君懸Record 2 世界大戦編
-史桜-
第18話 Deeper and Deeper
-深く、遠く-
百年越しの大戦は青い氷のような空気を差し入れる。先遣隊が出陣して三週間と少し、レギス一行が人知れず王都を発って二週間、水都で宣戦布告がなされて五日――史桜は大部屋の窓を開け放ち、外界を隔てる城壁を一望した。 朝靄まとう儚い雪気がインソムニアを輝やかせていた。翳りがちな冬の陽を抜けて東の路を通れば水都へ続く大洋が、西へ戻れば王都の食料庫を支える農場が広がる。北にはカヴァー地方と王都を断絶する関所が築かれ、そこからやや西寄りに王家の丘が聳えていた。 「暦の上ではもう春だと言うのに桜が咲く気配さえありませんわね」 傍らで茶会の準備を進める公女がうら寂しげに呟いたのが聞こえた。諾う史桜は窓枠に積もった雪をひと掬い、願いを込めて息を吹きかける。さらさらと散じる白き花弁はこの春がことさら冷え込む兆しであった。 「桜は儚く散る象徴と申します。けれど帝国との戦いが終わればきっと綺麗な花が咲きますわ。そうでございましょう、史桜?」 「……ええ、きっと」 歴史ある都を通る木枯らしはカヴァー地域の北風か。あるいは帝国が絶望と共にもたらす西風か。戦いが始まってなお王都市民の大半は遠い地で起きる出来事であると雪解け厭う跫音へ耳を塞いだ。しかし水都での勝利が届くとまもなくイオス東域は喜びに湧いた。 片や大国の出鼻を挫いた奇跡的な勝利だと――片や帝国は休戦の折に弱体化してルシスの敵ではないと――宣戦布告から一週間、戴冠以来モルス陛下を苛んで来た帝国との戦いは漸く市民の関心を掴んだ。けれど本当は誰も彼も気付いて然るべきなのだ。西つ方が、静か過ぎると。 折節、身支度を終えた王女が寝室より姿を現した。彼女は友人らを認めるなり慎ましやかな微笑みを向けた。齢十二にして大戦を経験した少女は多感な刻を乗り越えて既に繭を破らんとしていた。 「メモリア、勝手に窓を開けてごめんなさい。寒くはない?」 「ご機嫌よう史桜お姉さま。ええ、目も醒めるような風ね」 「やはりお寒いのですね?」 「ふふ、冗談だってば。冬空にお茶会なんて風流で素敵じゃない」 それから彼女はアウライアを認めて草の縁に一礼する。 「アウライア公爵嬢、あなたもご機嫌よう」 「ご機嫌よう。お邪魔しておりますわ、姫君。丁度お茶が入っておりますのでどうぞお座りになって」 世話役が問えばやんごとなき王女が淑やかに花やむ。姫が笑みを浮かべれば手際よくアウライアが茶を淹れる。ここはメモリア殿下の私室、異国の女が成長を見守ってきた少女の部屋だ。花模様が印象的な丸机へ、王女、公爵令嬢、世話役が並んで座すと読書机は瞬く間に茶会テーブルと化した。 「三人でお茶会なんて何年ぶりかな。わたしとお姉さまが屋敷を出てから初めて?」 「そうでしたっけ。アウライア、どうだったか覚えてます?」 「忘れっぽいのは相変わらずですわね……。殿下の仰る通り、お二人が王宮へ移り住んでから二年ぶりの主催でございますわ」 史桜と公女を代わる代わる見比べるや王女は目尻に柔らかな皺を刻んだ。さもありなん壁の外で血が流れているなど遠い夢のようだった。その折り、にわかにアウライアが身を乗り出した。 「まあ。このお菓子、ヴィヴィアンの限定販売品ですわね。今日のためにわざわざ並んでくださったの」 「ううん、頂き物です。ジャレットさんが先日のお詫びにとくださったんですよ」 耳馴染みの薄い名前に小首を傾げたのは意に違わず公爵令嬢だった。 「どなたでございましょう。史桜の新しい彼?」 「ぶふっ」 ヴィヴィアンと言えば高級ブランドブティックである。その店が数量限定の品物を出せば相応の値段はしよう。そんなものを贈るなど恋人以外に居ませんわ。と公女が至極真面目腐った面で呟くものだから、世話役と王女は堪らず吹き出してしまった。 「公爵嬢ったら可笑しい」 王女が腹筋を縒って、 「ジャレットはアミティシア家の執事だよ」と申し添えるのだが、相も変わらず笑壺に入ったと見え、机の下へ屈み込んで涙を拭いた。それでもなお顎が外れるほど笑われる理由に思い至らぬ公爵令嬢は恥ずかしげに頬を膨らませた。 「史桜、何が面白くって」 「えっ。怒られるのは私だけ」 「だって貴女に関する話題でございましょう」 ジャレット某氏が貴女にこんな貴重な菓子を贈った理由をお聞かせくださいませ。唇を尖らせてそう語る公爵嬢の瞳に気圧される。そこで最年長の女は漸くことの成り行きを語ることにした。 かくして女が紡ぐ物語はこんな内容だった。 数日前、クレイラスが親衛隊伝いに実家へ変哲ない木箱を送りつけた。外装にはフルオク農場印、野菜詰めのようなそれは幼少のみぎりより王子の護衛として随従するアミティシア家若頭が旅先より託したものだった。訝しんだジャレットが疾くと確認すれば、思い掛けず、抱え切れぬほどの手紙が詰まっていた。宛先は若頭が枝を交わした女性ばかりである。しかし相手の名前が刻まれているだけ、端から誰かが配り歩くことを前提としているようだった。 友人らは思わず喉を引き攣らせた。 「うわあ。大量のラブレターが届いたってこと? 信じられない」 頓狂な声を漏らしたのは王女だ。一人の男が数多の女性へ向け情熱的な文を送るなど、自由恋愛を貴ぶインソムニアでも物珍しいからだ。それでも一通一通ずしりと重みあって、こもごも愛情を込めて書いたのだろうと世話役が庇い立れば、感嘆へ類した溜息が四方から響く。 「はい。そして、偶然その中に親衛隊に勤める女性宛てのお手紙がありまして。ジャレッドさんが居場所を伺いに事務室へいらっしゃったんです」 「それだけ数打てば親衛隊にも当たるよね」 「メモリア殿下、ご慧眼でございます」 公爵令嬢と王女は深く頷き合いながら話の路先を読み当てようと試みた。 「で。お姉さまは大変そうなジャレッドを黙って見て居られず、結局手伝ってしまったんだ。面倒事は嫌いじゃなかったの?」 「あーと……色々と事情がありまして」 戦時中に割ける護衛は限られている。だから手を貸したのは宮中のみ――なのだが、執事には大変感謝され、後日高級ブティックの限定菓子が届いた次第であった。 だが史桜がアミティシア家執事を手伝った所以はそれだけにあらず。これこそ今日日二人を茶会に呼んだ理由であり、ジャレッドの話題を出した意図であった。おもむろに世話役は薄い宝石箱を懐から取り出して蓋を開けた。中には二通の封筒が小綺麗に収まっていた。 「闇雲に手伝った訳ではないんですよ。実は彼からお二人にとお預かりした文があって。差出人、どなただと思いますか?」 耳目を寄せて最年長の女を見定める二人。公爵嬢の頬は安堵の薔薇色に、王女の瞳は星屑のごとく閃いた。 「クレイラスからじゃないの?」 「いいえ殿下。彼女の口振りでは別の人間でございましょう。姫君はともかく、わたくしがアミティシア氏から手紙を頂く道理はございませんもの。であれば……レギス殿下でございませんか」 「はい、ご名答です」 急き込んで身を乗り出す友人へ一通ずつ差し出せばめいめい花盛りに頬を緩めた。執筆者はレギス・ルシス・チェラム。アウライアの幼馴染みであり、メモリアの兄君である彼は女の良き友人でもある。 レギスの記す手紙は慮る言葉に溢れて、ウィスカムの食事が美味い、クレイラスと美しい景色を見た、シドの小言が煩い、等と綴られていた。けれども現在地の名言は避けられて、王子一行がいかな状況へ置かれているか判断し難かった。シガイ侵入事件や先発隊襲撃を経て情報漏洩を強く警戒しているのだ。 それでも手紙の中で快活に笑う彼に釣られて、三羽烏は軽やかに喉を鳴らした。そうして熱の籠もった瞳で再び紙面へ視線を落とす高貴な女達を水入らずに愛おしめば、背後より忍び寄る獏とした寂しさを史桜は跳ね除けんとした。 「(コルの手紙は、ない)」 水都奇襲を決行する前夜、先発隊の面々は王都へ最期の手紙を送ったと云う。報告のため一時帰還した親衛隊を介してそれらは順次城へ届き始めていた。だのにコルがしたためた手紙はない。一通も。 それが意味する可能性は二つあった。既に死人であるか、あるいは故郷など眼中にないか。しかし史桜は両者を直ちに否定した。ひとつ、気高き獅子が命を落とすはずがない。ふたつ、彼は約束してくれた、生き延びて必ず連絡すると。 異界よりおとなった女は、屋敷の暖炉で眠気を誘う火花に日もすがら耳を傾けていた子供を懐かしく思った。そうだ、幼き子らは彼女を置いて遠くへ去る。神々が厭い、歴史が忘れ去った女を、易々と追い抜いて。 けれどもコル・リオニスだけは違った。懐かしい故郷の匂いを纏いながら走り去る間際に振り向いて史桜へ手を差し伸べてくれた。そして一足毎に精神の階段を昇りながら、ゆっくり海底に沈む女を水面へ引き上げんとするのだ。 折りに触れて公爵令嬢が怪訝な声を上げた。 「何でございましょう、こちらは」 どうやら宝石箱の底に消印付きの小包を発見したらしい。ならば親衛隊が直接運んだ代物ではない。それどころかクレイラスやレギスがしたためた手紙ではなさそうだった。かの筆跡は主と似ても似つかぬ荒々しい殴り書きの体をしていたのだ。 「史桜、気付いていて? 貴女宛ての物が一つ残ってますわ。消印はガーディナ。四日前に投函されておりますわね」 「ガーディナ、ですか?」 先発隊が手紙をしたためた場所はガーディナだった。ならばコルだろうか。但し日付が異なる。記憶が正しければ四日前はルシス先発隊がオルティシエの戦いに勝利した翌日だが、それでは渡航前に手紙を回収した情報と食い違う。 「(集配に間に合わず、自分で郵便を出したのだろうか)」 送り主がコルだとすれば、の話だが。なにせ彼は隊内で嫌がらせを受けている、あり得ない話ではない。女の中で期待と不安が大きく交錯した。検閲済みの印鑑を逸したそれは潮水に濡れても平気なように幾重にもくるんであって、あいまいに令嬢の掌へ収まっていた。あまりに慎ましやかな姿は見落されなかったのが不思議なくらいだ。 恐る恐る包装を解くと風合い良い紅布が姿を現した。絹の光沢は痩せ落ちた記憶にふくよかな肉付けをして女の眼前へ突き付ける。悉く腐り落ちた花弁のような厭わしさが胸を締め付けながら、鮮烈に蘇るは、ベスティア家の家紋が縫い付けられた古き羽織だった。 「これ、は……」 ウェルエタム地方の冬嵐が耳元で唸った。どういった意図でクレイラスが届けさせた荷物に紛れたか分からねど異質な贈り物は奇妙なほど宵の眼を貫き刺した。なのに言い淀む女の傍らで友人らは申し合わせたように感嘆の声を上げ、 「わあ、綺麗なイヤリング。お姉さまに似合いそう。でも片耳だけ贈るなんて変なの」 「ミスリル製ですわね。ルシスでは滅多に見ない貴金属ですわ」 それから令嬢の視線がふと史桜の右耳へ吸い寄せられた。 「その耳飾りに似ていますわね」 それもミスリルでございましょう。と一目で見抜いた公爵嬢に世話役は肩を竦めた。似ている? そんな生易しい表現で済まされないだろう。双方そっくりその侭と言って過言ではない。だが、これとて己で購入した物ではなく――誰かからの贈り物と言う訳でもなく――いつの間にか懐に入っていた物だった。 「史桜。わたくしの見間違いでなければ、貴女が右耳に着けているそれの片割れでなくて?」 「……そう、ですね」 近くで眺めると女性好みのする繊細なデザインだった。流線形をモチーフに象られた金装飾、赤い意匠に微かな紫光が混じ入る澄んだ宝石は神世の余塵を遺しながら、一切合切繕わぬ悪意の爪跡でもある。儚い雫は涼やかな音を立てるや魅入る者へこう叫んでいた。 ――還れ! 還れ! 還れ! 暴れ回る寂寥感に胸が張り裂けそうだった。只事ならぬ衝動に息を呑み、耳飾りからすかさず指を放した。嗚呼、彼らが来る。そう思った。それが誰かは分からない。確かなのは女を咎人と呼ばぬ者らであること。そして平穏な世界から引き剥がして空白の歴史に彼女を放逸せんとする輩であることだった。 女は美しい装いを、震える手で、しかしいとも容易く身に付けた。 * 公務を学ぶ姫の私室を後にし、公爵令嬢を正門まで見送る路すがら、あの菓子が美味しかった、今度は別の茶葉を取り寄せよう、などど史桜は快い余韻に浸っていた。その両耳には艶冶な一揃いが熟れる。だのにこなたの中身は空虚、彼方は波紋が揺らぎ、さながら身に覚えのない罪を糾弾される咎人と強き力の象徴たる獅子の取り合わせであった。 彼女が初めて耳飾りの存在に気が付いたのはいつだったか。夏の惨劇、王都シガイ発生事件の日だったかもしれない。コルと別れ、クレイラスの小言を聞き流し、親衛隊に付き添われながら寝る支度をしていた時分のことだ。いずれ劣らぬ小さな輝きがベッドへ転げ落ちた。 流線的な十字の下へ丸みを帯びた雫型が釣り下がる耳飾りは氷神の涕涙を思わせる。でありながら、古代遺跡で異彩を放つ十字架〈クルクス〉のようでもあって、誰の目にも貴重な代物だと明らかであった。 だから最初は他人の落とし物だろうと思った。蓋し当時女が接触した人間はコルだけ、その彼も自分の所有物ではないと主張する。では持ち主を探し回るべきか、と過ぎるも、手放すには何故か名残惜しく。せめて失わないようにと肌身離さず身に付けて今に至れば、何の因果か、一式揃ってしまったらしい。左右重みは違えど、黒と金、赤と紫の存在感は、史桜をひとかどの人物へ変えてくれた気がした。 「送り主はどなたなのかしら。わざわざ失った片割れを送り届けるなんて。本当は貴女もよく知るお人じゃなくて?」 アウライアの瞳が乙女座の輝きを呈した。 「どこの殿方か気になりませんこと」 「あはは。どうでしょう」 ――そもそも私の失せ物ではないのだけれど。 史桜をよく知る人間であることに異論はない。だが双方顔見知りである必要もない。女の立場を聞き囓った人間なら城内でもすぐ見分けが付くだろうし、一方的に姿を記憶している可能性すらあろう。 口を濁してぎこちない笑みを貼り付けると公女様はお見通しと言わんばかりに長歎息を吐いた。それぎり彼女は何も言わなかった。とん、と二人の肘が触れ合った。やがて友人は史桜の腕に自身の滑らかなそれを通した。 「アウライア? どうしたの?」 「……何でもありませんわ。同性同士ならばはしたない真似ではございませんでしょう」 「ふふ。そうですね」 女は令嬢のかしらをそっと撫でた。戦いに赴く者、残留する者、どちらも戦争と言う名の殺し合いがあざなう不安の糸に蝕まれていた。それはいかな明るく振る舞おうと振り解けるものではない。ましてや、レギス王子より幾年若い彼女が、たった独りで乗り切れようか。気丈に振る舞っていたとて平気なはずがないのだ。 ふとしも二人の視界が白んだ。漆黒に射し込む暁月夜のような光彩が網膜を刺激する。足元を見遣れば光の波紋が揺蕩うて、所定めぬ煌めきはどこかで見た光景を想起させた。 そう――モルス国王陛下と初めて相まみえた日、サンギスと迷い込んだ霊廟。気が付けば永久に伸びる廊下の端に友人が歩み続けていた。だから思わず追い掛けるのだが、距離は縮まるどころか遠のいて、史桜は必死に制止を掛けた。 何度目かの呼び声で公爵令嬢は小首を傾げた。そのままゆっくりと上半身だけを見返る。裾長きワンピースに薄羽織を纏う姿は時候外れの夜会ドレスのようだった。艶めく黒髪が天より注ぐきざはしに際立てばかの女使徒と見まごう神々しさがあった。 そこで史桜は、はたと息を呑む。公爵令嬢は美しいプラチナブロンドだったはずだ。ならばあれは誰だ。女の瞳がそれを捕捉するやその人は上品に手を振った。どうしたの。女の口元はそう問うていた。 その折り、彼女の背後で光の粒子が途切れた。頭上の水路が割れて異なる世界が垣間見えた。開かれた空間の向こうには穏やかな大河が流れて、滔々と水面の流れる音だけが響くも、とんと人の姿がない。 ただ一本、白き樹木がうら淋しげに佇んでいた。果たしてこれがこの世の光景であり得ようかと恐怖に立ち竦めば白い大木が蠢いた。数多の枝葉を以て迫り来るそれが、廊下を歩く黒き女性を狙っているのだと史桜が理解するのにさほど時間は要さなかった。 「いけない。アウライア、こっちへ走って! 早く、私の手を掴んで!」 その人は一瞬怪訝そうに立ち尽くす。けれども束の間、血相変えて呼び止める女を認めて何かが起きていると理解したらしい。彼女はスカートの裾をたくし上げて駆ける。距離が縮まれば縮まるほど閃く漆黒は金糸へ様変わりして、揺れる光に燦然と輝いた。 「史桜! 気付いてくださらないかと思いましたわ」 靴音を響かせながら恐怖の面持ちで叫び来る彼女は紛うことなく公爵令嬢だった。 「そちらこそ。でも、ああ、怪我はないんですね、良かった」 「暢気な御方。わたくしの心配をしている場合ではありませんでしょう。貴女の背後から変な木が迫って、恐ろしいったらないですわ。さ、早くこちらにいらして」 「私の背後……? 違います、あれはアウライアの」 友人の腕を掴もうとした時だった。二人は見えない壁に阻まれた。目の前に居るのに手を触れることが出来ない。彼女はこちら側に来ることが出来ないのだ。と同時に史桜も向こう側へ越えることが出来ない。そうこうしている間にみるみる枝との距離が狭まって、白亜の木肌が視界を覆い尽くした。巨大な影が掛かる。誰ともなく二人はゆっくりと頭上を仰いだ。 「白い、糸杉」 懐かしげに呟いたのはどちらだったか。公爵令嬢のまなこに恬然と樹木を仰ぐ女が映っていた。立ち枯れのような樹木が追っていたのは、友人ではなく自分――ついぞ状況を把握した史桜が胡乱気に息衝いた。その貌からは表情が剥がれ落ちて、断頭台でただただ死を待つ囚人のようだった。 「ああ史桜、駄目よ、駄目……行かないで。分かるでしょう? 貴女はその川を渡っては駄目なの」 ――どうして、怯えているの。 「何を考えていらっしゃるの。絶対に、駄目ですわ」 ――何が、駄目なの。 「やめて。貴女までわたくしを置いて何処かへ消えないで」 向こう側は生者の領域ではない。女を囲う白い糸杉は生者がこの川を渡ることはまかりならぬと告げていたが、望む者が対価を払えば渡し船を差し出すのだろうと思えた。 「(この樹なら、私の故郷がどこにあるか知っているのかもしれない)」 それが現の存在でないならば。同じく常夜を越えて異界へ落ちた女の世界へ繋がっている可能性は否定できない。されどコル・リオニスと約束したのだ。この戦争が終わったらまた生きて会おうと。だから私はどこにも行きません。と令嬢を宥めようとした刹那だった。糸杉の先端が背後から史桜を大きく貫いた。 「……ッ!」 刺し貫かれる反動で彼女は透明な壁へ叩き付けられた。その中で仄かに沙羅の擦れた音のようなものが鼓膜を揺らしていた。どうやら阻まれた世界のこちら側、二人を阻む薄膜の果てに静かな雨が降り込めているようだった。それは天を漂う水底の雫――令嬢は目を背けること叶わず薄い硝子越しに泣き崩れた。 「行かないで、史桜……レギス……」 玻璃越しに友と掌を合わせたまま。瞼が段々と重くなる。けれど痛みはない。心臓を貫かれたはずなのに、一滴の血も流れず、頬は薔薇色を呈していた。静かに静かに水位だけが上がっていった。己はこのまま溺死するのかと思われたが、瞬間、大きく開いた背後の穴へ大河が流れ出て行く。 臓腑を貫かれたまま史桜の周りだけ凡ての刻が止まっていた。かくて水が引いていく寸前、白い樹木が小柄な身体を持ち上げた。連れ去ろうとしているのだ。持って行かないで、そう叫ぶ友人が視界の隅に在る。けれども異界の存在に只人である公爵令嬢の声が届くはずはなく。 誰の脳裏にも残らぬ何かは――しかし想いだけは遺した何かは――闇を誑かす漆黒の絲にふわりと絡まって川底を浚う。ないし、逸話も思い出せぬ御伽草子は――けれど暗森の透き影に流れた血は――まったき石に宿り続けて神代の過ちを訴えかける。 抉られた記憶に、空白の歴史に、夢を穿つ夜空に。凪いだ湖面へ似た紫色は平和の象徴であるクリスタルのように史桜を見守ってくれていた。それなのに女の心は物騒がしく、拷問の叫びを上げかねては、蒼白な唇を噛み締める罪人の心地で問いも問われもせず慄えていた。
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'オルティシエ ~ゴンドラ~'