君懸Record 0 追悼回想編
-史桜-
第1話 River of Oblivion
- 忘我の川 -
忘却は死の導である。誰かがそう云えば、命の証は懐古にあると、これまた誰かが云う。ともすれば忘我の川に浸り続ける者は、心を解くことも叶わず、寄る辺なき大河を漂うしかないのだろう――。 * その日、あまねく追想が忘却の時代へ置き去りにされてきた。けれども身を淋しく包むウェルエタム地方の冬嵐が吼えるように史桜の頬を打ったこと、瑞花吹きすさぶ簡素な研究室へ豪雪地帯を埋めつくす白魔が追い縋っては、這い出した脱走者を等しく平らげんと舌なめずりをしていたことだけはよく憶えていた。 史桜の傍らには成す術なく絶命した兵士がひとり。幾房の葡萄を握り潰したような血潮を首から滾々と流していた。その雫が事切れた研究者の白衣へ跳ねると、今度は墨汁のようにまあるく染み出して、はらはらと舞い落ちる六花を吸い込んでいく。 「一体何が、起きて」 どうやら、雪崩にも耐え得る漆喰造りの建物は内側から呆気なく陥落してしまったらしい。所長と呼ばれていた老齢の男も礼儀知らずの襲撃者によってだらしなく四肢を投げ出している。息のある者は他に居まいか、そう史桜が柱から這い出した折りだ。大きな影が女の貌へ被さりその細腕を堅く握り締めた。 「痛……ッ」 「――彼女に乱暴をするな」 狼狽する彼女の理性を呼び戻したのは若々しい男の声だった。それは傲慢に彩った、いかなる叡智をもさやかに嗅ぎ当てる銀髪男。散りばめられたそばかすには年相応の幼さが潜むも、細い鼻梁から薄い唇に掛けて上流階級特有の気品が一切の翳りもなく滲んでいる。 「逃げよ、史桜! くっ……また爆発か」 柔らかに輝くプラチナブロンドの上へ玻璃の破片が降り落ちてきた。慮外の事故に物腰美しい青年が面を庇った拍子、赤い絲を連想する細い幾筋が前髪を掻き上げたなだらかな額へと伝い落ちる。こめかみ、目尻、そして頬から首筋を染める深紅はあたかも接吻の名残だ。それでも二国の間に渦巻く怨嗟は留まるところを知らず、史桜の鼓動が鋭く跳ねた。 ――だめ、死んでしまう。 「(……誰が?)」 ――彼が。 「(彼って誰?)」 ――ヴァーサタイル・ベスティア。 「(どうして、貴女は名前を知っているの?)」 ――彼が名乗ったから。憶えて、いるでしょう? 史桜へ警告を発した若者は年のころ十代半ばといったところか。否、もう一寸上かもしれない。彼女は男の中に未知への懸想を見出した。駁して、彼を常人たらしめていた懐慕の念が、迫りくる別離としてひそやかに形を成すにつれ、黄ばんだやつれを通して少しずつ欠けていく姿も垣間見てしまう。 ざわつく心を払うように史桜は控えめな抵抗を示した。しかしよくよく鍛錬された彼らには僅かな綻びもなく非力な女が頼りなく息巻いただけに過ぎなかった。それでもささやかな意思表示を続けていると、 「落ち着け。俺は敵じゃない」 強化硝子を容易く破る暗殺者たちは史桜の前では努めて穏やかだった。 「君島だな。迎えに来た」短刀を構える男が濁がかった声で告げた。 「私を?」 予期せぬ言葉。思わず降り仰ぐと屈強な男が二人、銀装飾に飾られた覆面で正体を隠して影に充たされている。隙間から覗く眼孔はやや落ち窪み疲弊の色が濃く認められた。だのに得物を奮う瞬間、雨に打たるる新緑のように生気漲り、仇敵を睨め付けるのだ。 彼女はその衣で立ちに懐かしい色を感じ取った。確か史桜の故郷では彼らのような存在をこう呼んでいたはずだ――忍者と。息をするのも忘れて望郷に心奪われているともう一度彼女の名を呼ぶ声があった。 「ルシスなぞに耳を貸してはならん、史桜」 見返れば振り子時計のように大きく揺れた電灯が翳って、ヴァーサタイルと呼ばれた男の、紫水晶に藍を一滴垂らしたような眼差しへ鬼気迫る光を差し込んでいた。 男には蘇芳に染みゆく所長なぞに気にも留めない冷淡さがある。しかし寄せる眉は歪んで、二十歳にも届かぬ青年時代の先駆けをゆく若き学者がただただ女を見据えながら、敵国からの侮蔑に耐え忍んでいた。 「ルシス国王の親衛隊め。なぜ今更求める。ずっと無関心だったはずだ」 「答える義理はない。あまり騒ぐとお前の命も取ることになるぞ。口を慎んでいろ新米博士」 「その浅はかさ、さすがは野蛮なルシスと言ったところだな。……よかろう。ならば土産のひとつにそなた達も覚えておくがよい、いずれルシスを滅ぼす者の名を」 我が名はヴァーサタイル・べスティア。彼はそう名乗った。史桜の頭の中で答えたそれと同じ名を。 いつしかお前の祖国に害為さん、と身命を賭して啖呵を切った青年の返答はたちまち火に油を注ぎ、親衛隊の二人は鼻白んだ。史桜は此度の襲撃直後に繰り返し見せられた惨劇を思い出しながら、軽蔑に満ちたまなざしに静かな怒りを孕むヴァーサタイルがいよいよ殺されてしまうと逸った。 だが彼は微塵も背を向けない。その姿はもはや一介の研究者などではなく、理知を以て宿敵への殺意を押し隠そうとする冷徹な殺人者のようだった。 「お願いです。その人を殺さないでください」 どうか、どうか。そう口をついて出た女の弱々しい哀願を耳にするなり、ヴァーサタイル博士のかんばせが勝ち誇って和らいだ。 「嗚呼、史桜、私を庇ってくれるのか。そうだ我が元へ帰ってこい。かの文明を蔑ろにして来たルシスが、そなたを理解できるはずもないのだ」 破調じみた賛美が甘く胸を痺れさせた。ヴァーサタイルの癖なのだろうか、彼は己の顎を斜め上へ持ち上げ尊大に口端を歪めるも、却って利発さが勝り厭らしいところがない。こんな状況下でさえ自信に満ち溢れた姿はいかにも傅かれることへ慣れていた。 だが史桜はそこに懐かしき故郷を見出すことが出来なかった。そう、憶えている限り、ここは彼女の還るべき場所ではなかったから。 だから蒼白な男を慮れどその掌を握り返すことはしなかった。彼女は覚悟のたしかさを伴って視線を外した。まなこを滑らせた先には顔も知らぬ帝国兵士が崩れ落ちている。鉄の鎧を纏ってはいるが露わな手足は生身のそれだ。自身を連れ出すために彼らは犠牲になったのだと悟れば遅れて慄えが全身に走った。されどここに留まらぬことはどういう訳か正しい選択に思えたのだ。 史桜はもう一度、研究者の体をした細面の男へ面伏せにまなじりを戻した。すると目敏くその裡を察したか、ヴァーサタイルの怨じる碧眼が噛み付くように細まった。 「何故だ。ルシスに下るというのか?」 女が見せた思いも寄らぬ態度を若き研究者は純粋に訝しんでいた。 「よくよく考えるのだ。そなたを理解できるのは我々だけではないのか」 若者は史桜に問うてなどいない。問う価値もないことだと、彼女から目離れもせずに嗤っていた。 「記憶の水底に沈むそなたを掬い上げたのは私と所長だったではないか。その我々だけが真にそなたに寄り添える……そうではないのか」 しかし彼が嘲っていたのは史桜の愚昧ではなかった。その矛先はルシスの無知へ向いていた。 「私ならいずれ故郷へ帰してやることも可能かもしれん。だがルシスに赴けばそうは行かないだろう。ひとたび魔法障壁の中へ入ってしまえば、平凡で、無用な者と扱われながら生きていくしかあるまい。そなたの価値をつゆほど弁えぬ凡庸な者に囲まれて!」 ルシスが犯すであろう人類への冒涜を看過しろと云うのか、と男は嘆いた。叡智を追い求める彼にとって無窮の愚かさこそが世界の闇だった。それを不思議と見透かしていたからこそ史桜には青年の詰問が耐えがたかったのかもしれない。 「ごめんなさい。ベスティア博士――私には、貴方が誰かも分からない」 初めて口にした彼の名は妙に耳馴染みが良かった。だが女が、お前のことなど知らぬと頭を垂れると、優雅な口調で誹っていた若者は名状しがたい表情を浮かべた。その様は閑寂に響く声がたとしえもない病となって彼を襲ったかのようだった。けれどヴァーサタイルはすぐさま感情の疎隔を企てては、きと睥睨し、 「そうだったな……。ならばせめて警告くらいはさせてもらおう。ルシスへ入ればそなたは処刑される。それでも、我が手を振り払うのか」 諭さんとする意味が分からず史桜は柳眉を持ち上げた。何を問うべきかも分からない。そんな面持ちだ。若き博士は大仰に肩を落として被りを振った。 「それすらも忘れたか。いや、そなたが憶えてないのは致し方ないことだ。だがしかし、人類の進化を投げ打つルシスの盲目さには呆れ果てる」 「――陛下の悪口はそこまでだ」 平行線を辿る押し問答に嫌気が差したのだろうか。藪から棒に襲撃者が深い暗い嘆息を零してから「帰るぞ。対象は確保したしな」とすげなく会話を中断させた。 それから、相棒。と一言。 「撤退準備に入る」 「その目撃者は生かすのか」 「配属されたばかりの新人だろう。ガキのシガイ研究者が一人騒いだところで帝国軍は相手にしない」 この時、極秘任務に興じる親衛隊の選択が果たして正しかったかどうかは、何年経っても史桜には判じかねる。だがあれは覆面男なりの慈悲だったのだと随分後になって彼女はレギス王子へ語っていた。 「……タイマーをセットするぞ」 覆面男の寡黙な片割れが恬然と応答した。先のやりとりにも関心がないのだろう。入念に留めを刺して回っていた無口な弓使いは、年若い青年を見逃すという選択に異を唱えたものの大人しく従った。対して逸早く意図を察知したのはヴァーサタイルだ。彼は軋めく肋骨に歯を食いしばりながら片膝を立てた。 「この研究所を破壊する気か。人類を進化させるに足る貴重な資料が眠っているというのに」 ルシスの輩め。と酷薄な笑みを浮かべて、どこまでも高見に立った物言いで敵国を軽蔑する男。そこには幼子を相手取るような憐憫さえ認められたが、けれども彼は諦めきれぬ様子で史桜へ手を伸ばした。が、次の刹那、女はルシス国王親衛隊と呼ばれた覆面男の肩に担がれて屋根上に登っていた。 起爆装置代わりの時計を見るに残り三分といったところか。建物の崩壊を考慮すれば猶予はあってないようなものである。史桜はついぞあの若者のことを思い出すことは叶わなかったが、それでも間に合いますようにと祈ってしまう自分に驚いた。同時に、どんどん遠ざかる赤い衣にはっきりと広がる黒染みを認めて、彼が深手を負っていたのだと理解した。されど届く言葉もなく、鼓膜をつんざく虎落笛に女の謝罪が掻き消されていった。 時をおかず、研究所があった方角へ轟音が響き渡った。日の入りを背に黒々とした濃煙が立ち昇ればあらゆる些事が灰と化していく。それは嘱望されたヴァーサタイル青年の輝かしき錯綜が、彼を見初めた所長某の熱情が、玉響に潰えた瞬間でもあった。 折に触れて史桜は斜陽の中に目映る金鎧を認めた。爆発を逃れたヴァーサタイルだろうか。はだれ雪が降り積もる柔らかな絲は彼自身の血でべっとりと固まり細面の貌へ張り付いているのに、豊麗なかんばせを幾らも損なうことなく、白亜の中に輝いているように見えた。と、その時だ。才走る青年は踵を返すなり、つと東の彼方を仰いだ。そして仄暗い瞳を以て史桜を射抜いたのだった。 その口はちょうどこんな風に動いていた。 ――そなたは、いずれ私と共にルシスを滅ぼす。 こんなにも隔たりがあるのにどうして読み取れたのか。彼と彼女の間には史桜が記憶し得ぬ繋がりがあるようだった。しかし恍惚とした面持ちで掌を天へ掲げるその姿は、暗がりに身を潜めていた狂気が竟に片鱗を現した瞬間だったように思える。毒を飲み込んだ、あるいは、彼女自身を毒呼ばわりした青年とはそれが最後の逢瀬になってしまったが、深い自尊心と理性の礎に築かれた神がかった苛烈さは長く史桜の心に陰惨な影を落としていった。 水平線に浮かぶ朱の中心点が蒼褪めた肌質にぴんと触れて、寄生虫に侵された病魔の訪れを声高に叫ぶ頃合が近づいてきた。不意に彼女は耐え難い吐き気に襲われた。否、そんな生易しいものではない。喩えるなら水底で窒息する寸前の息苦しさ。水圧の中で身体の内側がめくれ上がるような不可避の暗転が、鼻腔を付く黴臭さを伴って史桜を冒さんとしていた。 「(ああ、そういえば、あの青年はこうも言っていた気がする)」 ――そなたを水底から掬い上げたのは我々だ。 だから正体をなくす直前、史桜は若き研究者との離別に微かな胸の痛みを覚えてしまう。しかし美しき水晶に寄り添う女神が身に覚えのない記憶の中でやわやかに微笑めば、白い糸杉の幻想、研究所の騒ぎを思い出す由もないほど夢の吹き溜まりへ沈んで身も心も融解していった。
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'Sins of the Father'