悲台Day 0 本編前・馴初め編
史桜

第一話 亡者の浮橋

- もうじゃのうきはし -

 あらゆる営みの、あらゆる隣人の、いとけき祈りへ人在らざる者達は宿っている。或る者はそれを神と謂う。或る者はこれも歴史と謂う。しかしカムイと名乗らざるそれもまた世界には存在し、鬼とも化け物とも見分けの付かぬまま昏き存在となり経ていく――。 *  焼けるような熱さに史桜は悲鳴を上げた。寝入った時分と相異なる空模様は、つや消しした金属板のごとき様相を呈している。肌を切る空風、真っ赤に熟れた三日月が孤独に震えていた。身を横たえたまま地面に触れる指先を微かに動かせば、一握、湿った泥混じりの砂利を捉える。 「ああ、なんて風が」  冷たい――そう紡ごうとして言葉半ばに口を閉ざした。しまきの放つ敵意を察して、胸裡へ冷たいものが落ちる。あの葉叢の隙間、たしかに何かが通ったはずだ。史桜が息を詰めて恐る恐る身を起こすと、生き物の息吹がさわりと耳朶に触れ、嗅いだことのない冬の匂いが鼻腔をくすぐった。 「誰か居るんですか?」 「……ほう、世迷い子か」  前触れなく狡猾な光が女を見返した。史桜は思わず素っ頓狂な声を上げてのけぞった。あろうことに、林から飛び出したものは巨大な亀だったのだ。それに纏わり付くは黄金の縞模様――文様に見えたのは黒き甲羅に余すところなく絡みついた金蛇だろうか。蛇は舌先を痙攣させて大きく裂けた両の口角を意地悪く持ちあげた。 「嗚呼、寒かろうに」  もう一度。蛇が口角を上げれば白い牙が口内でてらてらと輝く。 「みなまで言わぬでも良い。遠くから来たのだな? ここから集落までかなり距離があるが、哀れな娘を捨て置くのは忍びない。途中まで送っていこう」 「えっ? あ、ありがとうございます」  人間の笑うさまを真似しているらしい。柔らかな蛇腹が急かすようにうねった。史桜は戸惑ったが、奇っ怪な蛇が喋喋と話した時点で夢だと納得、促されるままに立ち上がった。かくして一人と二匹は互いに自己紹介もなく黙するまま足を動かし始めた。  ――これは、本当に夢だろうか。 「(でも、さっきまで別の夢を見ていた気がする。とても熱くて、苦しい夢を)」  娘は両の腕で身体を抱え込んでは、かじかむ手に息を吹きかけた。夜道に透かして見える此処の街は整っている。舗装された車道の脇は砂利や雑草が生え放題であるも、人の往来は激しいのだろう。草葉は幾らか踏みならされ歩きやすい道が出来上がっていた。そして、なにより印象的なのは一帯を染める、彩を奪う美しい細雪。はらはらとまあるい亀の頭〈かしら〉に粉雪がまぶされれば、気怠げな蛇がそっと首をもたげて雪片を舐め取り――史桜は濁る理性の中でその様をなんとなしに眺めながら、やにわに視界に入った景観へ思わず沸き立った。 「わあ……」  開けた通りに、夜半深く、ほの青い淡光を路面へ反射する街路樹の端。 「なんて大きくて、綺麗な通りなの」  一歩進む毎に近づくは追懐を誘う硝子灯。史桜が思い切り天を仰ぐと、更なる奥へ悠然とそびえる漆喰の建造物を認めた。 「ああいう建物、見たことある気がします。学生時代に受けた歴史の授業だっけ」 「世迷子の刻と、ここの刻は繋がっているのか」 「どういう意味です?」 「落ちる水底が誰しも同じとは限らない、ということだ」  意味深な言葉に史桜が眉根を寄せるも目新しい景色にたちまち意識を奪われてしまう。不自然なほど幾何学に切られた道路、身を傾け銀雪を浴びる合歓の樹、洋傘を差した和装女性と片言で戯れる金の髭を蓄えた壮年男性。そのすぐ側でかっちりとしたフロックコートに身を包んだ路傍の人が馬車に片足を掛けているが、ずんぐりむっくりした馬は随分と不格好に見えた。まさしく風光明媚と異国情緒が手と手を取り合ったような景観である。史桜は気もそぞろに、褪せた写真から飛び出た旧き世界を堪能していた。  折に触れて、彼女は一本道の先で佇立する何かに目を奪われた。それは鋭い眼孔に高潔を湛える老人だった。取り巻きを数人引き連れた白髪男は長い髪を靡かせ、家路を急ぐ人混みに紛れて此方をきと見つめていた。 「誰かがこちらを見てる」 「……幕末の志士か。珍しい客人が参ったものだな」  あれは過去の遺物だと蛇が嗤った。死に切れず世を彷徨う亡霊に随分と気に入られたらしい。そう言って無思慮に揶揄する蛇はのんきだが、娘には目に見えぬ惨烈な化け物が老人の背後から彼女を差し招いてるように見えて、寄る辺ない戦慄が走った。 「あのご老人も死人なのですか」 「言い得て妙だ。お前のような小娘よりは遙かに生き急いでおる奴よな。ああいう物へ飲み込まれないうちに帰るが吉だぞ」  意地の悪い返しへ肩を竦めるも、蛇に促され少し歩みを進めた先でやはりあのご老体が気になって踵を返す。そうして史桜は急ぎ先ほどの場所を目視したが、男の姿は既になかった。 「残念」と一言、やや気落ちする彼女。  その折りである、幾重も皺を刻む亀の長首から白い紙切れが落ちた。甲羅を持つ爬虫類は風に飛ばされそうな紙片を黙したまま重い右足で掠め押さえる。黒亀は物言いたげに紙片を食み史桜へ差し出した。掠れた墨で鎖に似た文様が力強く描かれて、なんだかまだ続きがあるような胸騒ぎに心を焼かれる和紙だった。見詰めているとひどく息の緒が詰まる。  この感覚、そう、夢だ――さっきまで見ていた、熱くて苦しい夢。この場を突き抜けていく凍風であっても、決して消すことのできぬ、永きに渡り降り積もった怨嗟の炎――史桜はその炎の持ち主を知っている気がした。だが思い出せない。その御姿は文殻に導かれ、おのずと際立つ鼓動に呼応し出てこようとするのだが、細い針の尖端で依糸を解きほぐすように砕け散り、遥けき呼び声と共に意識の端へ落ちていってしまうのだ。 「(だめ……きっと知らないほうがいい。それを知れば、わたしはわたしで居られなくなる)」  その呼び声へ返事をしてしまえば愛してきたものを自ら振り落とすことになる。そう、亀の瞳が物語っていた。だから史桜は直感に従い憂慮ごとおぼろげな欠片を胸裡へ封じ込めた――が、次の瞬間、さらなる出来事が彼女を襲った。 「世迷子、それを寄越せ!」  史桜は己の身に起きた事態をさやかに理解出来なかった。意識が白むほどしたたかに打ち付けた背中、腹の上で鋭利な牙を立てる大蛇――狡猾に、饒舌に語り掛けてきたあの蛇が、理性を暗がりに潜め、手の付けようがない猛獣となって生々しい毒涎を滴らせていた。 「そんなものお前が持っていたとして何の意味もない。いいから我に渡すのだ!」  この文殻のことを謂っているのだろうか。欲望の権化となった蛇には必死の抵抗も効かず、狂乱した獣の下でこのまま朽ちるかと過ぎる。現実でないと分かっていても死神が纏う恐怖は本物だった。史桜は腕や腹の肉を裂かれていく音に酷い目眩を感じ、ただただこの刹那は、自分が殺され掛けている理由を知りたいと願った。  ――ああ、夢の中で死んだらどうなるんだっけ。そのまま奈落に落ちて還ってこれない?  次々と襲い来る痛みによって焦点はぶれていくが自分も存外冷静なものだと力が抜ける。と、不意に突風が吹き荒れ、緩んだ手元から遠遠しき原生林へと奇妙な紙切れを運び去る。釣られるようにして猛蛇は史桜の上から飛び降り、黒亀を放置したまま紛失物を追ってどこまでも這いずっていった。さてもその様子を己が目で確かめる術はなく彼女は闇夜へ消える咆哮に耳を澄ませた。  あの蛇は一体なんだったのだろう。史桜は翻弄されるだけの非力を呪い唇を噛み締めた。夢だの現実だのは恣意に任せて投げ捨て、今はこの激痛から逃れる方法があれば悪魔に魂を売ることも拒みはしなかった。されど理性は、これが現実ではないとを認識したがるのだ。朽ちていく亡魂の中、彼女は最後の抵抗を試みた。  ――この苦しみから逃れる方法? ああそうだ。なんて単純なことだったの。 「わたしが、目覚めればいいんだ」  早く。早く、早く。こんな不快な夢など見るに値しないのだと走馬燈に意識を奪われながら、史桜はしとどに流るる生暖かい海で命尽きるよう瞼を降ろした。かくして世迷子の最期を看取るは黒き亀――無口なそれだけが、これから娘が辿るであろう旅路の行く末を知っていた。 * 「おいどうした、爺さん。興味津々に何か観察しているが」 「美しい大蛇がその通りに居てな」  感慨深く放たれた言葉だったが牛山は訝しげに共犯者を一瞥しただけだった。 「美人でも居たのかと期待したじゃねえか。……けっ、しけたことを。こんな往来に大蛇なんぞ居たら大騒ぎだろ」  あれだけ呑めばさすがの爺さんも酒に呑まれるか、と的外れな見解を示す。永倉まで肩を震わせて笑いを堪えるものだから土方は皮肉たっぷりに口角を上げた。 「酒には強いほうだ。確かに今宵は飲み過ぎたが、老いぼれとて目は確かだぞ。それとも何だ、俺を疑うか、新八?」 「疑う訳じゃありません。けど土方さん、どうやって大蛇がこんな往来まで入って来たのか疑問に思う牛山も責められません」 「永倉の爺さんもこう言ってる。おい土方のジジイ、とうとう耄碌したなら手を切るぞ」  仲間のぼやきは間違っていない。こんな街中で猛獣が手放しで放たれていること自体おかしいのだ。しかし土方は渦中にあって切なる直感を抱いていた。あれは蛇であって蛇ではない、戦いの行く末を暗示する吉凶だ、と。妙な胸騒ぎを払拭するように彼は足早に壁へ歩み寄った。 「ここだ。ここに、確かに――」 「なあ爺さん聞いてるのか?」  歩みを止めて絶句する白髪老。それを追う二人。いくら酒が入っているとは言え流石に違和感を拭えない柔道家はご老体に何かあっちゃ困ると静止した。にも関わらず彼はお構いなしに身を屈めて何かを持ち上げる。豆だらけの掌に収まっていたのは鮮血に染まった、元は大変白く美しかったであろう上質の紙片だった。 「……血、だろうな」 「へえ。なら、獣がいたってのは本当かもしれんな。ま、蛇だとしたら一寸おかしな話ではあるが」  爺の主張通り大蛇であったなら、獲物を丸呑みして去って行くのが道理ではないのか。ここまで酷い怪我をさせたとなるとヒグマが居たと主張したほうが道理に適っている。牛山にしては的確な指摘に土方は晴れぬ面持ちで、 「恨みがあって相手の身体を引き裂いた、という可能性もある」 「蛇が、か? ここまで恨まれるとは世も末だねえ。そいつ何したんだ」 「さあな」  土方は蛇が獲物を襲った姿は見ていないと反論した。  「こりゃ誰かが騒ぐ前にとんずらしたのかね。にしても酷いこった。この血の色……たった今流されたみたいで気味悪いったらねえな」  牛山お前、俺の話をまだ信じていないのか。そんな不満ひとつ薄闇へ目を懲らすと、紙片が落ちていた周辺にたっぷりと海が残されていた。この量ならば助からないはずだ。だが肝心の死体が見当たらない。蛇が運んだのだろうか? だがなんのために? 「食べるためにじゃねえのか」 「ふっ。弱肉強食の世界では人間すら蛇の餌になるか」  あり得ぬことでもないがぞっとしない。土方は暗影を投げ掛ける予感に苦虫を噛み潰した思いで立ち尽くした。常の彼ならばこんなもの気に留めないだろう。死体や血だって戦場で腐るほど見ている。だのに、なぜ――先の直感が原因なのは言うまでも無かった。彼はこの場所で己が相まみえるだろう出来事が金塊戦争を巻き込んだ騒乱の果てを反照しているのだと、虫の知らせを感じると共に、古く見知った娘の安否が妙に気になった。 「大丈夫か、爺さん。そんな面してんの初めて見るぜ」 「……ああ。すっかり酔いが覚めてしまったな」 「では、土方さん、また飲み直しましょうか」 「そうだな。家永も待っているはずだ。土産を買って帰ろう――史桜にも、忘れずにな」  今は相手の正体が分からぬ以上打つ手はない。黙して時を待つのみだ。そしてもう二度とあの蛇の行方は問うまい。どこか別の国では蛇は神の化身というが、金蛇は鬼胎の化身かもしれないな、と土方は朱に踊る紙片を破り捨てた。

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