白蝶Chapter 0 白真珠・第二紀編
-エルフ女王-

第三話 血脈と呪い

 わらわがガラドリエルと名乗ったとき、かの娘は大層驚いた様子で、爬虫類のごとき瞳を瞬きました。  暗黒の冥王が滅びて早数百年。中つ国は第二紀を迎え、後のドゥネダイン――丈高き人々がこの地へ根を下ろし始めておりました。悪しき者は滅びたのです。徐々に回復する世界を讃え、エルフ達は滅ぼされし王国を後にしました。新たな都に住まうべく彼らが向かった先は、霧降り山脈の西側。柊郷として愛されたエレギオンでした。  そんな折りです。わらわがかの娘を見出したのは。彼女はエルフがこの地に参る遙か以前からずっとそこへ住まわっておりました。柊郷の西方にある極寒の鍾乳洞、カラズラス峠の洞窟に。  多くのエルフが同地へ移住していたにもかかわらず、初めにかの娘を見つけたのはわらわでした。それはモリア鉱のドワーフを訪れた日。わらわはまっすぐ帰るつもりだったのに、何かへ導かれるようにして、冬のカズカラス峠を登り始めました。山の天気は変わりやすいと言いますが、朗らかな陽気を放っていた太陽は見る間に雪雲の向こうへ隠れ、一寸先も見えぬ白亜の空間へ閉じ込められてしまいました。その時です。微かな音色が耳朶を伝い、鼓膜を震わせました。驚いたことに、それは言の葉を携えた獣の咆哮でした。  息を殺して傾聴すると、誰かを呼ぶ声のようでした。わらわが「今行きましょう」と応えると、心持ち吹雪が止んだような気がして、再び歩みを進めることが出来ました。  すると、どうしたことでしょう、幾度となく通ってきた場所に巨大な鍾乳洞が口を開けていたのです。精妙に形作られた氷の芸術は、わらわが見た自然の中でもっとも美しく、儚き色を称えておりました。  ――なぜ誰も、かように美しい場所を話題にせぬのでしょう。  もっともな疑問が過ぎりました。峠の真下に住むドワーフたちならば、この洞窟を褒めてしかるべきです。答えはおのずと明らかになりました。かの洞窟には恐るべきドラゴンが住んでいたのです。白い竜。赤子のようにすやすやと眠る幼竜は、凍った湖の側で身じろぎ一つせずに横たわっておりました。察するに、この洞窟には某しかの力が働いているのでしょう。だから人っ子一人、気付かなかったのです。 「まるでニムダエ――輝ける白夜。暗き闇を払う白き影」  当時怖い物知らずであったわらわは、氷に透ける鱗をそっと撫でました。そして全てを見たのです。心を見通す力で、かの娘の正体を。様々な光景が走馬燈のようにわらわの心を埋め尽くしました。娘とドラゴンの出会い、彼女と戯れる竜、黄金竜が人間の兄妹に行った仕打ち――人間の手によって成し遂げられたドラゴンの悲惨な最期。  しかしニムダエ〈白き影〉は深く深く眠っており、決して目覚めることのないように思えました。 「ニムダエ……スキラ、目覚めるのです」  刹那、ニムダエに覆い被さる呪いの影がわらわを強く引きずりました。気が付くとかの娘が、艶やかな黒髪を垂らし、目の前で跪いておりました。散乱した書物、金銀財宝を黒く染める火竜の生き血。スキラと呼ばれた娘の心に覗き見た光景と、そっくり同じ空間が視界いっぱいに広がっておりました。 「グラウルング、グラウルング」  娘は重たい顎を持ち上げ、大きなトカゲ顔を膝の側へ寄せます。黄金竜は返事をいたしませぬ。ただ薄く、瞼を動かしただけです。それでも娘は安堵の表情を浮かべ、黒剣が突き刺さったであろう蛇腹を優しく労りました。 「竜は誰にも負けないんじゃなかったんですか」  手遅れだと分かっているのでしょう。彼女は瞳を揺らしながら、落ち着いた所作で鱗に覆われた固い瞼を撫ぜました。一人と一匹の間に、埋められぬ溝が広がっていきます。刻一刻と迫る別れの時。スキラの顔から、星一つない暗黒の夜空が伺い知れました。けれど竜に対する畏怖ではありませぬ。娘を覆い尽くさんとする暗闇の正体は、養いびとを失い、独りで見知らぬ世界を生きていかなければならぬ不安と孤独感でした。 「死ぬの」  確かめるように。スキラが竜の顔へ覆い被りました。ドラゴンはもはや虫の息でした。トカゲ頭は次第に動きを失い、ついに力なく垂れました。生前、彼の所業がどんなものであろうと、目を覆いたくなる死に様です。スキラは竜の頭を地面へ降ろし、音もなく立ち上がりました。彼女の衣服から、一枚、二枚。金の鱗がこぼれ落ちます。それは岩を穿つ水音に似た清涼な音を立て、息を引き取ったドラゴンの鼻先へ――にわかに虚ろな色をした竜の瞳が見開かれ、爛々と輝きました。 「ぐっ……はっはっはっ……わははははっ」  何の前触れもなく、睨みの利いただみ声でドラゴンが哄笑しました。笑う度、腹に空いた風穴から黒い血がどっと吹き出ます。煮えたぎる毒の血飛沫が娘の腕へ舞い落ちました。ドラゴンの血に触れた肌は嫌な音を立て、熱気が立ち上ります。スキラは戦慄いて後退りました。息絶えたはずの養いびとがよろめきながら上体を起こし、朗々と叫び始めたのです。驚愕せぬはずがありません。 「スキラ、我が宝よ。どこへ去るというのじゃ。洞窟から出てどうやって生きていくというのじゃ。冥王がいる限りどこにも逃げられぬぞ。生きたくば我が近くへ参れ。側におるがよい。おおお心がざわつく、腹を裂いた黒剣が我が身に憎き水を流し込む。恐れよ慈雨を、憎め氷雪を。わしの亡骸の下で雨宿りをするがいい、わしの血を吸うがいい。……ああだめじゃ意識が白くなる。白い影が迫る。スキラよ、決してわしを忘れるな、わしと共に永遠なれ――そなたの上に禍あれ!」  最期の宣誓の後、白い夜が訪れました。まばゆいばかりの黄金は失われ、代わりに、ミスリルのように澄んだ白妙が広がりました。けれど奇妙なことに、光が薄れゆく中で、わらわは懐かしい光景を認めたのです。帰ることを許されぬ我が故郷、西方の至福の国に存在するローリエン。そして、つづれ織で覆われた箱の館を。  ――ああ、それより後は知りませぬ。わらわの意識は氷の洞窟へ戻っており、訴えかけるような爬虫類の瞳がわらわを凝視しておりました。それから、そう、ドラゴンはどうしたと思いましょう。彼女はドラゴンらしからぬ謙虚な仕草でたおやかにお辞儀をしたのです。 「そなたは元々、人間なのですね」  戸惑いはしましたが、心を既に見て存じておりましたので、わらわは恐れませんでした。ドラゴンに破壊されてから日の浅い中つ国には、彼らの存在を肯定したがらぬ者が圧倒的多数でしょうが。 「わらわはケレボルンの妻、ガラドリエルです。スキラ、かような場所で何を思います」 「ガラドリエルさまですって? 本当ですか、随分とお若いですね。あなたはもっと――」 「光の奥方らしいと思っていた? そなたが存じているわらわは、何千年も後のわらわですよ」  わらわ達は穏やかに言葉の応酬をしました。ドラゴン特有の婉曲的な皮肉った物言いはなく、あたかも人の子と話しているような心地よさをもたらしました。彼女はまだ「人間」だったのです。  白き竜の周囲はさながら鏡のごとく、氷が張り巡らされ、白亜の鱗と合わせ鏡を作っておりました。わらわは足下で鏡面を擦り、出会い頭に親密さを覚えてしまった雌ドラゴンをより深く知ろうと思いました。 「スキラ、此処は大変寒いでしょう。平気なのですか。いくら人間だったといえ、竜は暖かな洞窟を好むものですよ」 「いいえ、とても快適ですよ、ほどよく冷えて」 「なるほど……そなたは火竜ではなく、氷の眷属なのですね」  世にも珍しい、氷を好む竜。ドラゴンを筆頭に冥王の僕は総じて水や雨、氷といった水の王を厭うものです。一重にかの事実は希望の光をもたらしました。なぜならわらわは、黒き時代が再び参ることを知っておりました。それが柊郷の領主が傾倒している力の指輪周辺から湧き起こることも。しかるにスキラのような、冥王を崇めぬ、力ある存在は必要不可欠でした。 「かような場所に一人では寂しいでしょう。いまはまだ人の心が残っておりますが、そのまま孤独に生きれば、いずれ言葉を忘れ、人の心まで失うでしょう。白き竜よ、わらわと共に山を降りませぬか」  スキラが竜の呪いを受けてから千年ほど過ぎておりました。だのに彼女の身体は未だ幼竜です。ひょっとすると、グラウルングの呪いが不完全だったのかもしれませぬ。わらわはいたく同情をしました――わらわ自身に。懐かしき海の彼方へ帰ることを禁じられ居場所を探し続けるわらわを通じ、異世界よりおとなう娘に。わらわは彼女の中に自分を重ね見ていたのです。否、ニムダエとの出会いはわらわに帰郷を禁じた上級精霊の情状酌量であり、運命によって仕組まれていたのかもしれませぬ。  むろん、これらはすべてわらわの憶測にすぎませぬが、かの娘を癒やすことで、自身に潜んだ闇を振り払おうとしていたことは明白でした。しかしスキラは頑として受け入れませんでした。 「エルフは私を恐れるのではありませんか。かつて中つ国の住人がグラウルングを恐れたように」 「わらわが説得しましょう。大丈夫です、そなたの身体はまだ幼く小さい。それほど警戒心を持たれることもないでしょう」  仮にスキラが暴れたとしても、上級エルフなら一撃で殺せたでしょう。もう少し成長すれば人の姿を取ることも可能です。その旨を告げると、白竜は全身をぶるぶると震わせました。喜びに感激しているのだと気付くまで些か時間を要しましたが、無理からぬことでしょう。世間から隔絶された一千年、彼女はひたすら洞窟の中に籠り、グラウルング直伝の魔力を行使する機会にも恵まれませんでした。いいえ、魔力そのものに思い至らなかった、と訂正すべきでしょうか。  わらわは彼女にニムダエ〈輝ける白夜〉と愛名を贈り、柊郷の住まいにほど近き山麓へ誘いました。かの竜は姿形こそドラゴンでありましたが、本人が醸し出す雰囲気と、やや気の抜けた性格、仔馬ほどの小柄な体格から、危惧していたほど敵対視されることはありませんでした。  同情から始まった縁はいつしか深く、指輪を巡る戦いの時まで続いております。わらわは西へ帰りたい。しかしサウロンが果てるか、わらわが果てるか。その時までは中つ国に留まらなければなりませぬ。ああスキラ、力の指輪が所持者を苛む苦痛の中、わらわがニムダエ〈白き夜〉に託す希望がどれほどのものか知らぬのでしょう。そう――知らないほうが良いこともあるのです。西海へ続く船がわらわを迎えに来る。その時まで、夢の花でありつづけるために。

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