君懸Record 2 世界大戦編
-アーデン-

第17話 In the Faded Past

 -褪せた過去に-

 蝋翼を溶かす遣いが二十四使徒ならば、大空を羽ばたかんとする願いを受け継ぐアダギウムはさしずめ煉獄へ誘う使者だろうか。極寒の牙城、ジグナタス要塞に籠るイズニア宰相は大振りな耳飾りを手持ち無沙汰に弄んでいた。  それは神の記憶で異質な娘が身に着けていたものを彷彿とさせる。だが当時の物とは金属片の材質が異なるのだろう、つるりとした雫の鏡面には――アーデンの趣味だろう――細かい地模様が施されて、眩い光を反射していた。 「こんなものが英霊界と現世を繋ぐなんて眉唾物だな。……あ、オレの存在も皆にとっては眉唾物か」  第四セキュリティエリアの会議室で誰に向けるでもなく独りごちれば、ホログラムデータへ魅入る博士が僅かな反応を示した。帝都最大の砦にてプラスモディウムをこよなく愛する男の頬は弛みを帯びて些か老け込んだように見える。だのに言葉は意に違わず明晰であり、曖昧なところがひとつもなかった。 「卑下する必要はないぞ。忘我の川とアダギウム、我々にとってはどちらも素晴らしい存在である」  この男は思考的柔軟性を持ち合わせながら変なところで真面目なのだ。 「はいはい。どーも。魔導兵第一人者様に褒められて嬉しいよ」  忘れじの川、対なす空間にたゆたう大河。神世の遺物として、現世を超えた魂領域全体に流るる巨大な河川。アーデンも博士に倣い萎靡たる知識を貪ろうとしたのが運の尽き、同じ文句を書き連ねる資料に飽きて怠惰な笑みを浮かべた。 「ねえ博士。忘我の川って、やっぱり俺達ルシスが使う魔法に近いよね」 「またその話かね。よほど感じ入る部分が多いと見える」  ルシスの扱う魔力も本来は人に過ぎたるもの。対なす世界と現世を繋ぐ指輪があって初めて人の身で扱うことが可能になる。片や、忘我の川も生きた人間では触れること叶わず、特殊な能力がなければ知覚することさえ不可能な代物だった。けれどそこに共通原理があるなら、実験と失敗繰り返して解明すれば良いだけの話である。 「何度耳にしても面白い説だ。実際に魔法を使う人間でなければ辿り着かぬ結論と言えよう」  かくて博士はこう付け加える。双方に共通するのは、何者かの橋渡しがなければ扱えない点だと。 「古代帝国が興りし旧き御代。何らかの理由により、スチリフ霊廟には忘れじの川が注がれた。宗教的観点から、炎は生を、水は死を意味するソルハイムにおいて、それらは現世と霊界を結ぶ役目を持っていたと考えるのが一般的だった」  あるいは肉体から離れた死者の魂が迷子にならぬよう霊界への導きとして。あるいは陽光届かぬ暗き水底で死者の眠りを覚まさぬように。 「だがルシス・チェラム家へ与えられた指輪と霊廟の水が同じ性質を持つと仮定すれば、これらは全く別の意味を持ち始める。我々も大河の水を利用してクリスタルと同等の力を扱えるかもしれないのだからな」  これまでイオスにおいて橋渡しの役目果たせる代物は、光燐の指輪、ただ一つだった。否、そう思われていた。だがあの水そのものがさながら水面に撓む夢の浮き橋であるなら――チェラム家以外の人間であっても神世に満ちる力の一端を引き出せるなら――機械帝国が不眠の街を蹂躙し、イオス全土を手中に収める日とて遠い夢ではなくなる。  「うんうん。スチリフの霊廟、十二分に研究価値はあるんじゃない。原理さえ分かれば、博士ならクリスタル魔法を消し去ることも可能でしょ?」 「ああ……! そなたのお陰で我が好奇心は尽きぬよ。しかし、忘れてはおるまいな。忘我の川は私のような生身人間では触れること叶わぬ。橋を渡ろうにも板に足がつかねば意味がないのだ」 「大丈夫大丈夫、ちゃんと覚えてるよ。だからオレが頑張ったんでしょ。優しいお仲間に協力してもらって、ね」  暗鬱とした瞳に火が灯った。互いの成果にほくそ笑むはシガイの王か、狂気の科学者か。彼等は数ヶ月前の王都襲撃事件に思いを馳せて胸を昂ぶらせた。 「そうだな。霊界へ近しい存在、つまり異形の者なら触れることが可能なのだと、そなたは身をもって私に教えてくれた。深く感謝をする」  時はシガイの王と博士が霊廟を訪れた秋の日まで遡る。あの日アーデンは霊廟の水を難なく汲みあげた。凡人では影しか知覚出来ない水面へ手を挿し入れ、美しい雫型の器を澄み渡る冷水で満たした。 「単なる護衛として連れ出した男がこれほど重要な発見をもたらすとは考えなんだよ。そなたを神影島から探し出したこと、決して間違いではなかったな」  人在らざる者が水を通り抜けることが出来るならば、生命としての形を捨てたシガイとて自在に往来が出来るのではないか。そう考えた二人が最初期に行った検証実験は以下のようなものだった。まず以前汲み上げたスチリフの水を用意する。その中へ病魔を潜らせる。かくて理論上では霊廟の水底へシガイが出現するはずだった。  しかしだ。奇しくも路は王都へ繋がっていた。そこで彼らは王都シガイ侵入事件を画策し、オルトロス率いる魔物がインソムニアを襲ったのだった。だがスチリフの水――いや、忘我の川と言うべきか――は無条件に各地と繋がっている訳ではない。現世の双方に水が存在しなければ、かような移動はできないはずだ。なればこそ王都のどこかに忘我の水に繋がる場所があるはず。博士は、そう、私見を表明しては、 「インソムニアに流れる忘我の水が何処にあるか、判明しておらぬのかね」と気忙しく尋ねた。 「シガイの出口となった場所……って意味? 親衛隊の動きから北側ってことは知ってるんだけど、なんせ近々ルシスはオレ達と戦争始めようってもんだったから情報統制が厳しくてね。めぼしい場所はあっても、確証がない」 「モルス国王も愚か者では無い、ということか。それさえ見つければ魔法障壁など敵ではないのだが。こうなってしまっては次段階の研究はお預けだな……では霊廟の水はそなたが保管しておいてくれたまえ。くれぐれも扱いには気をつけよ。残りは一瓶しかないのでな」 「はいはい」  血を分けた一族を葬り去らんと腹を固めた男は、オルティシエ神殿内に隠されていた文献――と言っても幾度もの水害に見舞われて角が丸みを帯びた石板である――に再び目線落とした。海を隔てた遠き地にも太陽帝国へ繋がる記述が遺されていたのだ。イズニア宰相は帝国版図が水都まで及んだ証拠に感興深く目を通しては「よくもまあこんな資料を掘り出したよね」と息衝いた。 「簡単な事だ。水のことは水の都に、と言うであろう、アダギウム?」 「……はいはい」  古代帝国の興りし地はクレイン地方である。遠く離れたアコルドにかの国に関する歴史が遺っているなぞあり得ないと、当初アーデンは反対した。しかし大河はいずれ海原へ流れ出づもの。さすれば水神を祀る国にも何かしら痕跡があるはずだとヴァーサタイルは譲らなかった。 「わざわざ石板に刻むとは考えたな。後世へ伝える遺志があったってことだ。この様子だと忘れじの川に関する資料はイオス中にありそうじゃない?」  それとて、アーデンが求め続けた答えを示してくれる訳ではないが――ひび割れた石くれは忘我の川についてのみ語られていた。対なす世界に流れる大河であると。しかし、何年来も追い求めた神殺しの伝承は影も形もなく。  ――いいや、オルティシエだけじゃない。何処にも、何にも、遺っていない。  最も易々と見つかる代物なら御伽草子として今なお各地で語り継がれよう。しかるに神殺しの女とは歴史の敗北者なのだ。現に神々が今以て存在していることがその証左だ。そして初代王になるはずだった男がアダギウムとして怪物へ落とされたが同様に、勝者は敗北者の存在を都合の良いよう書き替えて、悪役に抜擢する者、揉み消して端から空白だと装う者と岐路に立つ。  宰相が言外に諦念を込めれば博士がひたむきな想いを口にした。 「己に重ねて落胆する必要はないぞ、アダギウムよ。そなたも知っていよう、失われた記録は『神殺し』だけではない。魔大戦に関わることそのもの、空白なのだ。であるなら……文明崩壊の暗黒時代に記録が失われてしまったと考えるのが妥当ではないか」  意図して隠されたにせよ、紛失したにせよ、だ。諦めず絲を手繰り寄せれば必ずいつかは真実に辿り着く。博士がアーデンを見つけ出したように。  魔大戦を生き延びた神殺しの女はスチリフ霊廟に眠っていた――霊廟には忘我の水が満たされていた――水は刻を進めては戻して記憶と忘却を繰り返していた――なればこそ忘れじの川の伝承を追えばいずれは娘に繋がる糸口が見つかるはずだと博士は勇を鼓す。長き研究生活に精魂注いでなお彼の知性は冴え渡っていた。  あの蛸が口車に乗ってくれて助かったとヴァーサタイルは目を眇めた。 「オルトロス一派により水の効果は検証出来た。忘れじの水を通して空間移動を行うことが可能だ、とな」  聖石を手に入れる機会を作ってやる、魔物へそう嘯いたのはアーデンである。あるいは秘密裏に持ち込まれた密約を無碍にすれば病魔にされると賢しい蛸は理解していたのかもしれない。秘めたる野望を果たすべく暫時腹を合わせた彼らは、片や王都への道を作り出し、片や宰相の目論み通りルシスを襲った。  その最中レギス王子に手痛く反撃された魔蛸は既に行方を眩ませていた。だが奴から多少情報が漏れたところでさしたる支障はなかろうと二人は判じていた。彼等はルシスさえ預かり知らぬ貴重な知識を得たのだから、それに勝るものなぞあろうか。 「魔導兵を送り込めぬのは残念だ。まあ仕方あるまい。プラスモディウスを介してシガイ化させているとは言え母体は人の体である。何度か試してみたが我が子に水の効果は無かった」  細胞レベルまでシガイと化した存在でなければ水を通ることは不可能らしい。とは言え、これこそ忘れじの川が神代の物である裏付けだろうとヴァーサタイルは整った貌を曇らせた折、はと正気に返った。 「そなた、将軍からアコルド襲撃の件は聞いておるな」 「ああ? ルシス軍の奇襲か。現場映像見たけど完敗だね」 「アコルド政府が魔導兵の導入を渋るからだ。今後は我が軍の優秀さが際立つことであろう」  夢見心地で問わず語る博士。アーデンは微かに鼻翼へ皺を寄せて、 「はは。駐屯兵が人間じゃなかったら……うん、もう少し保ったかも」  長くて一週間。けれどそれじゃちっとも面白くない、とは表立って言わず。 「ほう……? そなた、何か考えがありそうだな。待ちに待った復讐劇の始まりだ、対策は一任するぞ」 「えー。それって皇帝のお小言も聞けってことだよね。面倒なんだけどなあ……ってもう居ないし。はいはい、やっておくよ」  聞く耳持たず博士は自動扉に消えていた。魔導兵を完成させた後、使徒を模したシガイ研究に勤しむ彼は僅かでも時間が惜しいのだろう。地獄の名を冠すニフルハイム帝国の宰相は苦笑いを浮かべて巨大な画面を仰いだ。  新暦七二五年、二月二十四日未明――アコルドの首都オルティシエが奇襲されたとの報告が入った。現地部隊は瞬く間に排除され、所狭しと液晶に黒煙がくゆれば、帝国軍の旗が容赦なく焼かれる光景が映し出されていた。  流石は国王選りすぐりの精鋭部隊か。昼までにルシスの旗が水都中に立つのは想像するに難くない。しかし男はオルティシエ自治区の陥落を悔やむでもなく「劣勢だね」と口元を愉しげに歪ませた。暗い輝きを呈す瞳は血に飢えた獣めいている。怪物に堕ちた男は赤髪を振り乱して高らかに哄笑した。  観光地を混乱に陥れた奇襲はルシス国による開戦の合図だ。奴らは自ら地獄門へ鍵を挿し込んだのだ。そう仕向けたのはアーデンであり、ヴァーサタイル博士であったが、どのみち選択肢はなかったろう。その折り、肩越しに語り掛ける声があった。 「アーデン・イズニア宰相。戦況はどうなっておるのだ」  見返れば面やつれた老爺が揚陸艇より流れる現地映像を睥睨していた。かんばせから笑顔と精悍さが消えて早数年、不治の病を癒すクリスタルを欲さんと醜い野心が滲んでいた。 「これはこれはイドラ皇帝ではありませんか。わざわざご足労下さり恐縮です。このようなところで我が軍の劣勢をお見せしなければならないとは大変心苦しく思います」  恭しく頭を垂れて道化染みた台詞を紡ぐ宰相の目には瞭らかな軽蔑が宿っていた。賢帝と敬われた以前の皇帝ならば仄暗い闇を敏感に悟ったかもしれない。けれども今やイドラは男のもたらした星の病に心を蝕まれて、正常な判断力が奪われていた。  もったいつけて告げられる凶事に皇帝は顔色ひとつ変えず「こちらは全滅か」と肯った。 「魔導兵はいつでも出せる。必要な数を遠慮なく教えよ」 「私のような者へお心遣いくださるとは誠に光栄でございます。しかし必要ございません。今は放っておいて宜しいかと」 「奪われたままにしておけと申すか。オルティシエを占領されればルシスへの足掛かりが一つ消えることになるぞ。看過出来ぬな。直ちに魔導兵を送り込め」 「いいえ、勿論、水都は取り返します。氷神による死地ばかりの帝国において、豊かな緑地を有するテネブラエ、不凍港の中心地となるアコルドが重要拠点であることは重々承知しております。けれど我々の最大の目的は魔法障壁に守られし王都を陥落させてクリスタルを得ることです」  目角を立てる皇帝へ目的を見誤っては事を仕損じると柔和に諭す宰相。 「イドラ皇帝、此度の大戦で雌雄を決する必要はないのです。何故って? これはルシス崩壊の始まりに過ぎないからです。奴らは我々と戦う度にひとつずつ大事なものを手放し、内側から崩壊していく。……ご存じでしょう、中が空虚な国ほど脆いものはございません」  傀儡と化した皇帝へこの台詞を述べることは酷く滑稽に思われた。空洞化した国とは紛れもなくニフルハイム帝国を示唆していたからだ。 「今まで通りルシス領地を直接攻撃するのが宜しいかと。焦ってはなりません、最後に勝利すれば良いのです。さすればいずれアコルドも取り返せます」  何より、勝利に酔いしれるところを潰すほうが一層深い絶望を味合わせることが出来るでしょう。と宰相はやに下がった笑みを浮かべた。得々と説き伏せる男に満足したか、青白い貌をした皇帝は頷き一つ、踵を返すも、ふとしも躊躇いがちに口を開いた。 「神を殺した女とやらはどうしておる」  帝国の最高権力者は背〈そびら〉を向けたまま。 「あれはルシス王宮にございます」 「処刑されてはおらぬのだな。ルシス王家が神より賜りし魔法を繰る化け物であることは否むべからざる事実だ。だが仮に力の源を破壊せしめる者が居るならば――」 「はい。王都の陥落は早まるでしょう」 「是が非でも奪還せよ。あれがソルハイムにまつわる者である以上、元は我々の持ち物だ。早急に返してもらわねばなるまい」 「御意」  昔日、太陽に焦がれたソルハイムは翼を捥がれて母なる大地へ叩き付けられた。巨大な国は散り散りとなり、神を崇める信仰心はルシスへ、機械を繰る文明はニフルハイムへ受け継がれた。その際、祈りを拒絶した者はなかんずく地獄へ堕とされ、イオスの歴史に分岐点が生じた。  かくて帝国は古代思想を受け継がずに独自の無神論を掲げるも、幾ら再興しようと失った信仰心が復活することはなく、神々に呪われたまま、煉獄の使者ニフルハイム帝国として現代へ興ったのだ。その国が「神殺し」と呼ばれる史桜を欲するのは至極道理だろうと思えた。 *  アコルド駐在兵がルシスによる闇夜の奇襲を受けた翌日、帝国宰相は単身水都へ赴いた。赤々と燃ゆる街は炎神の記憶で垣間見た魔大戦の惨状を彷彿とさせる。凪いだ水面には波間の白い輪郭が蕩々と描かれるも、縦横無尽に街を通る水路は瓦礫に塞がれて、街行く市民の頭上へ火の粉が降り注いでいた。  ふとしも、黒い影がアーデンの視界を遮った。黒々とした絲、宵の瞳に薄皮を剥いたような柔肌。博士が霊廟より掬い上げた女に似ている。だが彼女はルシス王宮にいる筈だ。そう思ってよくよく目を凝らせばひとえに史桜の姿は朧気に透けていた。 「幻覚か……?」  病魔の本能につられて捕らえんとした途端だった。星にまつわる破片が華奢な身体から横溢した。一等濃い闇の匂いを纏ったそれにシガイの王さえ激しく嘔吐くのだが、炎神の魂が記憶の欠片として己へ流れ込んでいるのだと気付くのにさほど時間は要さなかった。  玻璃の欠片がはらはらと散じる。そのひとつひとつが涼やかな音色を立てながら集う。幾千もの小さな薄片が神へ抗する北の地なれば、古代帝国より遠く離れた樹木が真っ赤にひしめき、燃え盛る炎に鋭い影絵を象った。  古来カヴァー地方と呼ばれる豊穣の地は灼熱を纏う男神の力によって目路の限り火の海と化していた。けれども宵の海を内包する女は黙って血濡れた空を仰ぎ、天都におわす太陽皇帝の玉座を透かし見ていた。 「……刃を向けられてなお、炎神を太陽と崇め続ける敬虔な信者を、どうして貴方は殺せるのですか?」  炎上する塔へ身を投じた女は、顕示欲よろしく大仰に拵えた祭壇で太陽の化身へ語りかけた。柔らかな問いには迫り来る滅亡へ抗う意志があった。だがシヴァのような無類の冷たさはなかった。かの神ならばもっと凜々しく、凍て付く眼差しで見詰めるだろう。そして愛する者と和解叶わぬ深い悲しみが宿っているだろう。  女のまなこは愁いを吸い尽くす優しい宵の色をしていた。そこには人という種を絶えさせぬと強い決意がある。でありながら慈しんだ者に裏切られ絶望せし神をも慰めんとする澄んだ同情もあった。  イフリートは歯噛みして熱風を逆巻かせた。それでも盾突く眼差しは揺るがない。生け贄を差し出す断頭台で耳飾りを揺らす娘からは何らの力も感じられないのに、安逸を求める双眸は神を畏れることなく問い掛けていた。 「どうして貴方は、罪なき者まで殺すのですか」  ――煩い。 「反逆を図った者はもう罰しました。今ここに居るのは、生きたいと抗う者だけではありませんか」  ――黙れ。 「神を信ずる者をこれ以上殺せば、貴方も同じ背信の道へ落ちてしまいます」  ――もう沢山だ! 「どうか剣を収めてください。私達は、貴方とは戦えない」  堕神と一体化したアーデンの脳裏に女の声がありありと響いた。他人の思い出を覗き見ている自覚はあったが、檻を内側から開けることは叶わず感情の発露に飲み込まれた。だが微かな理性もあって、焦土の上で氾濫する川の冷たさも感じていた。  神が歩く度に水面へ沢山の波紋が広がり、炎神の操る焔を美しく反照していった。こもごも散らした橙色の灯は斜陽に似てイオス中を金色へ染め上げた。図らずも黄金で着飾った天都テルパの街並みを認めるやイフリートは深く嘆息した。 「女よ。崇めるだけで自ら考えようとせぬ存在に今更何を施せと言うのだ」 「いいえ、貴方と私達の間に必要なのは、互いの種を尊重し、共に生きることです」 「痴れ言を。互いを尊重? 神と人が対等と申すのか。罷り成らんな。そも人間は裏切り信ずるに値せぬ、そんな種とどうやって共存せよと言うのだ。……嗚呼、やはり不可能だ。あんな矮小な存在を信じた我が愚かだったのだ。ならば星を守る定めを持つ者としてこの種を滅ぼし、世界に尊い安寧をもたらさねばならぬ。邪魔立てすれば貴様も殺すぞ」  癇を立てた炎神が焔に息を吹き込むと女の姿はあっという間に炎に包まれた。駄目だ、儚い灯が不知火に消える――されど彼女は無傷のままだった。娘は物憂げに面を伏せて己の身体を自らのかいなで包み込んだ。そこにあるのは白刃へ身を寄せる不条理を厭う心だった。 「ソルハイム帝国皇帝、イフリート。貴方は、数百年続くこの戦いが人々の間で今や何と呼ばれているかご存じですか」  神に止めを刺せと祭り上げられては業火に晒される女へ、得心いかない表情を浮かべたのは誰だったか。娘は寂としたしじまに語りかけた。 「魔大戦……神々の戦い、という意味です。激しい怨嗟が星を蝕んでいます。このままでは神も人も、あらゆる生き物が滅んでしまうと『彼女』は警告しています」  炎神の敵はもはや人間ではなく、神であると。彼女は言外に告げていた。なるほど脆弱な人間は敵に相応しくない。彼らは神が授けた高度な文明を持ちえど、所詮は聖石なしに魔法さえ扱えぬちっぽけな存在なのだから。  さりとて炎神は心から星を愛している。人類以外を滅ぼす積もりもない。イオスのために人間を滅さんとしているのに、何故それが神の滅亡へ繋がるのか彼はちっとも解せなかった。  とその時だった。祭壇の向こうで、怯え、隠れていた民らが合唱を始めた。そして呪詛を唱えながら女を摩天楼から引き摺り降ろさんと声を張り上げるのだ。 「何をしている! 女め、早くあれを殺して聖石を奪え! 世界を統べる神の力を手に入れるのだ!」 「そうだ、神を殺せ! 神を殺せ! 神を殺せ!」 「殺せ! 殺せ! 殺せ!」  醜悪な輪唱が止むことはなかった。かつては人であり、しかし今や人間から化け物と貶される存在へ堕ちたアーデンの脳裏に弟の顔が浮かんだ。嗚呼、そうだ、人は醜い生き物だ。この汚さがアーデンを更なる悪へ落としたのだと彼は憎んだ。  時を置かず、暗い疑念がふと頭をもたげた。民らはクリスタルの存在を知っている。もしも二千年前と同じく魔大戦が聖石と王座を巡る戦いであったのなら――凡ての元凶は、クリスタルにあるのではないか。そうこうしているうちに太陽皇帝は祭壇に蹲る娘へ再び問うた。 「何故貴様はあんな奴らを助けたいと思う?」  殺されそうになってもなお、お前は民を愛せるのかと。 「貴様が戦いを望んでおらぬと知れば、奴らは貴様を排して別の者を戦いに赴かせるぞ。神を殺すためにな」  他人へ神殺しを急き立てる愚民どもを、貴様も本当は恨んでいるのではないのかと。イフリートは鬼気迫る言葉で責め苛む。  「我が死んだら次は誰だ。シヴァか、それとも貴様か。……よく聞け、互いを滅ぼすまで魔大戦は終わらぬ。人は争い続ける生き物だからだ。だから改めて問う。それでもなお人間はイオスに必要なのか?」   驕り高ぶる咆吼が天より響く火影となった。摩天楼に佇む娘は思わず身を慄わせたが、逢魔が時を祓う炎が史桜の肌を傷付けることはなかった。群衆の中から駆け付けた男がすかさず魔法障壁を張ったのだ。逆光で素顔は見えねど長い毛髪はアーデンと同じ血の色をしていた。史桜は男へ気立て好く微笑むともう一度神を仰いだ。 「分かりません。だって私は人だから。人のままである以上、その問いへ答える資格はないのでしょう。けれどもこうも思います。この星のあらゆる命の、あらゆる営みを、どうしてクリスタルは凡て記録しようとするのかと」  凡ては存在するだけで価値がある。命とは産まれること、それそのものに意味があると女は天を射竦めた。だが度重なる攻撃に彼女の身体は限界を迎えていた。間断なく猛威を奮う神火に肺を焼かれた娘は咳き込み膝を付く。すると影のように寄り添う男が声を失った史桜を抱えて、駆り立てるように疑義を唱えた。 「イフリート、オレに貴方を……神を呪わせないでくれ」  朗々とした厚みある声はアーデンと瓜二つだった。シガイの王は自分の中から音が響いているのかと訝しんだほどだった。 「神よ、お前はイオスを愛すると言いながらこの星のことを何も分かっていないのだな。星にとって大切なのは何を為すかではなく、命が生まれて巡る、それこそがイオスを支える源だ。そうだ、本当は気づいているのだろう? 聖石はそれを体現した代物だと」  あえかな紡ぎ言は不思議と炎神の胸を衝いた。だがそれはかつて、イフリートが人の持つ可能性を恋人へ説き伏せた姿と重なって、却って神の怒りを買ってしまった。 「煩い。煩い煩い。虫ケラ共が聖石を語るな! クリスタルの力を、使うな!」  紅蓮の燭が渦巻けば激情の波は暗がりに潜むアーデンの意識をも弾かんとした。そして次の瞬間、シガイの王は記憶から締め出されて暮れ泥む水都に居たのだった。意識が冴えるや、宰相は地面に蹲って荒い息を繰り返した。 「痛っ……相変わらず自分本位な神々だな。勝手に引きずり込んだかと思えば、否応なく追い出すなんてさ」  これだから神は嫌いだ。宰相は気怠げにぼやいて乱れた心を鎮めた。 「はーあ。他人の記憶を吸収するのも考えものかな。……ま、どの時代も人間が馬鹿ってのは変わらないって分かったけど」  アーデンは精巧な耳飾りを懐から取り出してとっくり眺め尽くした。涙型をした空洞には忘れがたき清水が揺らいでいた。蠱惑的な曲線が悪しき欲望を掻き立てた。忘我の水。忘れじの川の物語。そして、神々の魔大戦。それら凡てを繋ぐのは「あの娘」に違いない。 「嗚呼……史桜。君から神様のこと、もっと聞きたいな。知ってるんでしょ、オレの知らない神様の秘密を」  神は何を以て殺すことが出来るのか。断末魔はどんな言葉なのか。その存在を知った時から、己を化け物へ堕とした凡てを破壊するために神殺しの力を手に入れてみせると腹を固めていた。 「でもさ、博士は検体として手に入れば良いって言うけど。だったら何で史桜自ら此処に来るよう仕向けなきゃいけないんだろうね。研究したいだけなら彼女の心なんて必要ないのに」  目映い破顔を落とす無精髭の男には背信者ソルハイム人とも際立った相違なかった。  「何もせず待ってるなんて帝国の性に合わないよね。だから……悪いね博士、最後の水はオレの欲望のために使わせてもらうよ」  今世、炎神のおわす玉座に据えられたのがアーデンならば、魔大戦で滅し損ねた種を散らす役目も彼の使命なのだろう。ルシスが興って二千年、アーデンが葬られて二千年、それすら途方もない年月であるのに、太古より続く定めは悪魔ですら逃れる術はなかった。  幾重にも重ねた御簾の向こうから魔大戦の幻が密やかに語り掛けては散りばむ光が瞼の裏を透かして辺りに反響した。炎神の夢が嘘偽りでなければ――誰も覚えておらぬ記憶を何故堕神が持ち得たか分からねど――あの日、史桜は確かに魔大戦の時代を生きていた。

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参考 FFXV OST Volume 2/1 Disc5
'Insomnia Ablaze'

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