年相応な面も窺えた。史桜は仄かに苦笑して頷いた。それから風巻は正門へ向かって駆け抜けた。土地勘のない史桜でも正門の場所は直ぐさま分かった。硝煙の匂いを辿れば良いのだ。史桜は次第に濃くなるそれを厭うて目を擦り疑問を呈した。 「陸遜殿。どうやって大砲を取り戻すのですか。敵は多く見えますが……」 「そうでもありませんよ。皆さんが趙範様を保護してくださっていた間、私は奥で情報を集めていましたが、どうやら大砲の仕組みを理解している砲手は少ないようです。せいぜい五、六人でしょう」 「お一人でそんな危ないことしていたんですか」 「はい。この城攻めはどうもおかしなところが多くて。彼らの攻め方はこの城を熟知した者の戦い方です。しかし裏切る人物に思い当たる節もなく……。お恥ずかしいことに私も今回の襲撃についてよく分かっていないのです」  正門から戦いを挑めばたかが五人といえど強敵だ。砲台がこちらに向いているのだから。しかし内側から攻めるならば大した数ではない。彼は再び物思いの海へ沈んだ。脳内の引き出しを片端から開閉しているのか。軍師である以上、理解を越えたところで思考をしているのだと史桜は余計な発言を控えた。  その内省を妨げたのはどこからともなく響く銅鑼の轟音だった。一定の律動を保って繰り返される波紋に陸遜の息が重なる。音は徐々に近づいている。史桜はその拍動に聞き覚えがあった。軍隊が威嚇する時の音色だ。陸遜は喜びにかんばせを輝かせ、腰へ回した腕に心なし力を込めた。 「陸遜殿、あの音は」 「ええ、桂陽軍の本隊です。予定より早い帰還ですね。明日まで掛かると思っていたのですが。私たちは運に恵まれているようです。日が暮れる前にきっと城を取り返せますよ」  なればこそ早急に正門を開放しなければなるまい。正門さえ確保すれば城内の敵は本隊が一掃してくれよう。史桜と陸遜は門横の階段を駆け上がり火薬を詰める覆面男達へ標的を定めた。主人が命令するまでもなく軽やかな足取りで敵を翻弄する風巻。愛馬が砲手の背後へ回り込むや否や陸遜は疾くと薙ぎ伏せ瞬刻の間に敵は残る一人となっていた。 「馬上の赤いお方。桂陽軍師・陸遜殿とお見受けします」  覆面の向こうからくぐもった声が漏れる。この男が砲手達を指揮していたのだろう。剣の腕も立つと見える。彼は陸遜の猛攻を小刀ではじき返し大きく飛び退いた。辛うじて陸遜の獲物は肉まで届かず。だがその一撃は男の顔を覆う布を切り裂くに十分であった。隠れされた素顔、それが露わになるや、史桜は慮外の衝撃に手綱を放し陸遜を道連れにして馬から転げ落ちてしまった。 「大丈夫ですか、史桜さん?!」 「ごめんなさい。無事です。それよりもあの男性って……」  澄ました表情で体勢を整える陸遜。その足元で這いつくばったまま敵を仰ぐ女。史桜は知っていた、この男を。彼は呂布軍の一士官、名は秦誼。忘れたくとも忘れられぬ。史桜は男の妻と懇意にしていたのだから。男も娘に気付いたと見え身体を強ばらせた。 「そこな女性は史桜殿……?」  賊にしては礼を弁えていると思っていた。それもそのはず秦誼の出自は決して卑しいものではない。史桜はこの時初めて自分が「呂布軍」という元身内と戦っていたと思い出した。 「やっぱり秦誼殿。どうしてこんなことしているのです。あなたは曹操軍に降ったはずでは。奥様だっていらっしゃるのに……なぜ、あなたがこんな賊染みたことを」  呂布軍の残党だからとて皆が皆顔見知りな訳ではない。だが出会ってしまったが最後。敵として対峙することは出来ぬ。少なくとも史桜には無理であった。曹操など。そう呟く男の瞳が憎しみで燃え上がる。振りかぶる白刃――咄嗟に彼女は陸遜の背に庇われていた。 「ええそうです。私は秦誼です。史桜殿、あなたが元気そうで安心しました。曹操はあなたを躍起になって捜索していましたから。しかし逃げ延びて正解でした。曹操軍に降っていればあなたもきっと彼の手つきとなっていたことでしょう」  余韻を残す金属音。動揺する娘の傍ら男の発言に違和感を覚えたのは陸遜だった。 「秦誼殿と仰いましたか。史桜さんとお知り合いのようですね。あなたも、とはどういう意味ですか」 「……妻は、もう私の妻ではない。あれはいま私の息子と共に曹操の後宮で暮らしている。私は捨てられたのですよ」  次々と襲いかかる事実に史桜は呆けていた。あれほど仲睦まじき秦誼の妻が彼を捨てるなど。だが曹操の命令は絶対だ。つまり、そういうことなのだろう。陸遜は気遣うような視線を両者へ送ると「だからこんな愚かなことをしているのですか」と嘆息した。 「いいえ。それは誤解です。私はただ、『兄』の指示に従っただけ。城攻めを提案したのは私ではないし自棄になっている訳でもない」 「でも反論もしなかったのでしょう。同罪です」  軍師は男の反論をけんもほろろに一刀両断した。情状酌量の余地はない。しかし秦誼ほどの砲撃の腕があれば桂陽は安定だ――と、陸遜がそんなことを考えているなどつゆ知らず。史桜は朱色の軍師に縋った。 「あの……陸遜殿。秦誼殿を見逃してくださいませんか。私に此度の礼を返すと思って。彼さえ去れば正門は開放されます。悪いことは何もないはずです」  口疾に畳み掛ける。それほど彼女にとって大切な男なのか。いや、だった、のか。 「礼と申しますか。あなたは思っていたより強かな女性かもしれませんね」  常ならば生け捕りにして拷問するのが最良だ。しかし恩人にこうまで歎願され断れるはずがあろうか――陸遜は少し悔しかった。しかし軍師の性である。既に男の使い道を導き出していた彼は悩む振りをして小首を傾げた。賊を登用するなど周囲の多大なる反対に晒されるだろうが。軍師は無言で肯うと剣を収めて、鞘の留め具を外したまま門下を見降ろした。と同時に安堵した女の表情に微かないとけなさも認めた。 「陸遜殿……! ありがとうございます。感謝致します。さあ秦誼殿、こちらから早く」 「――いいえ。逃げるには遅すぎます」  静止するは赤燕である。かくて和らいだ空気に凛と白んだ刃を突き刺せば轟く蹄に嘆息する。 「史桜さん、重ね重ねあなたの期待を裏切ることになって心苦しいのですが少々手遅れだったようです。ほら、私達はもう桂陽軍の本隊に囲まれていますよ」  二人が周囲を見渡した隙に陸遜の飛燕剣が男の獲物を弾き飛ばした。それは孤を描き、禿げた本隊指揮官の脇を掠める。そして鋭利な切っ先を秦誼の喉仏に押し当てたまま陸遜は高らかに宣言したのだった。 「これより桂陽城奪還作戦を始めます。韓当殿、蔡文姫殿、あとは頼みます」 「おうよ任せろ陸遜、こんな目立つ良い機会またとないからな」 「承知致しました。皆様の安寧を取り戻すべく、この蔡文姫、哀しき調べを奏でて参りましょう」  瞠目する女の視線が陸遜の心を痛めた。非難するでもなければ手放しで喜ぶこともせぬ史桜。彼は端正な面を伏せ、恩人である女へ一礼すると秦誼を縄で縛り上げた。娘は彼のことを嫌いになっただろうか。本隊が近くまで迫っていたことを隠していたのは悪かったかもしれない。だが秦誼を捕えたのは逃がすに惜しい人材だからであり、彼女が想像するような拷問に掛けるためではない――そう心中で繰り返すのは若き軍師である。  しかし、さしもの陸遜も、秦誼の正体が知れた時より衝撃を受けて硬直する女が気がかりだった。旧知の仲である史桜には多少説明しておいたほうが良いだろう。そう思って足を止めた。けれど振り向きざま陸遜は奇妙なものを認めた。彼女の影が巨大化したように見えたのだ。あれはなんだ。まあるい背中、左右に二本、長短が気味悪くうねっている。その動きは困惑顔で佇む史桜に共鳴していた。蠢く影――あたかも前途多難の時代を迎える桂陽を象徴するように陸遜はこれより幾度となくその影を垣間見るのであった。 二章完結/次章未定

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