君懸Record 0 追悼回想編
-ソムヌス-
第2話 Existence of God
-神の証明-
永き刻を指輪の中で過ごしたソムヌスは綿を踏むような午睡から目覚めた。彼が鎧を纏ってから二千年もの時が流れている。しかし形なき世界に時間など関係ない。十重二十重の指輪所有者の人生が己がものと溶け合い、死すればクリスタルへ蓄積されるだけ――連綿と続く仕組みは初代王の時代から続いて、水晶の化身があらゆる叡智を統べていた。 不意に空間が揺れ、不可視の世界へ女の息吹がこだました。 ――記憶を刻むこと。それは、命の証。 「……誰の声だ?」 彼方から響く柔和な声。指輪に宿る英霊達は、耳を澄ませた最古の王を黙って伺っていた。だからもう一度、彼は同じ言葉を投げかけた。 「これは、誰の声だ」 聖王、覇王、修羅王と名だたる歴代の王が分厚い仮面から怜悧な瞳だけを覗かせて、こもごも顔を見合わせた。やがて二つ角を頂く細身の女が子孫を代表して問い返した。 「初代王ソムヌスよ。何か聞こえるのか」 腰周りが大きくくびれた鎧。龍を制したと音に聞く剛腕の伏龍王だった。ソムヌスは意に満たぬ返答に腕を組んだ。 「聞こえないのか? こんなにも、かしましく喋っているのに」 「いいや聞こえない。至って静かだ。当代の王が時々話しかけてくる以外はな」 凛々しき女王に揃って肯うはソムヌスの愛しい子らだった。 「だが、誰かが喋っている」 「我々の記憶を垣間見ただけではないのか」 「それはない。あれは指輪から響いて……いや、違うな。もう少し遠い場所から語りかけて来る」 指輪には歴代王の叡智が伴う。叡智とはすなわち彼らの生き様であり、王としての人生を経て培った知恵である。殊に、最も古き王ソムヌスは英霊となりし子孫の人生をつぶさに眺めて来た。だからこそ彼らの記憶ならば直ちに分かる。 引きも切らず初代王が反論すれば、ならば貴方に深く関わりのある者かもしれない、我々は誰一人その声とやらを聞いていないのだから、と一同は口々に見解を示した。 夜叉王と強い繋がりのある者――あらゆる可能性を手繰ったソムヌスは薄ら寒いものに包まれた。まさか兄か。あるいは、この手で斬り伏せた神凪の亡霊だろうか。されども頭に響くそれは見知った者の声ではなかった。 「そうか……騒がせたな。クリスタルの御許で心を鎮めて来よう」 「異変があればすぐさま知らせてくれ。我々は運命共同体だ、敬愛せし初代王よ」 ここには果断を強いられた王も居れば民のために命を削った王もいた。だが彼らは等しくクリスタルのために戦い、果てた。ソムヌスは彼らの存在意義を作りたもうた紫水晶を瞼の裏に探り当てた。都庁の中心、厳重に安置された結晶体を認めるや、王家の宝が呼応するように微かに瞬いた。 ――か細い絲を伝いて、星の全貌は明らかにされていく。 またあの声だ。時を隔てて聞こえる鈴の音は懐かしい熱を帯びていく。 ――憶えて、いるでしょう? 刹那、傷口に収まった銃弾を抉り出すよう、痛切な感覚を伴って閃いたものがあった。 「これはクリスタルの記憶か?」 かの結晶に自我は存在しない。だが初代王の知り得ぬ影が玻璃の内側から流れ出ていることも否むべからざる事実だった。聖石の中に何かが遺されていると気づいた途端、実態なき鼓動が大きく跳ねた。 「――忘れ去られた神は死ぬだけ。あなたも、わたしも、いずれは消える」 今度は歴然とした形を取って女の声が耳朶に触れる。何らの意志もありはしないというのに、結晶内に反響する耀きだけがかの存在を確かなものにしていた。 折に触れて白い貌がクリスタルの玻璃へ映り込んだ。透けるように澄んだ肌と対照的な漆黒の瞳。一縷の涙もない、涼しく張った女の目元が憂いを含んだものとなった。その周りに陣取る民は帝国兵へよく似ていたが、今の世にも増して絢爛な、万彩なる時代に誰も彼もが同じことを乱れ叫んでいた。 唇の動きを読み取ったソムヌスは愕然とした。 「コロセ、カミヲ……神を殺せ、だと」 死と牢獄に寄せる世界。民草の目にありありと宿るは卑しい陰のみ。背徳。罪悪。不善。一分一秒毎に罰当たりな言葉が飛び交う画の只中で、その女は重い決断を迫られていた。やがて言い募る放恣な焔の名残が微かな火種を手にすると、あっと言う間に遺恨の炎は燃え広がり、あらゆるものを焼き尽くしていった。 情景が薄れるにつれて漫然とソムヌスの意識も解かれていく。彼は儚い追憶に落胆を覚えた。なのに、時を超えて降りおりる幻影には好悪の境を超えてあり余る慈愛があった。慈しみは憐憫を生み、憐れみは決意を導いてきた。 そしてすべてを投げ打っても世界を守らんとする誓いが辿り着いた先は、畢竟、一つだけ――神を屠らんという結末だった。 「視ているのはお前か、ソムヌス・ルシス・チェラム」 唐突に古き幻が掻き消えた。錯誤に委ねた意識がはたと戻れば夜叉王は偉大なる神の御前に慄くしかない。 「申し訳ありません。勝手に視るつもりは。しかし剣神よ、これは何なのです」 「魔大戦によってイオスへ散らばった欠片だ。魂は記憶、記憶は魂……似て非なるクリスタルを依代にして集い、我々の感知出来る形で蘇り始めた」 「ではこれらの記憶は聖石にずっと宿っていたのですか」 「そうだ」 遥か昔からクリスタルの傍らには絶望が控えていた。しかし兄を斬り王冠を頂いた男は、責務に殉じ、未来を託す始祖として親の顔を持つようになっていた。恐ろしき夜叉と罵られようと、使命を果たすべく生まれ来る子らを守らんと心が逸った。 「無礼を承知でお願い仕る。何卒お教え頂きたい、あの声の正体を」 「チェラムの使命に関係ないことをなぜ知りたがる?」 「選ばれし王を守るため、我が子らを導くためです」 生来の狡猾さは鳴りを潜め、王としての面立ちがソムヌスへ絶えることなく備わっていた。 「良かろう。二千年もの間、神々に尽くしてきたお前にならば……。あれは、神代の時、かつてクリスタルに寄り添った者の記憶だ」 だが、それを聞いたところでチェラムの使命は変わることはない。と剣神はたちまち重たい口を噤んでしまった。痛いほどの沈黙に包まれるや、彼は己より前に星の粋と親しんだ者が居た事実に、ルシスは長き歴史の一部分に過ぎない、そんなことも分からず指輪を付けていたのか――そう、憫笑を落とされた気がした。 細かな結晶が余すところなく聖石の内側を覆っていた。刻が進んだのだろうか。玲瓏な煌めきを放つ紫水晶の鏡面へ先と異なる風景が映し出されると、人々の風采は随分と様変わりしていた。 「この女は。剣神が連れて来よと仰られた例の娘が映っております。記憶の声と何か関係が?」 返事はない。偉大なる神は無言の戒めだけを落として還ってしまった。残されたソムヌスは斬れども撃てども数の減らぬ病魔に目を凝らした。どれほど傷を負おうとルシスの民は決して史桜を見捨てようとしない――あの女こそが病魔を呼び寄せているというのに。国王への忠誠心と親衛隊としての誇りが照る我が子らに、古き王は栄えある祖国を見出していた。 * ソムヌスが見るに研究所を脱して二週間と少しの頃のようだった。雪原から砂漠、砂と緑が混在する地域を通り抜けた史桜一行は夕映えの湾に佇んでいた。アコルド行きの連絡船を下りたばかりか。娘はヴァーサタイルが与えた肩掛けを脱ぎ捨て――これこそが世界で唯一、彼女の所属を明らかにしていたのだが――出自の分からぬ誰某かへ身をやつしていた。 「はあ……綺麗な街ですね」 おしなべて過ぐる景色はどれも記憶にないものばかりだと困ったように微笑む史桜。少女とは呼べぬ成熟した女は水都の海原に似た鮮やかな青で着飾っていた。 てろりとした絹生地、流線的な地模様が入って高級そうな螺鈿がふんだんにあしらわれている。黒を正装とするルシスならば目立って仕方ないだろう。けれどもここは老若男女が華やぎを求めるオルティシエだ。真冬の渓流のように冷たく輝く宵闇と、目も醒めるような海色のみごとな狂騒は、触れれば融けてしまいそうなほど滑らかな史桜の柔肌を淡く輝やかせていた。 「思ったより早く追手が放たれたな。別ルートを確保しておいて助かった」 短刀を磨く親衛隊が呟いた。 「ここはもうルシスなのですか?」 「違う。アコルドだ。正確には帝国属国自治区の首都オルティシエ」 「属国?」 帝国領に変わりないのでは。夜空のような瞳が問うていた。それに駁するは寡黙な弓使いだ。親衛隊の相棒は思案深げに一瞥をくれて、 「帝国は我々がすぐさま領内に入ると判断してルシス側に包囲網を敷いている。顔の割れているお前を連れたまま監視を潜り抜けることは難しいだろう。今すぐルシスへ向かうことは不可能だ」と歯に衣着せず説き明かした。 彼らはしばらくアコルドの協力者の手を借りて鳴りを潜める。半月ほど経てば捜索の手も引く頃合になるから、その頃カエムへ針路を取り直し、バイクで大陸縦断すると温めていた計画を告げた。 「戦えぬ女を連れて長距離移動するのは至難の業だからな。時間は掛かれど安全策を取らせてもらう」 親衛隊は後ろ手に武器を綺うて油断なくゴンドラへ意識を配った。南国のオルティシエでは珍しく、コートを纏い首元をきっちり締める人々が目に付いた。驟雨のような音を響かせて落ちる滝の、際立って彩り賑やかな常夏の都も、今年の冬は比較的涼しいようだ。 「この先が関所だ。離れるなよ。淑やかな女を演じて目を伏せていろ」 「淑やかさは必要あるのですか……?」 「大アリだ。どこぞの令嬢という身分証にしているからそれっぽく見えるよう振る舞ってくれ。……てか、なんだかお前、ここ最近言い返すようになったよな?」 「いえいえ。滅相もないです」 素早く目を逸らす女へ二人の護衛は呆れた風に顔を見合わせた。彼女の瞳にはもはや恐怖の影はない。けれどもソムヌスは、女の芯が微かに震えを伴っていること、帝国製の羽織を後生大事に持ち歩いていることを目敏く認めていた。 それにしても、どうやら予想外の問題が起きているようだ。そもそもソムヌスの知るところでは史桜を連れた旅は本来ここまで厳しくない。かの研究所は辺鄙な場所に位置している上、ヴァーサタイルらの神話研究は冷遇されているからだ。よって研究所ひとつ破壊されたところで痛くも痒くもない、というのが帝国中枢の認識だったように思う。 ところが件の研究者はよほど娘に執心らしい。上流階級出身である某氏が大仰に訴えたとなれば上層部も沈黙を貫き通すことは出来ず、ルシス領まで捜索の手を広げていた。 「流石にアコルドへ逃げたとは思ってないようだな。しかし、やっぱあの研究者を殺しておいたほうが良かったか」 「だから言った。後の祭りだが」 「悪かったよ。子供を殺すのは忍びなかったんだ」などと隊員同士は謗り合う。 夜叉王は熱に浮かされた若き博士の妄執に危険な影を感じ取った。だが今のソムヌスに実権はない。凡ては現国王が対処すべき政だとして、秋風の立つ直観を胸に埋めるしかなかった。 「お二方。劇場のパンフレット頂いてしまいました。あちらのホールで新作歌劇をしているそうですよ」 「だから目立つなっての、君島。頼むから田舎出の生娘のような振る舞いは止めてくれ」 「は、はい……」 見知らぬ土地へ飛び込んだ史桜にしてみればまさしくその通りだろうが。しかし男の揶揄もどこ吹く風、彼女の横顔はクリスタルの残像で相まみえたものと一寸変わらぬ物柔らかさを備えていた。その様は貞淑という概念が史桜の姿をとって折り目正しく一人歩きしているように見える。であるのに、一方では甘くて張りのある色彩の対立がいっそふしだらにさえ感じて国王の望むまま死神へくれてやるのが惜しくなる。 やがて三人は王都出身の社長令嬢とガードマンという肩書きを使い、商売敵との会談と称してスイートルームをひとつ取った。衣食住凡てが室内に取り付けられた高級室なら史桜が他人に鉢合わせる可能性も減ると考えたのだろう。程なくして隊員の一人が情報収集に海の街へ消えていった。 そうして夕食時を過ぎた頃だったか。窓に暮れ時のざわめきを認めた女が音もなくバルコニーへ姿を現した。弓なりの月が暮れなずむ空に浮かんでいる。水平線を走る波間の残照に旅の疲れを宿す女は、いかにも蒼白く、月影へ透くほどだった。だのにオルティシエの夜はこれからと言わんばかり、一層賑わいを増した灯篭がそこかしこに灯り始めていた。 「本当に知らない国に来てしまったみたい」 眼下へ広がる幻想的な風景を眺めつ、女が独りごちた。その背に悲観的な色はなく、どこか離れた場所からつつがなく外界を傍観する姿はソムヌスや英霊へ相通ずるものがあった。だから、だろうか。夜叉王の口からついぞ「哀れな娘だ」と漏れ出ていた。 その刹那、史桜が勢いよく天を仰いだ。 「今の声は?」 女は両のまなこでソムヌスの姿を捉えた。英霊たる彼を。海に千々れる白浪が二人の間を埋めていけば、史桜は数歩後退り、細い息を吐き出した。 「鎧を纏った御方……。どなたですか。どうしてここに?」 「見えるのか。こちらとしてはお前に会うつもりは毛頭なかったのだが」 不可視の世界へ接点を持つ女。何故彼女はソムヌスを認識出来るのだろう。挟間に差し交わす言葉が互いを繋ぐも、疑問ばかりが募っていく。 「俺はクリスタルを介してお前を見ている。お前は、イオスの人間ではないな。纏うものが我々と違う」 名は史桜。姓は君島。現国王が女を保護せよと命じた折に幾つか必要な情報は聞き囓っていた。だが未だ無知なる娘は神々の威光に目もくれず、指輪の英知も存じ得ない。 「史桜。単刀直入に言う。これからお前が赴く場所は神の御光によって成り立つ国だ。しかし神々は決してお前を慕ってはいないぞ」 ルシスに赴けば殺されかねない。そう仄めかす夜叉王。 「何故、神はお前を憎む?」 ソムヌスは感じ取っていた――剣神から史桜へ向けられた底知れない敵意を。されども史桜の保護はゲンティアナが王に命じたこと。そして、かの使徒は神の代弁者であり、六神達の意思を伝えたに過ぎない。神の名の許で使命へ尽くすソムヌスに、口出しする権利など無いのは明らかだった。 それでも言外に彼女を慮る言葉が心に触れたのだろう。ソムヌスの言をひとえに飲み込み、史桜は一寸考え込んだ。 「私は……ここが何処なのか、この世界がどういった場所なのか。それすらまだ知りません。そんな私が、貴方の望む答えを導き出せるとお考えですか」 覚えているのは故郷のことだけ。だのに、風花吹き晒す部屋にいつとはなく投げ出された女は、忘却の海に押し流されるままこんな場所まで来てしまった。 「自分の家へ帰れるのなら帰りたい。そう、思います」 けれど、と史桜。 「誰かに喚ばれているような感覚が、ずっと頭の裏側へ張り付いているのです。だから私は行かなければ」 イオスの民はイオスで生まれイオスで死す。片やこの大地に還れぬ他所者の魂は、安寧の地を得られぬ代わりに、星の病へ罹ることもないだろう。 「愚かな娘だな。ならば生きて辿り着くがいい、我らが聖石の身許へ」 ――そう。クリスタルの力は星の想い。 「……っ、またか」 前触れなくあの声が響き、ソムヌスの意識が在りし日の残像へと引き戻された。水晶から横溢した記憶。それらが否応なしに脳裏へねじ込まれていけば、望まぬ自我の氾濫を招いていく。 ――叡智とは星の記憶。 「クリスタルに宿る影よ、お前も星の一部だろう?」 ――記憶とは星の粋。 「ではその星が蝕まれていたらどうする?」 ――星の粋は、生きとし生ける命。 「蝕まれた記憶を再現するお前も、あるべき姿を失っているのではないか?」 やがて時の薄片の向こう側で女の声へ被せるように誰かの言葉が続いた。その絲はソムヌスの身体から出ていた。 「この星は病んでいる。病魔に侵された存在が命を刻んだところで何者にもなれはしない。膿んだ部分を消し去るしか、もはや道はないのだ」と紡いだ瞬間、夜叉王は心の底からそう信じ切っていた気がした。 人の営みは書き起こされた記録によって結び付けられる。獣の営みは魂に刻まれた記憶によって繋がっている――生きとし生ける者が遺した記録と記憶によって再現されるのは星そのものの営みである。であるなら、神々の営みはどのようにして受け継がれていくのだろう。
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'War of the Astrals'