鍾愛point 0 System Down
-忍田-

第一話 幻の偶像

 人の生き死には極めて偶然に定められる。例えば誰かが命を削り黒トリガーとなったとして――それは一見、自ら選びとった果敢な決意に思えようが、実際は危機差し迫って追い詰められた行為に他ならないのである。つまり選択させたその状況こそ残酷な「偶然」の産物であり、黒トリガーとなってしまった本人もたまさか落命したに過ぎないのだろう。  そう、私と彼女との出会いもまったくの偶然だった。あれは我々がまだ近界と自国の架け橋と信じて止まず、頼もしい仲間達と夢へ向かって突き進んでいた頃のこと。ボーダーが「界境防衛機関」と小憎たらしい名前で呼ばれるよりずっと昔、近界遠征隊を率いる私は横殴りに吹き付ける暴風雪へ負けじと声を張り上げて遠征艇を振り仰いだ。 「まだ直らないのか」 「だめです。原因不明の磁場が生じて開門に必要な機器がフリーズしています。他の隊員がトリガーを探して戻る手はずですが『彼女』が保つかどうか……」  遠征仲間の東が眉根を寄せて切り返した。口を開く度に突き刺すような冷感が気管から肺へと忍び寄り骨身を凍らせる。この腕の中で微動だにせず眠るまろやかな額をした少女も死の大気へ侵食され、命旦夕に迫っていた。固く結ばれた唇、力なく頭を垂れるその様はさながら屍である。私は切迫した気持ちで儚い脈を確認し、安堵とも似つかぬ嘆息を漏らした。 「史桜……頑張って生きてくれ」  雪焼けしたまあるい頬にほとほとと雪片が降り積もれば彼女の周囲だけ嵐が和らいでいる気がした。私は防風堤になるよう風上を背にし、冷えた身体を包み込んだ。 「なあ目を開けてくれ。折角出会えたのに、こんなところで死んでどうする」  不快な汗がこめかみを伝い落ちた。一年前に姿を消した年端もいかぬ少女。彼女は黒トリガーを彷彿とさせる漆黒な建造物の下で氷雪に吹かれ死の瀬戸際を彷徨っていた。僅かでも発見が遅れればいきおい氷漬いた死体と対面していたろう。裡に鳴り響く恐ろしい警鐘は忍田真史という愚かな男を追い立て、恥じ入らせ、悲しみの縁へと追いやった。  やがて紫色の唇がぴくりと動いた。人肌で暖めていたのが功を奏したのか、私は壊れ物を扱うようなひどく慎重な手際で霜付いた睫毛から六花を払い落とした。時同じくして背後が騒々しくなる。十代半ば、若々しい東の声が荒れ地に一際高く響き渡った。 「忍田さん! 記録データが生きていました!」  古い機器ゆえに磁場の影響を受けなかったようだ。私は自分の記憶力にしかと自信を持っていたが、顔写真と照合させれば確実性が上がるだろう、非常事態こそ客観的な事実を用るべきだと素早く頷いて生体認証を求めた。 「急ぎ運び入れよう。衰弱した子供にペセルの気候は毒だ。……なに、遠征艇に幼子一人増えたところで問題ない」  空間が足りなければ私自身が船を降り、彼女を三門市へ帰還させる心積もりだった。実際そんな心配は無用だったのだが、それだけ私は一心不乱に少女を救いたいと願っていたのだ。 「不幸中の幸いですね。偶然ペセルへ不時着していなければこの子を発見できなかった」  ――ペセル〈偶像〉、かつて「幻の偶像」と賛美されし魅惑の乱星国家。遠征艇の計器が故障し、数ヶ月前までは大層美しかった小国へ不時着した我々は、荒廃し切った死地への滞在を強いられていた。その折りである。見覚えある少女を発見したのは。  私が「それ」に気付いたのはそれこそまったく偶然だったように思える。彼女は悪天候で視野の利かぬ原野へ小さな四肢を投げ出し横臥していた。閑かに、緩慢に。始めこそ戦争の犠牲者かと見過ごしていたが、事実は小説より奇なり、その少女はきっかり一年前三門市で行方を眩ました失踪者だったのだ。かくて私は間違いなく「あの子」だと確信していた。かの事件が起きた後、我が叫びも虚しく眼前でトリオン兵に攫われた幼子を忘れてなるものかと、この一年間、少女の写真をとっくり眺め尽くしていたのだから。  雪に足を取られつ故障船へ舞い戻ると細長い蒸気を放って全身の霜が溶けていった。暖房も停止していたと思ったが、外界よりは幾らか暖かいようだ。部下はあらかた出払っており、トリオンを動力として輝く緊急用の電灯が、私と東、そして少女の影だけを朧気に映し出した。 「待ってろ。今暖かくしてやるからな」  仄暗い船室をまさぐって毛布を敷き少女を横たえる。失踪者に目立った外傷がないことを目診すると、濡れぼそった毛先が生物のように柔らかな素肌へ張り付き、当時より随分と髪が伸びている事実に気付いて胸を締め付けられた。 「隊長、準備は宜しいですか? 顔写真を照合しま……うおっ」 「なんだ? 動力が戻ったのか?」  出し抜けに東の身体が大きく傾いだ。船内の機器が回復し振動を始めたのだ。巨大スクリーンが赤く明滅したかと思えば遠征艇は自己修復を開始していく。私はけたたましく点灯する警報ランプに幻惑され反射的に目を瞑った。そして次に面を上げた折、幼子が上半身を起こし、真正面から私を見詰めている姿に遭遇したのだった。きと開かれた瞼の向こう、私はこれまた色素の薄い瞳を見出し、妙に大人びた静謐な表情へ釘付けになった。方や目覚めを知らぬ東の揚々とした声音だけが船内を漂っていく。 「おっ。忍田さん、検査結果が一致しました。ここにある機器では遺伝情報まで確認できませんが、確かに一年前に失踪した子ですよ。体内トリオン反応にいくつか疑問点があるものの、同一人物と判……断……忍田さん?」 「……ああ。聞いているよ、一句漏らさず」  そう、世界はすべて偶然で成り立つ。だからこそどんな事態に見舞われても対処できるよう我々は己の牙を研ぐのだ。そしてこの日、私はまたひとつ導きへ邂逅し、奇しくも小さな命を拾い上げた。  幼子は無言で遠征艇を降り仰いだ。この場に不釣り合いな凪いだ時間が蕩々と流れゆき、後輩の声が遠くくぐもって鼓膜へ反響した。久方ぶりの再会へ胸を躍らせているはずなのに、現実味のない少女のまなざしにえもいわれぬ不安を抱く己がいた。やがて、何も発さぬ少女に業を煮やした私は彼女が座する台へ身を屈め、 「史桜。覚えているか、私のことを。私は忍田真史だ」と名乗り出た。 「シノダマサフミ」  平坦な口調で我が名を復誦する少女。 「ああ真史だ。宜しく。目覚めたばかりで不躾な質問を投げ掛けることを許して欲しいのだが、ひとつ大切なことを確認したい。君は私の妹――忍田史桜か?」  東春秋が計測器から叩きだした結論はこの子が我が実妹だとさやかに示していた。それでも私は本人へ確認せずにいられなかった。彼女が瞼を開いた刹那、そこに灯る色は、自身が知る無邪気な妹のそれと別物に思えてならなかったのだ。少女は肯うでも否むでもなく沈黙を貫き通し、ややもすると鷹揚にこう反駁するのだ。 「私は忍田史桜じゃありません。君島……君島史桜です」  こちらの真意を探るがごとく、幼子らしからぬ明瞭な発言をする少女の造形は、寸分の狂いなく我が妹・忍田史桜と同じだというのに。容良い唇から零れた台詞は私を崖から突き落とす穏やかな反論であった。嗚呼、有吾さんが居れば真偽のほどを教えてくれたろうか。だがあの人はとうの昔にボーダーを去った。目眩に襲われた私は孤月で身体を支え、狼狽える東も構わず、少女をきつく腕〈かいな〉へ閉じ込めていた。 *  ……――死ななかった自分は今こうして歩いている。そう思った。自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬ気もした。しかし実際喜びの感情は湧き上ってはこなかった。生きている事と死んでしまっている事と、それは両極端ではなかった。それほどに差はないような気がした。もうかなり暗かった――……。  志賀直哉「城の崎にて」

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