白蝶Chapter 0 白真珠・第二紀編
スキラ

第四話 白夜を浴びて

 私がニムダエ〈白夜〉という愛名でエルフ達に親しまれてしばらくが経った。鋭いかぎ爪だった手は五本指に、白い鱗が虹色に輝く頭は流れるような黒髪に。私は人間だった頃の姿を取り戻していた。 「ニムダエよ、その姿もだいぶ慣れたようだな」 「お陰さまです、エルロンド殿」  光の奥方に誘われるまま山を降りると、柊郷にほど近い洞穴が新しい居まいとして宛がわれた。極寒のカズカラスに慣れた身にとって、地上は些か暑すぎたが、それまで水しか摂取してこなかった私はすくすくと成長した。奥方曰く、グラウルング直伝の魔力が私の体内に少なからず潜んでいる。成獣になるに比例して魔力は強まり、いつか人型を保てるまで成長するだろう――。  そう説得されて今に至るが、人生そんなに甘くなかった。なまなかな努力では目的達成に及ばず、苦労の末にこうして二本足で立っている。しかも同時に厄介なことも浮上した。かつて、かの黄金竜は意のままに火や呪いを操った。だからドラゴンである私も魔法のごとき力で身を守ることが出来るはず……なのだが。人型を保つことに気を取られているのか、かような力はさっぱり使えない。つまり人の姿で生活している時は、固い鱗が有るわけでもなし、極端に無防備なのだ。 「随分と変わった顔立ちだ。人間の姿になっても、皆あなただと一瞬で分かるだろう。その顔は理想の顔なのか」 「いいえ、自分の顔です。元々の。自由に姿を変化出来るからといって、馴染みのない姿になるのは遠慮したいですから」  たとえ絶世の美女になれるとしても、だ。だが中つ国では、私のような顔自体珍しい。したがって普通の人間を装ったところで、柊郷で珍しい顔立ちを見かけたら、おのずと「カラズラス峠から来たスキラ」に直結してしまうのだ。 「竜になって久しいのに、よく己の姿を覚えていたものだ」 「自分でもそう思います。記憶力が良かったんですよ、きっと」  冗談である。本当のところ、ほとんど覚えていなかった。放っておけば自分がどのような姿だったかも忘れていただろう。奥方が告げたように、ただの獣へ堕ちていたかもしれない。だが雪山に引き籠っている間、不可思議なことが繰り返し起きたのだ。  それは夢だった。水中を漂っている夢。私は向こうの世界の服装をして、焦げ茶色のワンピースを着ていた。水を吸って足に絡みつく衣服。それを懸命に振り払い、酸素を求めて上へ上へともがく。奇妙なことに私は人の姿を取っていたが、己の身体ではなかった。誰か他の人間だった。そのうち光射す水面が乱れ、二本の腕が波間に揺れる草木をくぐり抜ける。私は二の腕を力強く掴まれた。足下から押し上げる浮力に乗りながら芝生へ投げ出され――そこに、まごうことなき「私」がいた。  見誤るはずがない。呪いを掛けられるまで、毎朝毎晩、鏡で見てきたのだから。「私」は瞠目していた。けれどその時やにわに思い至るのだ、私は他人の姿をしていたことに。私を引き上げた「私」は、肩越しに何事かを叫んだ。応えるように、影から騎士の風体をした男が現われる。年は三十代後半だろう。高貴な顔立ちに、数多の戦をくぐり抜けた厳しさ、上品な柔らかさが同居していた。  金の巻き毛を携えた彼は「私」と二言三言話すと、馬を降り、愁いを帯びた瞳をこちらに差し向けた。何事か話し掛けられる。が、何を言っているのかとんと分からない。困り果てた様子で男が首を傾げ、「私」の番になった。女は問うた。あなたは誰。今度は分かった。だから私はこう応えるのだ、深桜、と――。  夢は毎回そこで終る。大きな意味が内包されているように思えてならないのだが、ガラドリエルの奥方でさえあずかり知らず、保留のままである。峠を離れた今、夢を見る回数は減ったが、長きに渡って己の姿を忘れずにいられたのは一重にこの夢のお陰だった。 「以前は人の姿になるたび身体が辛そうだったが、もう支障なさそうでなりよりだ。よくぞ成長された」 「どこも変じゃありませんか」 「何を。ニムダエ〈白夜〉の愛名に相応しい、可愛らしいおなごだ。あなたの本当の姿と相まみえることが出来て嬉しく思う。……もちろん、ドラゴンの姿も、あなたに違いないが」  最後に囁くように添えられたエルロンドの配慮が嬉しかった。彼はどちらの姿も肯定してくれているのだ。私自身も、そろそろ現実を受け止めなくてはならない。竜の一員として中つ国で生きていくことを。 「もう一千年も経っているなんてなあ……家族はどうしているんでしょう」 「子孫がいるかもしれない」 「だと良いです」  居るわけがない。だがエルロンド殿は私の出身を知らない。彼のみならず、ガラドリエルの奥方以外は誰一人。なんてったって中つ国に存在するドラゴン一つで面倒なのだ。わざわざ自ら事態をかき回し、実験動物のような扱いを受けるのはごめんである。  私がカラズラス峠に引き籠もった数百年――あちらの世界にいた頃なら、それは途方もなく、永遠に等しい時間だったろう。しかしいざこの身になると、日々は飛ぶように過ぎ、一年、十年が刹那となって消え失せた。中つ国へ来たあの日がまるで昨日のことのように思い出される。黄金竜との出会い、学んだ事柄、彼の絶命。呪いを掛けられる以前の思い出ばかりが私の記憶を占めていた。  もとより竜になった以降の記憶が少なすぎるのだ。グラウルングとの死別後、私が覚えているのは僅かなことだけだった。慣れない翼で空を飛び、冥王の目をかいくぐりながら身丈に合う洞窟を探したこと、冥王が滅びたと風の噂で聞いたこと、その余波で竜は残党狩りに遭い、私はますます肩身が狭くなったこと。わずかにその程度である。  エルロンド殿にこの話を語ったところ、彼は心底不思議そうに尋ねた。 「ではその間、あなたは何をしていたのだ」 「寝てました。長い時は十年以上、飲まず食わずで」 「つまり数百年単位で惰眠をむさぼっていたという訳か。我々が冥王と戦っていた時に」 「……なんですかその目は」 「暢気なものだと思ったのだ。私など捕虜にされたのに。その頃あなたは、安穏とした眠りについていたとは」  兎にも角にも、あの頃は眠かったのだ。生まれたての赤ん坊が一日の大半寝て過ごすように必要な睡眠に違いなかった。が、いつか脳みそが溶けてしまうのだろうと自ら心配する程、毎日を寝て過ごしていた。曰く、私はドラゴンで言う「成獣」に未だ達していないらしい。長命の竜はかくも成長に時間が掛かるものかと光の奥方へ尋ねたところ、「普通のドラゴンを基準に考えてはいけませぬ。元は人間なのですから」とやんわり、しかしきっぱり一刀両断されたのはつい先日のこと。  それにしてもなんて言い草だ。正直に答えたのに、黒髪のエルフは軽蔑した眼差しを惜しげもなく向けてくるではないか。エルロンド殿が捕虜になったのは私のせいではないし、第一、目覚めていたところで、戦い方も知らぬ私が役立つと思えない。敵にならなかっただけ喜んでくださいと告げると、今し方現われた金髪エルフが心地よい声で笑った。 「仮に敵であっても、スキラは戦えなかっただろう。けれどあなたが安全なところで心地よい眠りに身を任せていてくれたから、私どもも無駄な血を流さずに済んだ」  助け船を出してくれた男はグロールフィンデルだった。悪鬼バルログを仕留めたことで一躍有名になった強靱なエルフ。上背の高い、涼やかな目元をした彼が、あたかも楽の音を奏でるように朗らかな声色で笑う様は、眉目秀麗なエルフが多いこの土地でも秀でて麗しかった。宝石を散りばめた彼の金糸が柔らかな太陽に溶ける。私はグロールフィンデルに懐いていた。ドラゴン姿で初顔合わせをした際、私を恐れなかったのは彼だけだったし、本名を呼んでくれる者の一人だった。 「だ、そうですよ、殿」 「裏切ったな、グロールフィンデル。二対一では分が悪いではないか」 「失礼しました。ならば次こそはスキラに助けて頂きましょう」 「なるほど、それは良き案だ」  二人のエルフは底意地の悪い顔で視線を絡ませた。どういう意味だろうか。聞き捨てならぬ台詞に、姿勢を硬直させる。 「何のお話ですか」  触らぬ神にたたりなし。構わずそっとしておけば良かったのに、首をつっこんでしまったのが運の尽きだった。エルロンドは快活で、年齢の現われぬ顔をほころばせた。 「次に私が捕らえられた時、ニムダエが助けに来てくれるから安心だと話していたのだ。ドラゴンが敵になったら恐ろしいが、味方ならこれほど心強いことはない」 「助ける……? 何を仰ってるのか計りかねるんですが」  疑惑の花が脳裏に咲く。嫌な予感がした。大事になる前に逃げるが勝ちだ。そう判断した私は素早く身体を翻した。が、先を読まれていた。グロールフィンデルに足首を掴まれ、豪快にひっくり返ったことで、稚拙な逃亡劇はあっけなく幕を閉じた。 「どうして逃げる、ニムダエよ」  涼しい顔で私の足首へ指を絡める美しいエルフを他所に、黒髪の男が問うた。 「だって敵味方って……私は戦には出ませんよ」 「しかし、そういう話ではないのか」 「何がです」 「奥方だ。ガラドリエル殿があなたを連れてきた理由」  寝耳に水である。まったく話が噛み合わない。戦と奥方が何の関係があるのだ。眉間に皺を寄せて疑心に満ちた視線を送ると、二人のエルフはようやく事態を悟った。 「何も聞いておらなんだか」  嘆息に乗せて発せられた言の葉がすべてを物語っていた。頭皮がぞわりと泡立った。成長するまで待つつもりだったのでしょうか、とグロールフィンデルの歌うような声が遠くなる。 「もしかして……私をドラゴンとして戦に出すつもりなんですか」 「決定ではない。だが近頃モルドールで妙な動きがあるから、ニムダエを鍛えておかなければならぬ、と柊郷の領主や光の奥方と話し合っていたところだ」  不審な動きがあるから鍛えると。決定ではない、と言っておきながら、そういうことではないか。中つ国の住民は本人に相談せず物事を進めるきらいがある。階級がはっきりしている社会だから仕方ないとは言え、命に関わることは前もって教えてほしかった。 「いやだと言ったらどうするんですか」 「あなたが嫌なら強制しないが、死期を早めることになるだろう」  恐ろしい言葉を吐いたのは金髪エルフだった。彼は若々しい魅力に溢れた顔を曇らせて先を続けた。 「ねえスキラ、なぜあなたが柊郷で受け入れられているか、お分かりになるだろうか。今は中つ国を脅かすドラゴンが表立って存在していない。我々は竜の悪意を忘れた訳ではないが、それでも脅威は去ったから、あなたのことも受け入れられた。けれど奥方は仰っている。冥王の配下、悪しき者はいつか再び現われると。その時、いま現在潜んでいるドラゴンはどうするだろうか。再び悪しき者の僕となって暴れることは想像するに難くない。そうなればスキラ、あなたまで敵と見なされかねない。一を見て十を知ったと思い込んでしまう者らによって」  グロールフィンデルが告げたような事態になれば、私はこれ以上、此処で保護してもらうことは出来ない。また一人で洞窟に籠るのだ。それは淋しかった。だがエルロンド殿は、肝心な問題はもっと別の点にあるという。  えてして黒髪の男は、悪夢のような話をとうとうと語ったのだった。 「ニムダエよ、あなたの存在は既に柊郷全体に知れ渡っている。美しい奥方が連れてこられた愛すべき竜として。しかし多くのエルフが知っているということは、敵もまた知っているということだ。あなたの話を聞いて悪しき者ははかりごとを企む。たとえば、私が敵なら、あなたを手先に引込み間者として働かせるだろう。むろんニムダエが敵の一員だとは思っていない。そうなればガラドリエル殿が気付かれるだろう。だが彼らが真にそのように考えた場合、あなたはどうするか。……いや、言わなくてもよい。面倒くさいという理由で断わることは分かっている。しかしそうなれば、敵は、脅威になり得るあなたを生かしておくだろうか」  ああ、どちらに転んでも針山という訳だ。片や大きな保護を失い、片や敵から狙われる。悪しき者との戦いが始まれば嫌でも逃げ回らなければならない。ドラゴンの呪い一つでどうしてこれほど面倒くさい事態が起きるのか、頭を抱えた。 「スキラ。戦えなければあなたは呆気なく死ぬ。竜とて不死身ではない。知っているだろう、グラウルングの最期を」  金髪エルフの大きな手が慰めるように頭を撫でた。 「スキラが面倒臭がり屋なのは、魔力の練習に付き合った時から知っているし、平和主義なのも知っている。だからこそエルロンド殿はあなたの身を案じているのだ。牙の研ぎ方も知らぬドラゴンが、戦う術も知らぬ人のおなごが、どうやってあなたと同じドラゴンと戦えるのか」  なるたけ苦労はしたくない。それは誰だって同じだ。だが努力を放棄した先にあるのが無情な死だとすれば、選択肢はひとつである。 「戦に出る、出ないは、ニムダエの意志に任せる。約束しよう。絶対に無理強いはしないと。しかし我らを愛しているのなら、せめて、人の姿となったとき、自力で生き残れる程度の力を付けて欲しい。ただでさえその姿のあなたは無力なのだ。もし私がいま話したようなことになり、あなたが命を落としたとなったら我々は自分を許せないだろう。どうして保護し続けてやれなかったのかと――」  深い苦悩がエルロンド殿の面を過ぎった。彼は情け深きエルフだ。もしかしたら、私のことも養い子のようにも考えてくれているのかもしれない。ならば、どうして断われよう。  かくして私は、ほどほどに手を抜くことを我が身にひっそり誓いながら、二人の提案を受け入れたのだった。

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