白蝶Chapter 0 白真珠・第二紀編
スキラ

第二話 始祖なる竜

「中つ国……? グラウルング、この本は正しいの? 冗談じゃありませんよね」 「ふん。これはこれはスキラ殿。先ほどから随分とくどいぞ。それ以上質問するならば、我が毒息で殺してやろう」  ドラゴンは低く唸り、黄金の山へ腰を落ち着ける私を睨め付けた。翼がない分いたく滑稽だが、彼に慣れた証拠だろう。  黄金竜の寝床で私は汚れた書物に目を通していた。幾月々、ドラゴンより学んだことは多い。彼のやや熱心すぎる教育を通し、公用語と、彼が聖なる言語と主張して憚らぬ無気味な言語を習得してからは日々情報収集に明け暮れていた。なにせすることがない。此処は後にも先にも洞窟ばかり。初めて彼と出会った場所は地下要塞の出入り口にあたるらしいが、昼夜分からぬ最奥の寝室で私は来る日も来る日もグラウルングと寝床を共にしていた。 「それで、ここは何という土地でしたっけ」 「ナルゴスロンドじゃ。元はエルフの要塞都市である。そなたがここに来る少し前にわしが滅ぼした王国じゃよ。しかし……先より土地の名前ばかり聞いてきよるな。何か気になることがあるのか」 「地図があったんで興味が湧いただけです」  彼の荒い鼻息が仄暗い蝋燭を揺らした。大広場の端々に設置された炎はうずたかく積まれた金銀財宝に反射し、何倍にも膨れあがって四方八方へ光条を投げかける。きらきらと天井を走る光の粒はさながら天の川――いや、陽光に輝く水面だろうか。  その煌めきへ「世界の気候」と題打たれた書物の目次を翳した。見間違いではない。たしかに中つ国と記されている。聞き知った世界の名前に驚きを隠せなかった。むろん、グラウルングと遭遇した時ほどではないが。 「でもこんな世界だったかなあ」 「なんの話じゃ」 「いいえ何も」  知識はある。中つ国という世界がある、という知識は。向こうの世界で手に入れた脆い記憶。しかし一体それでどうだというのだ。中つ国にいる人々がどんな生活をして、どんなものを食べているか、そういったことは一切知らない。字面だけ覚えていたって無知に等しい。  そうだ。いまさら此処がどこであるかなど些細な問題である。見知らぬ土地。その情報だけで十分だ。醜いオークがいようが、美しいエルフがいようが、戸惑いなど既にどこかへ吹っ飛んでしまっている。それもこれも全てドラゴンせい。皮肉にも、火竜グラウルングとの出会いがショック療法の役割を果たしたようだった。 「中つ国は広いんですね。とても。この洞窟の上は森があるんですか。近くに大きな川も走っているみたいです。ねえ、破壊されたと言っても、自然はまだ残っているんですよね」 「かろうじてな。川の水くらいはあるやもしれん。わしとて流石に地形まで変えると労力を使うからの。そうじゃ、ここのエルフの森はよく手入れされておった。別世界のように美しかったぞ。だからこそ、粉々に破壊したくなるというものじゃが」 「あー……あなたが大変な天の邪鬼だということは痛いほど伝わりました」  ドラゴンが喜ぶ基準などまったくもって知りたくもないが。  ――裏表紙に挟まれていた透かし地図。西ベレリアンドと但し書きがついた一点に、この土地の名が刻まれている。私はこの点から外へはみ出たことがない。独占欲だろうか、私の存在はグラウルングによって、オークにも、冥王にも、エルフにもひた隠しにされている。だからこそ、こうして竜の聖域でぬくぬくと安穏を享受出来ている。  しかしその反面、仮に私の存在が露わになった場合、不確か過ぎる生物は多くの者の目に「危険」と映るだろう。しかるに私は竜の側を離れない。竜が冥王に組する者だろうとなんだろうと、目下、安全な領域はグラウルングの隣だけなのだ。 「よいしょ……っと」  足を踏み出す度にざらざらと崩れ落ちる財宝の山。所定の位置に本を積み上げるべく、金貨数百枚を踏みつけながら移動する。最初のうちは「よくこれだけ集めたな」と感慨深く感じたが、今や黄金張りの小箱を尻に敷いたって気に留めない。  それにしても、ドラゴンは宝に目がない、とは良く言ったものだ。エメラルドに瑪瑙、ルビー、サファイア――黄金製の家具に据え付けられた金剛石。私が一生働いても手の届かぬ高価な品々にうずもれて、彼は満足げである。 「グラウルング、少し外の空気吸いませんか」 「ああスキラよ、今宵は雨じゃ。よしておけ」 「雨が嫌い?」 「水の眷属にはすべからく水の王が潜んでおる。ウルモ、と言ってな。身体に魚をたくさんつけた気持ち悪い爺じゃ。力ある存在じゃが、わしら冥王の子は嫌悪しておる」 「へえ。意外です。竜って怖いもの何もないと思ってましたけど」  素直な感想が口から滑り落ちる。その刹那。視界の端に、振れ幅が大きくなった尻尾を認め、私はすかさず金貨の山へ突っ伏した。頭上を巨大な尾が鋭く薙ぐ。あのまま佇んでいたら壁に打ち付けられること間違いなし。幾たびもの経験から学んだ教訓が役だった瞬間だ。 「あぶ、あぶ、あぶないですって」 「人間風情がわしを蔑むからじゃ」  褒めたのだと弁解しても伝わらないだろう。彼は他種族から受ける侮辱を極端に嫌う。配下のオークですらいとも簡単に叩き潰すのだ。ドラゴンに「仲間」という概念は存在しない。自分と、例外的に冥王だけが世界の中心なのだ。  なのになぜ、ちっぽけな存在である私を側に置くのか。奇妙なことに、慈しみを感じぬ訳ではない。出会ったばかりの頃、かっきり一度だけ、オークに見つかって殺され掛けたことがあった。その時、私の悲鳴を聞いて駆けつけたグラウルングの憤り様は尋常ではなかった。老賢人を彷彿させる知恵深い彼が、さながら玩具を取られた子供のごとく。  寸前で危急を免れたものの、名状しがたい塊が胃に落ちたのを感じた。それは水面へ落とした砂糖粒のように、すぐさま溶けて消えてしまったが、折に触れ思い出すのだ。彼の試したいことは、まごうことなく「心の機微を知ること」なのだろうか、と。  やけに教育熱心なことも引っかかっていた。豚を肥やして美味しく食べるように、彼は四年の歳月を通してあらゆることを叩き込んだ。とりわけ、ドラゴンしか知り得ぬ知識を率先して。  暇だと余計な考えに気が回るものである。水脈を流れる雨水が答えを急いていた。這い寄る悪意に心がざわつき、煩雑な思考を振り払うように金貨の山へ顔を埋めた。 *  不安が確信に変わったのはある事件がきっかけだった。グラウルングがお得意の悪知恵で、とある善良な兄妹の運命を弄び、悲劇を仕組んだのだ。数多のドラゴンが作り出される中、彼こそが史上、最も高度な知能を持つドラゴンだと言うことが証明された事件である。  今でも思い出すだけで胸が張り裂けそうだ。私自身が何かされた訳ではないのに。けれど、悪意とはただ存在するだけで命を蝕むものだと改めて思い知った事件だった。  さて、あの時は相当に混乱していたから、細かいところまでは覚えていない。が、おそらく相手は人間だったはずだ。私はその時隠れているよう言いつけられていた。けれど自分と同じ種族に出会うのが愉しみで、危険を冒して奥の部屋からそっと覗いていた。するとグラウルングはまず兄へ混乱の呪いを掛けた。そして妹からは記憶と声を奪った。その呪いが後々どのような効果をもたらすのか知らなかったが、明らかに黄金竜は人間の苦しめ方について私から学ぶより遙かに多くを知っていた。竜は兄妹を陥れ、一組の男女として愛を育ませたのだ。  二人がどうなったかは語るに及ばない。竜が兄妹を野放しにした後、私は寝床へ逃げ帰った。目の前で人間を弄ぶドラゴンは遙かに賢く、悪意に満ち、とうてい私の物差しでは推し量れぬ生き物だとまざまざと眼前で見せつけられたのだ。  愛蔵書を取り落として手先が震えていることに気が付いた。だがそれは恐れとは些か異なる感情だった。言うなれば孤独感。私は己がいかに彼に保護され、隔絶された世界で生きていたか思い知って愕然とした。  こうなってしまえば悪名高きグラウルングが私に対して一計を案じていないとも限らない。いや、まさしく企んでいるに違いなかった。一歩一歩、宝石輝く洞窟へ戦いの音が迫る中、いつか明かされるであろう真実をじっと待ち詫びた。  しかしグラウルングの思惑が日の下で明るみになった日――それは彼との離別を意味していた。

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