悲台Day 1 本編・北海道編
-野間-

第十二話 衣かたしき

- ころもかたしき -

 はなはだ面白みの薄い金髭から確約を取り付けて一週間後のことだ。連日、虐めにも近い薫陶を受けた二階堂兄弟を放り、野間一行は尾形上等兵と連れ立って山道を登っていた。  雪代の染み入る獣道を掻き分けるや木〈こ〉の間を透かして少し離れた先に岡田一等卒、玉井伍長の姿も在る。その背を追って解け水のせめぎ合う淵を越え、雪の重みにしだれる白樺の脇を音もなく進んでいくと、やがて野間の眼前に馴染み深い君島史桜の借家が現れた。 「史桜嬢の家じゃないか。こんなところに何の用なんだ?」  この時間は尾形が家の監視担当だったはずだ。しかし彼はその任を全うするでもなく、伍長の疑念へ意味深げな笑みを落としては勝手口の鍵を外した。 「上等兵殿、無断で入っていいんですか。余所の家ですよ」 「違う。君島史桜の家だ」 「いえ、だからそれが人様ん家ってことなんですがね」 「こっちだ」  野間が憮然と引き留めても耳を貸さない。文句はお見通しだと言わんばかりに指尖がひょいと現れ、誰かに見つかるぞ、と脅されれば渋々と従う他なかった。一行が招きに乗じて木造扉を潜り抜けると中には仄暗い廊下が続いていた。見知った女――されど深くは存ぜぬ赤の他人である――の家に忍び込んだのだと思うと背徳感が這い寄る。 「史桜嬢は留守なのか、尾形」 「近くの森で山菜でも採ってるんじゃないですか」  迷いなく歩を進める様子は上等兵が隅々まで間取りを把握している証拠だった。それにつけても此処は独り身が暮らすには大きすぎる家屋である。外観よりずっと広い君島家は小さな空き部屋が幾つもあり雑然と家具や埃が積まれていた。無言で案内する尾形を差し置いて、手持ち無沙汰な伍長達が逐一扉を開けて物色していく。やがて三人は東の角に一等居心地の良さそうな部屋を発見した。  天鵞絨の赤絨毯、黒檀の執務机が灯りの落ちた部屋でものものしい威圧感を放っている。品良く壁に掛かった西洋画は生前の君島家当主がアメリカの旧友から仕入れたものだろうか。舶来と思しきソファは農学校の外国人教師達との親交が未だ続いている証であり、当主が結んだ縁は子の代まで及んでいるようだ。しかし空気が湿気ているのを見るに部屋の主は長らく火を焚いていないのか。 「君島章介のために姉がしつらえた私室では?」と岡田が判じた。 「さすがは嫡子。しかし……これだけ部屋がありゃ何か隠されててもおかしくねえな」  野間はそう呟いて、調度品へ魅入られる仲間の横で顔の傷を一寸掻いてはそこかしこに目を巡らせた。曰く、この家は緊急の避難所にするとのこと。となれば序に秘密とやらを見出せば儲けものではないか。野間は繰り言を混ぜて仲間を唆したが、予想に反して強く駁したのは豊かな髭を蓄えた伍長だった。 「史桜嬢に秘密があるとして、こんな不用心な家へ隠すと思えん。空き巣に盗まれるのが落ちだぞ」と張りのある声音で否定し、 「めぼしい物があれば月島軍曹が真っ先に見つけている。我々が漁ったところで何も出まい」 「けど軍曹だってこんな奥まで入って来たこと無いでしょう」 「月島は中尉の腹心だ。何をしているか分からんぞ?」  鶴見中尉の命じた監視はいつしか身辺警護も兼ね君島史桜が誰某かに襲われたと言う話はついぞ耳にしたことがない。かくして中尉に対する伍長の繰り言が始まるとふと岡田が感慨深げに口を開いた。 「監視のことを伝えた件は酷い冗談だと思っていたが、こうなると事実なのか……」  君島史桜を造反組に引き入れたと考えるべきなのか。しかし思慮深い彼が「上等兵殿、史桜殿を巻き込んで大丈夫なんですか」と面を曇らせれば、忖度なぞ軽く笑い飛ばされ、 「あの女に一つや二つ秘密が増えたところで今更困らんだろ」と冷淡に返された。  万が一にも造反が発覚すれば迷惑が掛かる、中尉はともかく上等兵にバレたら殺されはしまいか。岡田の発言にはそんな意図が含まれていたが、この男なら易々と彼女を厄介払いするに違いない。 「まあ彼女の家へあがり込んでるとは誰も予想せんだろうな」  しかし、と伍長は言葉を濁す。 「監視の目がある中で出入りするのは危険じゃないか? 軍曹の問題もある。それこそ奴に見られたらどうする」  中尉を除けば彼女と最も親しいのは軍曹である。史桜の飯を食らい、仕事の相談をし、友人のような気安さで接している彼ならばそれだけ鉢合わせる可能性も高い。だが失態を危惧する仲間に、尾形はしたり顔で生成り色の洋紙を見せびらかした。 「担当は把握している。月島が来そうな時間は避ければ良い。それに今は刺青人皮探しへ多くの人員を割いているから前ほど体制も厳しくない、訓練を受けた我々なら人の目を盗んで裏口を出入りするくらい造作もないでしょうよ」  あとは立ち去る時、周到に痕跡を消す。不備があれば史桜にも後始末を頼んでおく。ここまで徹底すればさすがに己の部下が隠れているとは思わんはずだ――。  俗世へ馴染まぬ性格のせいか良くも悪くも尾形は縄張り意識が強かった。相応しい環境を整えるのに余念がない人間であるから、その彼が大丈夫と判断したならば問題ないとの結論に至った。 「使う部屋はここです。勝手口から距離はありますが道順は頭に入ってますね」  不意に狙撃手の白い外套が停止した。顎で指し示されるまま視線を動かすと取り分け広い板敷き部屋が在った。 「もちろんだ」と答えたのは伍長。しかし残りの二人は呆気に取られた面持ちで 「え? 全く覚えてませんよ」 「そういうことは先に言ってくださいませんかね、上等兵殿」 「一等卒共……たるんどるぞ」  伍長がしかと記憶していたので野間も返す言葉がない。ならば景色だけでも焼き付けておくかと意識を研ぎ澄ませると、監視場所から正反対の間取り、窓は塞がれて人の往来無く、身を隠すにはこれ以上ない環境だと分かった。 「後始末が面倒だ。極力、要らん物は弄らんように」  胡座をかいた上等兵に倣って車座になると板畳はすっかり冷えている。寒い寒いと手炙り火鉢を探し出す岡田の傍らざま、野間は大部屋を検分した。その中、さほど変哲もないのに何故か目を引く長椅子がある。そこには繕い掛けの反物が散じて最後の縫い目から金の絲が垂れていた。 「史桜さんが着るにしちゃ派手な柄だ。花嫁衣装でも作ってんのか」 「ほう? 史桜嬢もそれなりに縫い物をするんだな。嫁入り修行をするようには見えんかったが」  縫い目がまばらだ、あまり上手ではないらしい、と評する伍長に岡田が物申した。 「軍服を繕ってくれた時はとても手際良かったですよ。刺繍だって得意では」  しかし三人が歓談に花を咲かせているとすかさず上等兵から制止が飛んだ。 「伍長……。余計な物に触れてくれるなと申しあげたはずですが?」  反射的に、野間は射るような怒り目〈まなこ〉を連想して身を竦ませたが、ここに彼らを連れ込んだ上等兵は期せずして柔らかな色で、 「これはいわば契約です。俺達は向こうを探らない、監視をしない。代わりにあっちも告げ口しない、そしてこの部屋を貸す」  どちらかが先走れば協力関係は崩れる。と穏やかに諭された。だが、いかにも異論のありそうなのは伍長である。 「彼女は信じられると?」  「何年も君島家について沈黙を貫いてきた事実を考えれば、これ以上ない協力者だと思いますよ」 「ううむ。口の硬さは実証済みか」  野間は興味と悪意の入り交じった心象で尾形を窺った。卓抜した兵士は読めぬ面持ちで銃の点検を開始し、言葉以上の想い入れを込めた様子はない。ならば先日、噂になっていた「嫉妬」などと言う揶揄はまさしく戯れに過ぎぬのだろう。ミイラ取りがミイラにならなければ良いが――などと唾棄すべき懸念を振り払った時であった。  名残る雪を踏み締めて誰かが小屋の外を歩く音がした。軽やかな鼻歌は女のものだ。それが家主の帰還を報せる音色と分かれば張り詰めた空気がたちまち解けて耳馴染みの薄い旋律が裡を潤していく。出迎えに行こうじゃないか。そう立ち上がったのは誰だったか、釣られて野間が動くと折悪しく板の間の軋みが響き渡った。 「――誰か、居るんですか」  挙措を失った女の問いが表口から届いた。微かな震えを含む鈴の音は恐怖心を帯びるも気丈さが混じっている。それが孤独に耐える秘訣なのだろうか、と過ぎったが、声色は明らかに四人の訪問なぞ預り知らぬ警戒心に充ちていた。 「こっちの方から聞こえた。一体何が……あ」  果たして怯えを宿す花のかんばせが相見えたものとは兵舎で馴染みある知己達だった。史桜は安堵の色を纏い 「皆さんだったんですね。こんな暗い場所でどうされたのです?」  野間は呻くように逡巡し「どうって、史桜さんが」と口篭った。  折り目正しい史桜は意図をはかり兼ねて小首を傾げた。その拍子に白い頬骨が薄闇の奥へ陽炎のごとく沁み、魔の手を振り解いた者だけに許される清らかさを放った。それで居ながら彼女にはもっと奥深い、あたかも砂金を掘った水底のように見透かすことの出来ぬ、生娘とは異なる閉て切った気骨があった。  岡田が状況を飲み込めずに居る。野間は返事に窮する。そして伍長だけが事態を察して嘆息した。 「尾形……もしやとは思ったが、史桜嬢の許可を取ってないんだな」 「ええ。これから取るつもりでした」  取引したのは本当だ、ならばどうせこの話も通るのだからいつ許可を取ろうと変わらない。以上が上等兵の言い分である。尾形は迸るような小さな笑みを浮かべて、 「邪魔しているぞ。暫くこの部屋を借りることにしたんでな」 「また唐突ですね」  何故わざわざわたしの家で? と瞳が懐疑的に揺らぐ。どう見ても契約関係とやらの意味が通じていない。これでは誰が押し込み強盗なのか分からんぞ。と造反を企む仲間がめいめい怪訝な面持ちを浮かべれば、狙撃手の口元が意地悪げに歪んだ。 「三人は仲間だ」  その一言で理解せよとばかり、端的に告げる尾形。 「助けが要る時は力を貸してくれるんだろう?」 「確かに申しましたが……監視の情報を流していただけるだけ、有難く思えと仰りたいんですね。分かりました、お力になりましょう」 「理解が早くて助かるぜ」  甘え甚しの子供にも似た放恣な無心を彼女はあっけなく受け入れた。どうして危険を冒してまで史桜は片棒を担ぐのか。野間はなまじ男女の仲を勘繰ってしまう。しかし彼の振る舞いにも慣れたとやや投げやりな口調を認めれば、それだけでは飽き足らぬ機微を嗅ぎ取り、徒に足並みを揃えている訳ではないのだろうと悟った。 *    春半ばの遠山、雪代で磨き上げられた山間に真っ白なシマエナガの可愛らしい囀りが通ると君島史桜は頬を綻ばせて耳を澄ませていた。それから数日前に届いた電報を帯に挟んで電気仕掛けの洋燈を一つ、窓塞ぐ板間から灯りの漏れぬよう箱で囲って青い布を被せれば兵士達はこもごも打ち解けて団欒した。 「良い場所を手に入れたな。気張らず話し合いが出来るのは久しぶりだ」  万感胸に迫る塩梅で伍長が相好崩した。反逆に対する造反と言う鈍い重い帳は絶え間なく暗い陰を落としていたが、この家に来ると凡てが赦されるような心地を得る。野間はそれが不思議でならなかったものの、誰にも言えない秘密――そんなものが真にあればの話である――を背負い続けて来た女の存在が大きい気がした。  その史桜といえば窓辺に置かれた腰掛けへ座し、木板の隙間から差し込むか細い光に照らしつ裁縫の続きを再開していた。眼前には額同士を付き合わせた男達、膝には岡田一等卒が親切心で預けた外套。糸を縫い取る手付きは熟れていたがどこか上の空である。野間が鮮やかな布を返した時に奇妙な煌めきを宿した眼は、気怠く、今にも閉じそうだ。 「ところで史桜嬢、君島上等兵はなんと書いて寄越したのかね」  見かねた伍長が眠気覚ましに声を掛けると白昼夢に打ち勝った彼女が曖昧に微笑む。 「電報ですか? 息災だと書かれておりました。今はアイヌの猟師さんから木彫りを学んでいる最中だとか」 「はあ? なぁにをやっとるんだ、あいつは」 「はは……まあ、らしいと言えばらしいですね」  史桜と違って手放しで喜べぬ伍長と岡田。彼女へ届く電報は当然のこと中尉も目を通す。となれば遊んでいることは既に上官の知るところであろう。妙に詰めの甘い特務官は間諜なぞ向いて居ない。中央スパイ説は信憑性が薄い。と鯉登少尉が力説していた姿を思い出し、野間は人目を忍んで賛同した。 「戦わせれば頼もしいんだがな。何を考えているのか分からん所がある」 「何も考えて居ないんじゃないですかねえ」  野間の落とした酷評に伍長が苦々しげに肩を落とした。それもそのはず上官達は口を揃えて君島上等兵は扱いにくいと零す。すっとぼけた性格を除けば意外に従順、柔和で気さくな人物なのだが、中央の寵愛を受けた過去はたまさか軍部へ波紋を投げ掛けていた。しかし隊内で浮き、中尉の影響を受けて浅いその人なら、あるいは――。 「君島章介、か」  野間の思惑を看破したように尾形上等兵が顎髭を擦り、濃く縁取られた瞼の下で野性味溢れる眸子を細めた。 「得体の知れないやつだが、敵に回るよりよっぽど良い」  尾形が素早く女を一瞥するといよいよ史桜は慎まやかな春眠を貪っていた。縫い物なぞ女学校時代で飽きたのか、花嫁修業に向かないと言い放った伍長の所見もあながち誤りではないらしい。すると話を続けようとする尾形を遮って岡田が再び異を挟んだ。 「ですが、姉が関わっていると知れば我々の首を斬り落とし兼ねないのでは」 「そうでもないだろう。姉のためなら立場を選ばんはずだ」 「彼女を使って脅すと?」 「必要ならな。だがあの兵士、存外馬鹿ではないぞ」  同じ上等兵として思うところがあるらしく狙撃手は鬱蒼と笑った。だが野間が知る限り君島上等兵は鶴見中尉に心酔しているのではなかったか。岡田や野間はおろか、玉井伍長まで「もっての外だ」と語気を強めた。 「お前は何を言い出すのやら。谷垣はまだしも君島は無理だろう」 「谷垣? 谷垣源次郎一等卒のことですか。奴こそ寝返る可能性は低い。やめておいた方が良いですよ」 「いやいや。純朴な奴だから早々と鶴見中尉の狂いっぷりへ愛想尽かしているかもしれんぞ」 「その誠実さが厄介なんですよ」  押し問答は終わりが見えない。上等兵は肉付きの良い鼻翼を膨らませて毒吐いた。 「まあ……忠告はしました。どうなっても知りませんよ」  ともかく、と日焼けた項に手をやる尾形。野間は勿体ぶるような彼のその仕草が嫌いだった。 「敵に回すと面倒な奴は味方に付けたほうが安全だ。筆頭は君島章介だな」  徐に彼は寝入る史桜の襟元から懐中時計を引っ張り出した。既に小針が一つ半移動している。尾形の担当時間も終わりに近く、初日から危険を冒す必要など無いと判断した岡田と玉井伍長は、おのがじし勝手口を目指して一人また一人と大部屋を去った。  去り際を逸した野間がぼんやりと女の寝顔に魅入っていると、その傍ら、一向に進まぬ召し物の出来栄えをしみじみと眺める尾形が居た。やがて彼は針を抜くと背もたれへ撓垂れかかる史桜の肩へ懇ろに掛けてやった。それで目が覚めたのか、尾形さん、と彼女の寝惚け声が半開きの朱から漏れた。 「もうお帰りで」 「ああ。次は残りの仲間を連れて来る」  面伏せな瞳、ほろほろと舞い落ちる淡雪のように、睫毛の影が頬の上で覚束なく揺らぐのがどこか儚げだ。と同時に小さな闇へ照った金の撚り糸は彼らが追い求める罪人に似て、冷たい鎖が弛みなく首を絞めては窓の外へ募る影を彷彿とさせた。金塊を求める彼らにとって黄金は美の象徴ではなく罪と欲望に濡れたうつつの具現だったのだ。 「尾形さん。どうかお気を付けて……。なんだか胸騒ぎが止まらなくて」  男が反物から手を離そうとすると史桜が夢心地で留めた。 「素人に心配されるほど鈍っちゃいねえよ。これでも戦争帰りでな」 「そうじゃないんです。蛇が――」 「風邪引くぞ。好い加減に自分の部屋で眠っとけよ」  いつになく気遣わしげな眉目を受けて尾形上等兵は大儀そうに反物を掛け直してやった。すると史桜はまた抗い難いまどろみへ落ちていく。その寝顔は血の気が失せて、薫り立つ晴れ着より白装束のほうが相応しかった。  かくして上等兵は立ちすくむ野間を尻目にさっさと踵を返して雪山へ消えてしまった。つたなくも他人を慮った言葉はいつも通り無味乾燥だったが、史桜がもたらす控えめな優しさ、章介の振りまく朗らかな陽気は、兵士達が戦場へ置き忘れた血肉のぬくもりを偲ばせた。なんとはなしに窓の隙間から去りゆく狙撃手を見送った野間は、今宵も独り寝入るのだろう彼女を暖かな居間へ運ぶと、不遜な上等兵を追って居心地悪い兵舎へ帰還していった。

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