悲台Day 1 本編・北海道編
-アシリパ-
第十三話 夜もすがら
- よもすがら -
ありありと天頂に掛かる星々は夜もすがら数を増しアイヌの少女を威圧的に見下ろしていた。ひしめく瞬き、月明かりに朧げなる七つ星は史桜が北斗七星と呼んだ天空の羅針盤だろうか。わななくような遠吠えへ混じって冬を越せずに枯れそめた草葉を踏みしめるとアシリパの腹が大きな音を立てた。 凜とした少女はクチャの屋根を検めて中へ戻る。と、煮え立つ鍋の前で二人の大人が肩を寄せ合って小難しい顔をしている。片方は杉元、もう片方は史桜だ。 「なあこの目玉……誰が食べるんだと思う?」 「佐一さんじゃない。獲物を捕った人が食べる風習だもの」 「まじ? でもアシリパさんだって一緒に兎捕ったよ?」 「そうなの? じゃ、アシリパちゃんに誉れとして差しあげましょうか」 「それだ、そうしよう!」 男女は既に顔見知りであるらしく互いの提案に嬉々として笑みを交わしていた。存外、広い交友範囲を持つ女である。アシリパが驚きを秘めて勢いざまに座すと、すかさず史桜と杉元が目玉を譲り始めた。何の会議をしているかと思えば。変な部分で連帯感を持つ二人である。呆れた少女は彼らの本心に気づきながらも「じゃあ史桜が食え」と残酷に名指しした。 「わ、わたし?」 身内の訃報でも聞かされたように気色ばむ史桜。 「なんだ。散々コタンで食べていたのに、嫌いなはずないよな」 「というより食べ過ぎて飽き……いいえ、頂きます。うんうん、兎のお目目とっても美味しいなあ」 「そうか美味いか。もう一つ食べていいぞ」 「えええ……」 誰憚らぬ口調で獲物を押し付けたアシリパだが、そこに覇気の薄い史桜を認めては人知れず嘆息した。 ――美味い飯を食べれば元気になると思ったんだが。 坊主頭と杉元が生死の境を共にしたのが昨日。味を占めた軍帽がもう一度兎を食べたいと野山をさすらったのが今日の昼。目当ての物を勝ち獲った帰りしな、二人が君島家の近くを通り過ぎると、たまさか薪割りに精を出す彼女と遭遇した。その折り憂いに包まれる史桜を認めたアシリパは、難色を示し抵抗する彼女を山へ連れ出そうと骨を折ったのだった。 「まったく。杉元も史桜も、世話のかかる奴らだ」 君島家が病死と断定されてもう十年近くになるだろうか。兵士の手で家族の亡骸が焼かれた時、夜空を舐める紅蓮の舌先、君島家が培ってきた名誉を照らす暁光にも似て、矜り高き輝きを放ちながら、一方であっけなく崩れ落ちる歴史の名残を史桜は騒ぐでもなく眺めていたと言う。 しかしあの頃のアシリパはまだ幼く、物心つく前だった。そのため父ほど鮮明な記憶は持っていなかった。彼女の養家がどういった経緯でアイヌと親しくなったか、家族を失った史桜が幾度その頬を濡らしたのか――そんな大事なことすら知らなかったのだ。 そのせいか。ふとした刹那、遠い目をする女が、病魔に浮かされた死人のごとき白を纏い、あたかも神の国へ還った人であるような、童心ながら胸のざわつく瞬間があった。そんな時は無心でマキリを彫ったり勇敢な父親を挟んで互いに欠けたものを埋め合わせようとしたものだ。 その関係に変化が訪れたのはいつの頃だったか。金塊絡みの事件で父親が亡くなった頃だった、とアシリパは思い出した。父ウイルクの葬式を切っ掛けに史桜の足はコタンから遠のき音もなく村から姿を消した。かくして肉親を喪って姉代わりと慕った人にも見放された少女の傷を癒すものは、たった一匹、白い狼だけとなった。 だから、もし昨年、レタラが山小屋へ不法侵入しなければ今も尚史桜とは疎遠だったに違いない。それは彼女が茶会とやらへ赴く少し前。冬至を迎える前の寒い暗い日だったと重い灰空が脳裏に蘇る。彼女が山へ籠って鹿を捕り、父との思い出を懐かしんでいた日、突然現れたレタラがアシリパを背に乗せて駆け出したのだ。気づいた時には姉と慕った女の山小屋、眼前に惚けた顔のその人が居た。 数年も経たぬうち父方譲りの瞳に深き海原を、あどけない容に母親譲りの美しさを垣間見せる少女と差し向かいて、史桜は何を思ったのか。彼女は赤ん坊の頃からアシリパを慈しんだ惜しみない笑みで快く迎えた。うちでご飯を食べていくか、そう問われ、間髪入れず頷いたのは今でも記憶に新しい。 さりとて、二人の間には数年来の絶縁が大きな溝を作っていたが、逢瀬を始めるとすぐにそれらは何ら問題ではないと気づいた。あれほど隔てられて見えた史桜の胸に抱かれればアシリパを襲う無常感は闇の漆黒へ剥がれ落ち、融け合う二つは決して離れ離れ〈かれがれ〉になることなど無いように思えた。と同時に少女はひとつの答えを導き出してもいた。史桜が遠ざかろうとするなら自分がその手を掴めば良いのだ、と。 「――史桜、もう気に病むな。それはお前のせいじゃない」 やぶから棒にアシリパは史桜の裡へとぐろを巻く懸念を冴え冴えと否定した。愁いを宿した瞳だけつと上げる史桜。女の目尻に苦痛と後悔の念が一抹過ぎていった。 「その場に居れば何か出来たかもしれない、なんて考えるな。史桜みたいなか弱いシサムでは巻き添えを食って一緒に死ぬのがオチだ。自分の力を過信すればあっと言う間に命を落とすぞ」 二人のやり取りに深刻な色を嗅ぎ取った杉元が「史桜さん、何かあったの?」と身を乗り出した。 「知り合いが暴漢に遭って危篤らしい。史桜は凶兆を感じて気を付けろと警告したが相手は無視。案の定、そいつは瀕死の重体で運び込まれたそうだ」 客観的事実を口にすると史桜の見好い貌に陰が掛かる。すると男は滋味豊かに 「それは心配だね。でも今の話じゃ、史桜さんに落ち度はないんじゃない」といつもは穏やかな瞳へ獣じみた猛々しい色を差し挟んでは、この世界は弱い者から死んで行く、仕方ないことだ、と慰みにもならぬ言葉を掛けた。なるほど、自然の恵みに寄り添って暮らすアシリパは何度も見てきた光景である。生きている限りその真理から逃れることは出来ない。しかし史桜のような心優しい女へその理屈を突き通すのは、些か酷にも感じた。 「杉元の言い分は最もだ。だが、たぶん……史桜の知り合いは、運もなかったんだろうな」 なにより、と女の黒真珠を覗き込む少女。その者は史桜の直感を無視すべきではなかったと思う、私は占いも予言もまるきり信じないがお前のはなぜか当たる――こと人の死に関しては気持ち悪い程に。そう、少女は呟いた。 「……ところで杉元。お前は君島家の末っ子と友人らしいな。私も会ってみたいんだが、連絡は取ってないのか?」 「ウェッ。アシリパさん、それ訊いちゃう?」 暗い話へ終止符を打つべく語らいの矛先を変えると、杉元が否む素振りで身を捩った。 「連絡なんて取ってないよ。史桜さん伝いで久しぶりに名前聞いたくらいだし」 それから彼は一寸言葉に詰まり、苦虫を噛み潰した面持ちを顰めては章介と喧嘩別れをした旨を伝えた。すると史桜は家族が何か迷惑を掛けたのではと顔色を変えるのだが、杉元はすかさず一笑に付し、 「いやいや、そういうんじゃない。ただその……あーッもう。史桜さん頼むからこれ以上訊かないで。恥ずかしいから」 いつになく羞恥心に見舞われた男は身の置き場なく軍帽の奥へ整った素顔を隠してしまった。頬から口元に掛けて走る痛々しい古傷だけが焚火へ反照して微かな含羞が読み取れる。口元はきつく一文字に結ばれど、心から拒絶している風ではなかった。 「うるさい。さっさと言わないとお前をチタタプにするぞ、杉元」 「やあああッ! 分かったちゃんと話すからマキリ向けるの止めてぇ」 ややもして杉元は緊張した面持ちでさし俯いた。 「本っ当に笑わないでよ? それが、俺達が喧嘩した理由って言うのがさ」 固唾を呑んで続く言葉を待つ年の離れた女達。 「こし餡か粒餡かで、意見が分かれたのが原因なんだ」 ――束の間、寂としたしじまが降り落ちた。 「こし餡か、粒餡か」 ほどなくして史桜が杉元の言葉を細大漏らさず反復する。意味を飲み込むと、目ばかりを光らせて花盛りに頬を緩める女が居た。よほど注目に値する話題だったのか、彼女を悩ませていた愁いは失せて目映い破顔が放たれた。 「佐一さんはどちらがお好きなの」 「やだよ、史桜さんに同じ過ち犯して喧嘩になりたくない」 物柔らかな詰問を避けんと試みる杉元と、何としても吐かせたい史桜。アシリパは気抜けして二人を眺めていたが、文化の違いから話題に登る嗜好品が分からず「餡ってなんだ?」と疑問を口にした。 「アシリパちゃん食べたことないんだ。餡はお菓子に使われる食べ物だよ。お砂糖加えたら甘くて美味しいの。見た目は、そうね、少しお味噌に似てて――」 「アーッだめだめ、その説明だめ! アシリパさんはお味噌のことを……!」 男の努力むなしく少女は既に丁寧な解説を八割方耳に入れてしまっていた。アシリパは首肯しかねる話題に目角を立てて 「お前達はオソマの種類で喧嘩してたのか?!」と絶叫。すると史桜は少女の形相に腰を抜かしつつ、妹分の食わず嫌いについて仔細を知ってこれまた彼女を揺さぶる発言を放つではないか。自分が今まで作った食事にも味噌が入ってたのだ、と。 今度からアシリパちゃんにはお味噌抜きにしないとね。少し味が落ちてしまうけど。嫌な物を無理強いするのは良くないもの。ところで佐一さんはお味噌大丈夫? なら良かった、次からは別々に作らないと。それにしても餡子も駄目なのね。お饅頭差し入れようと思っていたのだけど止めておくわ。ああ、残念だなあ。……。 一息にそう告げて見返る女のかんばせは一等華やいでアシリパは幻惑された。 「オソマを抜くと史桜の飯が不味くなるのか……?」 「いいの、アシリパちゃん。無理はしないで。お味噌の入れないお料理は格段に味が落ちるけれど、オソマなんて食べたくないものね?」 ぬばたまを緩く結い落した後れ毛へ女の白い項が添えられているのが却って妖しさを煽り立てている。アシリパはつい「要る!」と叫んでしまったが、乗せられたと気付いた時は手遅れで、反射的に漏れ出た相槌を後悔するも、史桜は尚も少女へ耳目を寄せて優しげな瞳をすうと細めた。 「食べるの……? オソマだよ?」 「や、うんこじゃねーし。史桜さん、アシリパさんに間違った知識を率先して植え付けちゃダメでしょ」 「ふふふ。狼狽するアシリパちゃんが可愛くって」 ころころと鈴音を鳴らす史桜は慈愛を胸に少女を包み込む。時折顔を出す女の茶目っ気へアシリパは閉口させられたが、今この時が心から幸せだと思った。もし彼女に夫が居て、子供が居れば、きっとこんな塩梅なのだろう。であるならば何が彼女を遁世へ追いやり誰も至らぬ荒野へ放逐するのか――アシリパは理解の及ばぬ横貌を穴が開くほど見詰め、やがて諦めたように小さく頭を振った。 * 隈なく晴れた夜空を流れ星が滑り落ちると、斜めにきって流線が描かれ、外と内を隔絶する白い幌のようにも見える。夜風の鳴るその下では一泊を強請る少女と、異様に人目を憚り帰宅したがる史桜の攻防が続いていた。時として得体の知れぬことを口走る史桜だが、今夜はとみに少女の裡へただならぬ不安を差し入れた。 永い口論の末、頑として譲らぬ女に結局アシリパは諦めざるを得なかった。だものだから少女は、金塊探しのこと、父ウイルクが殺される原因になった諍いについて軽く触れては、「軍の追っ手に気をつけて」という労りの言葉を受け取って史桜と別れた。だが彼女を小屋へ送った後のことだ。杉元が声を潜めて「刺青人皮のことは無闇矢鱈に言いふらさぬよう」と額を曇らせた。 「杉元は、史桜に話したのは間違いだと考えてるのか」 「うん。史桜さんのことを想うなら、そう思うよ。情報を与えればそれだけこの血みどろな戦いに巻き込んじまう」 されど少女には取り付く島もなかった。 「言いたいことはわかった。だが私は史桜に隠し事をしたくない」 少女の声に宿る果断な響きに男は何かを逡巡した。が、意を決すると彼は重い口を開いた。 「あの人のほうは、アシリパさんに隠し事をしてるかもしれないのに?」 その途端、相棒が彼女について何を耳にしたか、アシリパはおおむね予想が着いた。そうとは知らず杉元は想像通りの言葉を並べ立てていく。 「アシリパさんは知らないかもしれないけど……君島家のことさ。史桜さんの養家、集団他殺の可能性がある。けど自然死の扱いだから犯人は野放しで、彼女に関わると巻き添えを食うぞ、と今でも陰で疎んじられているらしい」 杉元は金塊争いへ史桜を巻き込むことを危ぶんでいる。それは疑うべくもない。しかしそれ以上に君島家へ強い脅威を感じている様子だった。無論、杉元とて史桜や章介が好きだ。だが金塊のように身内の繋がりがある訳でもなし、そんな一族へアシリパのような子供が関わるには危険すぎる案件である。――そう考えたに違いなかった。 犯人は一家全滅を企むくらいである、恨み辛みはよほど深い。もし件の将校とやらが彼女を守っていなくば、史桜も疾くに殺されていた可能性が高い、と苦言を呈する男は心から相棒を案じていた。ただの噂だとにべもないアシリパを、杉元は一段と固く言い含める。 「いいかいアシリパさん、火のないところに煙は立たない。たぶん半分以上は本当の出来事だ。刺青人皮の時もそうだったじゃないか。根拠となる事実があるから、長い間、噂は続いているんだ。あの家には殺されるだけの理由があって史桜さんも少なからずその世界に片足を突っ込んでいる」 「そうか。だったら尚更、無視なんて出来ないだろう。お前が指摘するようにその噂が真実に基づいたものだとしたら、史桜は困った立場に置かれているはずだ」 そもそも金塊探しに引き込んだ本人が少女の身を案じるとは。今更な危惧であると突っぱねるアシリパ。 「……杉元。お前には話していなかったが、私は君島家に関してもまったくの無関係じゃないんだ」 その他殺とやらがあった時期、史桜はコタンに預けられ、まだ赤ん坊だったアシリパの世話をしていたからだ。そして、そんな史桜の面倒を見ていたのはアシリパの父だった。父親は青眼の娘が物心つき始めるとかの一家との親交をしみじみと懐かしみ、寝物語についぞこう添えたものだ。君島家は我々と運命共同体である。互いに助け合わなければならない――何があっても裏切ってはいけない、これは血に刻まれた誓約なのだ。 それは杉元と出会うよりずっと昔に契られた約束だった。悪いが私は父の慧眼を疑うつもりはない。そう言い締めてアシリパは彼を真正面から睨め付けた。その眼は深い豊かな蒼を宿し、頭上に広がる天の川へ映ゆる夜の湖面、日輪を浴び健やかに育まれる葉叢の輝きに充ちていた。 「……そっか。アシリパさんが理解した上で彼女の側に居るってんなら、俺は何も言わない。だけどもし君島家の秘密ってやつがアシリパさんやアイヌの人達に害を為すなら俺は全力で止めるよ。いいね?」 「分かった。でも杞憂だ。史桜はいつも私を助けてくれる人だから」 「俺もそう願うよ――史桜さんと章介の為にも」 ただ一つ、アシリパがつまびらかにしなかった案じ事があった。いつだったかの冬、史桜と共に小樽町で過ごした日に見抜いてしまった女の決意。あれは既に肝を決め滅私に生きる人の目であった。翻せば史桜の抱く秘密とはそれだけの覚悟を要するに違いない。 願わくばそれが姉と慕うあの人を害さず、歩む路の険しさを少しでも和らげてくれるようにと。にも拘わらず素朴と洗練の中庸に居座る女は、疾く疾くと近代化を推し進める時代を遙かに追い越し、絶えず響く空虚な孤独を達観すらしているように見えて、一層少女の胸を突くのであった。
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