虎落笛Lost 2 柳暗花明編
第十三鳴 天駆ける
躍動する太い四肢がある。落葉樹の残滓を踏み荒らし、枯れ木の合間を、道なき道を、二頭の天馬が疾走する。史桜の跨がるは一日千里を駆ける麒麟か。彼女と馬超は桂陽城を臨む絶壁を目指し春一番が吹き荒れる肥沃な中原へ玉の汗を散りばめた。 強き健と巨大な体躯を前へ前へと押し出す蹄。史桜が故人から賜った愛馬はほれぼれするほどの駿馬である。名は風巻といったか。先刻の雨でぬかるむ泥をものともせぬ葦毛はさながら汗血馬のようだ。これほどの良馬を武人ではなく平々凡々な女へ分け与えてしまうとは――武威を誇った呂布の力がいかほどのものだったか、優れた審美眼を持つ者なら直ぐさま察しよう。 処刑台に儚く散ったとはいえあの男は確かに巨大だったのだ。歴然とした力の差を目前にまざまざと突きつけられ馬超は思わず眉根を寄せた。この馬は女に過ぎたるもの――馬背に娘を乗せてひた走る風巻は彼のそれより小柄である。男が跨がるにはいささか足りぬだろう。しかしこの馬が順当に育っていたなら馬超や呂布といった名だたる武人の愛馬として誉れ高き寵愛を受けていたかもしれない。そんな馬を一介の女が手にしているのだ。あれが平凡な史桜に付き従う限り縦横無尽に戦場を駆け巡る葦毛の勇姿は決して見られまい、と馬好きの男は人知れず嘆息した。 「崖が見えて来たのう。よいかお嬢ちゃん。自分が何をすべきかちゃあんと覚えとるじゃろうな」 駿馬の艶やかな毛並みに釘付けとなっていた馬超の背後で怒声が上がる。大気を揺るがす嗄れ声。鮑隆のそれに馬超は思わず耳を塞いだ。 「おじじ。声がでかい」 「おおすまん。あっちを走る娘御が聞こえんかったら困ると思うてのお!」 「分かった、分かったからもう少し声を落としてくれ。万が一敵兵が聞きつけんとも限らんだろう」 ――まったくなぜ俺の馬におじじを乗せねばばならんのだ。 西涼豪族の嗣子は単身駆ける史桜へ恨めしげな視線を送った。だが徐庶が割り当てた役割分担はおそらく最善。少なくとも主力部隊が国を空けている今、城を奪還する方法はこれだけなのだから従わざるを得まい。馬超、そして馬超の馬へ共に跨がる鮑隆、葦毛を操る史桜の三人はこれより越えねばならぬ難関を思って息を詰めた。 「ふうむ。馬超殿、嬢ちゃん、そんな辛気くさい顔をするな。もう少しの辛抱じゃけ」 そんな中でも鮑隆は恬然としている。年の功か。あっしらの役目は陸遜を助け出すことじゃよと相も変わらず咆哮を上げ「いいかお嬢ちゃん。戦う必要はないぞ。陸遜を拾って城の外まで逃げきればあっしらの勝ちじゃ」と口酸っぱく繰り返した。 「私はあの赤い方を拾えば良いのですよね」 「ああそうだ。だが無理だけはするんじゃないぞ。先に鮑隆殿と俺が飛び込む。こっちで血路を開いてやるからお前は陸遜を拾うことだけを考えろ」 馬超の指示にこわごわ肯う史桜。 「合図は俺が出す。降りたら周囲の敵を一掃するまでくれぐれも側を離れるな」と念押しされて彼女はきと目的地を見据えた。緊張した面持ちが事態の難しさを物語っている。なぜなら二人、否、三人は世紀の崖越えをしなければならないのだ。馬超は崖の向こうで黒煙渦巻く桂陽城を認め徐庶の計画を反芻した。 ――いいかい馬超殿、この計画は二人が無事に崖越えを成せるかどうかに掛かっているんだ。 あの時、策略家より仄めかされた案。それは城裏の絶壁から飛び降り奇襲を仕掛けることだった。というのも彼らには正面突破が叶わぬ理由があった。元々桂陽城は高い外壁に囲まれ正門からしか攻め入ることができない。それを逆利用した敵は陸遜が誇る我らが大砲を据えているのだ。加えて、口惜しいかな、趙範が利用した逃げ道も追っ手を巻くために塞いでしまった。 ならば多少強引にでも別の場所を破壊して――桂陽城の左右は城壁だ。相手は城を熟知していると見え趙範が各所に用意した覗き穴から火矢が雨あられと降り注いでいた。あんなところから奇襲は出来まい。残る選択肢はひとつ。裏だ。桂陽城の背後は山と見まごう高き絶壁が聳えている。そこから城へ飛び入れば敵を攪乱出来ると徐庶は説明した。 だが。いとも簡単に越えられる距離なら桂陽城は呂布軍残党に攻め去られるよりずっと前に陥落していたはず。そうでないのは、崖と城の間は、陣を敷くには手狭で、かといって常人が飛び越えられるほど真近ではない絶妙な距離であるがゆえ。仮にその差を飛び越えられるとすれば馬の能力を最大限に引き出せる人物。涼州育ちの馬超と素晴らしき愛馬を持つ史桜である。 これは手慣れた馬超でも五分五分の可能性であった。相手が平々凡々な娘となれば不安要素が付きまとうのは当然のこと。失敗すれば落下死。生き延びたとしても目も当てられぬ姿になることは否定できない。それでも娘は引き受けた。 かくてしなびた宿で燻る史桜を実力があると引き入れたのは徐庶と馬超である。だが娘の返答を聞いた時、一同は驚きを隠せなかった。この女は自信過剰なのではないか。それとも下ヒで失った仲間を追って命を絶とうとしているのか。けれど風巻と心を交わす彼女を観察すればその理由は自ずと明らかになった。娘は自らの腕ではなく愛馬に全幅の信頼を寄せているのだ。 そこにあるのは馬と一体になる快感。馬超は緩む頬を引き締めて秒読みを始めた。 「いくぞ、史桜、鮑隆殿、準備は良いか。三……」 幅広な馬の一歩が視界を揺らす。 「二……」 風巻が高らかに嘶いた。それは青ざめ震える飼い主の心を鎮めるように、柔らかな色を秘めている。 「一! 史桜、俺に続いて飛べ!」 屹立する崖を登り切った二頭の蹄が目一杯に大地を蹴った。地面はさぞや深く抉れたことだろう。背後で女の掛け声を確認し馬超は重力の誘いに身を任せた。目指すは城壁上。彼は常人ならば決して越えることができぬ距離を見事に乗り越えた。続き娘の呻き声が響く。衝撃に顔を歪めながらも史桜は五体満足で石畳の上に降り立っていた。 徐庶の提案は成功したのだ。しかし陸遜を救出するまで油断は許されぬ。呆けた残党達が我に返るより早く鮑隆の獲物が宙を裂いた。虎殺しの異名を持つ男は水を得たりと言わんばかりだ。老爺は刃向かう男達を薙ぎ払い、追い詰められた軍師を視界の端に捉えた。 「嬢ちゃん、陸遜殿はあそこじゃけ! おおーい陸遜殿、聞こえるかの! あっしらが助太刀に参ったぞい!」 指し示す方向で赤き燕が舞っていた。二人に目配せすると史桜は馬首を返す。武器も持たぬ丸腰の女は格好の餌食である。それでも史桜は血飛沫飛び交う戦場を疾走した。馬の行く手を阻まんとする敵は鮑隆が斬り捨て史桜目がけて放たれた火矢を馬超がたたき落とす。 「陸遜殿、私の手を掴んでください!」 そうして彼らは、女が陸遜の腕を掴み、万事拾い上げたことを認めて大仰に笑い合った。後は内側から城を落とすだけである。陳応は無事か、と咆哮する老爺を横目に、馬超はしたり顔で槍を振るうのだった。
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