第一話 黄金竜の誘い
「それはおよそ善き時代でもあれば、およそ悪しき時代でもあった。知恵の時代であるとともに、愚痴の時代でもあった。信念の時代でもあれば、不信の時代でもあった。光明の時でもあれば、暗黒の時でもあった――」
チャールズ・ディケンズ『二都物語』第一章
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いっさいの道筋を外れた魂はどこへ向かうのだろう。絶望の冬の中、私が萌え立つ希望の春を見いだしたのは中つ国一美しいエルフの乙女が大空へ羽ばたいて間もない頃だった。
だが始まりはもっと前。そう、どれほど遡ればいいか分からないが、あの冬、一握の雪がひらりと舞い降りて大地へ投げ出された私の身の上にうっすらと薄化粧が施された冬至の夜。私を見下ろす金色は語り尽くせぬ悪意に満ちていた。
――ドラゴン。といっても翼のない地を這う黄金竜である。七つに割れた業炎をはき出す彼はあらゆる竜の始祖であり、私がこの異世界で初めて出会った生き物だった。
白に埋もれゆく私を認め、彼は感嘆の声を挙げて饒舌に語り掛けた。
「やあやあ、どうしたことじゃ。我がナルゴスロンドの土地でかようなことが起こるとは。死すべき娘よ、そなた、エルフの子か。さもなくば我らが幽鬼の一人か。否、姿形は人の子のそれである。だが奇妙じゃ。わしの卓越した記憶力を持以てしてもそなたのような気配は覚えがない。……おお可哀想に、無邪気な瞳のなんと怯えきったことよ。わしが怖いか。恐ろしいか」
熱い息が掛かる。私はひりつく喉を抑え、答えようとしたが、にわかに咳き込んだ。ぼた、ぼた、と雪上に赤い染みが広がる。哀れなるかな、竜のはき出す毒息がほんの僅かの間にも私を蝕んでいたのだ。
死期迫る人間を眺めてにたりと笑った彼の顔は今でも忘れられない。
「左様に怯えるならなぜわしの住処に立ち入った。朝日にさんざめく財宝を奪いに参ったか。親愛なる冥王の最高傑作〈わし〉を滅ぼしに参ったか」
竜の問い掛けは途切れることなく、毒の息を伴って私を苛む。
「答えよ、神のみどり児よ」
当初はまだ、此処が中つ国という名であることも、私の知る時代の遙か上古であることも、なにも知らなかった。だがこの世界が我が故郷とあまりに異なりあまりに似すぎていると気付くまで、そう時間は掛からなかった。
――なぜ。なぜ私はここにいるのだろう。
滑稽なことだ。今更になって初めてこの陳腐な問いが浮かんだのだから。しかし私はきっと帰ることが出来ないと分かっていた。胸を締め付ける直感が脳裏に閃き、身震いした。私はおぞましい目を見返しながら黄金のドラゴンと対峙する。
「目的なんてありません。目覚めたらあなたの前に居たのです。どうやってここに来たかも覚えていません。ですからあなたを害するつもりはありません。私は、ただ……」
震える声でやっと絞り出した言葉も尻すぼみになって宙に消える。我ながら情けなかった。しかしドラゴンは興味深そうに瞳孔を見開き、柔らかな腹を地面にすりつけて顔を寄せた。
「来た道も分からぬとは、まこと愚かな種族よ。本来ならばかように言葉を交わすことさえ厭うべき存在じゃ」
しかし、と続ける。
「わしが冥王から与えられた使命は、そなたのようなか弱き人間をあやめることであった。そなたも例外ではない。だが、ずっと知りたいと思っていたことがある――そなたが人か、さもなくばエルフの子だと言うならば……そなたらの限界を知りたいものじゃ」
「限界……?」
「そうじゃ。心の、な。わしは何度もエルフや人と戦った。成長して我が力が滾るにつれ畏れるものはなくなった。だが人やエルフは時として理解しがたい行動を起こす」
どうしたらもっと効果的に苦しめられるのか――彼の関心事はもっぱらそれであった。たしかに、敵を倒すには相手をよく知ることが大事である。
「では、あなたの敵は人間なのですか」
「エルフもじゃ。冥王に逆らう者はすべて敵である。だがわしに敵う者はおらぬ。なのにやつらは往生際が悪い。――しかるに、そやつらの心を知り、どんなことがあっても決して立ち上がれぬように仕向けるべく、わしは学ぶのじゃ。のう、これほど愉快なことはなかろう」
なんという悪趣味。悪しきものの筆頭、ドラゴンらしい言葉である。けれど今にして思えば彼は退屈していたのだと思う。戦いに駆り出され、怪我をする度に洞窟へ籠り、傷を癒やしてはまた舞い戻る。力を振うことが彼の存在意義ではあったが、ドラゴンの英知に満ちた目は戦場以外の愉みも求めていたのだ。そして私は折よく彼の前に舞い降りてしまったのだろう。
「そなたは悪しきものの導き手か、善きものの導き手か。どちらにせよ今を生きるのなら冥王に従う他、道はない。ゆく当てのない哀れな娘よ。さあ名乗るがいい。さすれば、あまた持つ宝のまったき輝きとして、わしの懐へ誘おう」
かつて我らが友、灰色のガンダルフは言った。暗闇があればこそ光は輝くと。その時、たしかに私は夜空を駆ける流れ星を見た。生きるか死ぬか。星に願ったところで選択肢などなかったろうに、僅かな可能性に手を伸ばしてしまった。
けれど思い返せば、きらきらと光の粉をまき散らして去ったあの塵は星々の女王が私を歓迎した輝きだったのかもしれない。中つ国を創り給うた水の神が、風の主が、遠くから見守ってくれていた気がしたのだ。
「私の名はスキラです」
「ではスキラ、漆黒の帳に舞い落ちたひとひらの雪片よ。我、グラウルングの体躯を巡る劫火がそなたを焼き尽くす時まで、側に在ろう」
気が付くと毒による痛みは消えていた。彼は「呪い」を自在に操る竜だったのだ。その力が後々、どんな悲劇をもたらすかも知らずに恐る恐る顔を埋める。柔らかな蛇腹は暖かかった。かの中に巡る炎が低い音を立てて、心地よい眠りと誘った。流れゆく歳月、残酷に消えゆく記憶の中で、その温もりだけが真実だった。
――これにて、一切は語られたのだった。