白蝶Chapter 0 白真珠・第二紀編
-執政官-

第五話 親愛なる竜殿

 白き塔の資料庫で初めてかの女と言葉を交わした時、わしはまだ己を「わたし」と呼び習わし、執政デネソール二世ではなく、執政エクセリオン二世の息子として世間に認知されていた。  そやつは王族ないし執政しか入れぬ資料庫で居眠りをしていた。夜空のように黒く押し流れる髪、白練りの肌に影を落とす漆色の睫。眉間を通る鼻筋は低すぎず高すぎず、エルフのように見目麗しいとまでいかずとも、一目でそれと分かる珍しい顔立ちしている。日々の愉みとして古文書を読みに来たわしは、限られた者しか入れぬ神聖な場所で惰眠を貪るそれをしみじみと眺めた。かなり背は低いが、男のような身なりである。腰には細い剣。手先に、濡れ羽根色の黒糸を纏めていたと思われる紐をしどけなく絡め、ぴくりとも動かぬ。  にわかに、死んでいるのではと脳裏を過ぎる。が、微かに上下する背中を認め、忌々しく舌打ちした。 「由緒ある資料庫で居眠りとは……我が祖先への挑戦か?」  当時、わしがかの人について知っていたことは二つ。数年前にはなれ山からふらりと現われ、長い話し合いの末ゴンドールの雇われ傭兵として滞在していること。初対面のはずなのに、父は前々よりかの人について聞き知っているようであること。それのみである。 「訓練でも居眠りし、資料室でも居眠りとは、気ままで幸せな輩よな」  ミナス・ティリスの御前、父の隣でスキラと相まみえたとき、こやつは貴重な資料庫を見せて欲しいと頼みに参った。その引き替え条件として執政家へ奉公し、数年前から城へ滞在している。こやつを彼女と呼ぶべきか、彼と呼ぶべきかはっきりせぬが、父曰く有能な将である。――おそらくは。  なにせスキラがその「有能さ」を発揮している様を見たことがない。だから断言は出来ぬ。とかくこやつは謎が多かった。オーク狩り出陣時はいつの間にか隊に紛れ、わしやソロンギル――わしは予てよりこやつの正体がアラソルンの息子アラゴルンであると見抜いていた――の後ろを付かず離れず寄り添っていた。残念ながら積極的に剣を振う場面をこのまなこで見たことがないが、こやつが死線を彷徨った、予断を許さぬ事態に陥った、という話はついぞ耳にしたことがない。  激戦地に参り何事もなく帰ってくるとは相当の手練れなのではないか。スキラが共に行動するようになってしばらく経ち、眉唾ものの噂が兵士達の間でまことしやかに流れるようになった。だが奇怪である。誰一人、こやつがどのように戦い、どのように危難を逃れたか目の当たりにした者はいないのだ。  それどころか―― 「スキラ殿。ソロンギルが来ているぞ」 「お、おお、お早うございます?!」  魔法の一言で血相を変えて飛び起きる。寝ていません、寝ていませんよ、と誰にともなく弁解する姿に呆れ果てる。爽やかに朝の挨拶を添えたくせ、居眠りしていなかったと言い訳するなぞ無能としか思えまい。つくづく分からぬやつだ。有能なんてのは間違いで、単に運がいいだけではないのか。なんたってこやつは、みなの期待を見事に裏切って常に堂々と居眠りしている痴れ者だ。他人の評判など当てにならぬ。その証拠に、ソロンギル大将率いるゴンドールの兵士達は、スキラの勇姿こそ知らぬが、怠けて大目玉を食らっている姿は飽きるほど見知っている。 「嘘だ。安心せよ。ここにはわたししかいない」 「は。嘘?」  ソロンギルの姿が見えないことを確認すると、緊迫した空気を解き、乱れた髪をなでつけた。 「ああ、心臓止まるかと……デネソール殿ひどいですよ」  あなたはどうしてここに。物言いたげな黒水晶の瞳がわしを捕らえた。今し方手に取った古文書を翳す。すると納得したのか、そやつは読みかけの本を纏めて棚へ並べ直した。  一体何を調べているのだろう。陳列棚に戻されたばかりの本が古き神話、上古のおとぎ話を解説したもので、途端に興味が湧いた。はなれ山から遙々参って何をしているかと思えば、おとぎ話を調べているらしい。疑念が膨らむ胸中をひた隠しにしながら、上階に繋がる扉を手で遮った。 「ずっと、聞きたいと思っていたことがある。おまえはミナス・ティリスで何を調べているのだ」  よどみない問い掛けに、やつの目玉が一種鋭い光を帯びた。繊細な顎、細い首、たっぷりしたローブで隠しているものの筋肉量の少ない肢体。どうして外の兵士共はこやつが女だと気付かないのだろう。明らかに、男とはかくも異なる姿をしているのに。  父上とて分かっているはずだ。我々はドゥネダイン、相手を見透かす力を持つ。その力を遺憾なく発揮する聡い父上ならば、スキラが紛れもなく女だと理解して然るべきである。しかし父は率先して彼女に奉公を命じた。女が戦場に赴くことを執政自ら許可したのだ。  こやつが我々と共に剣を抜くことの不自然さは語ればきりがない。そう、百歩譲って、こやつが「少年」だとしよう。しかし屈強な兵士が大勢いる中、わざわざ子供を死地に送る親がいようか。賢明な執政官であることを常々誇ってきた我が父である。そんなことを良しとするはずがない。女ならば尚更、成人してようと関係ないだろう。 「おまえは、何を望んでここにきた」 「調べもの、です」 「であるならば、許可を貰うだけで良かったはずだ。だが父上はお前の要求を利用し、ゴンドールへおまえを繋ぎ止めようとしている。父上が只の女を雇う訳がない。もしやハレスの族〈やから〉か。それならば女が戦士として戦場に立つのも頷けるが、なぜ男装する必要がある」 「男装もなにも……男だと名乗ったことありませんけども」 「なるほど。執政官直々に兵へ迎え入れた者が、まさか女だと、誰も思わんな。しかし……分からぬ。ドゥネダインの血を以てしてもおまえの存在は計りかねるのだ。だから、もう一度問う。おまえは何者か」  やつの白き手が剣の柄に添えられた。わしは靴中に隠し持った剣をいつでも取り出せるよう、身を低くする。しかし女は被りを振っただけ。一言「ニムダエ」と発し、ゴンドールの美しい大地レベンニンの野に咲くアルフィリンの花の香を残して立ち去った。 *  ニムダエ――その意味を知ったのは半年以上経ってからだった。スキラとはあれ以来、資料室で顔を合わせる機会がない。しかるにわしは、悠々自適に部屋を独占し、古文書を貪り読んでいた。わしを突き動かす原動力はソロンギルに対する羨望と、スキラに対する懐疑心であった。  その名は中つ国第二紀の項へ記述されていた。輝ける白き夜、白亜のドラゴン。いにしえの時代に現われ、指輪戦争当時サウロンに従わなかった異例のドラゴンとして、申し訳程度に名前が添えられている。 「まさか、ばかな」  額面通り受け取ると、あれは人でないことになる。そんなことがあり得るだろうか。とんだ滑稽話である。わしは嗤った。きっと彼女は善きドラゴンに憧れて、自らにその名を被せているだけだろう、と。 「馬鹿馬鹿しい。ドラゴンが人に奉公する? やつらは金銀財宝にしか興味のない野蛮な獣だ」  たしかに、この本を読んだだけなら、わしは信じられなかったろう。だがあのとき、スキラが訓練中にうたた寝して落馬し、ソロンギルに二回目の呼び出しを受けた日、聞いてしまったのだ。二人の驚愕すべき会話を。  その頃、わしは一ヶ月ほど前から二人を注視していた。小耳に挟んだのだ。ソロンギルは他の兵士に対するより、滅法強くスキラへ当たると。常習犯だから仕方有るまいと軽く流していたが、なるほど、際立ってスキラは強い言葉を浴びせられていた。寡黙なソロンギルの性格を考えれば奇妙なくらいに。可哀想だと同情する兵士もいたが、信頼関係ゆえだと反論する者もいた。喧嘩するほど仲が良いのだと。改めて観察すると、わしは後者と信じて疑わなくなった。スキラも、怒り心頭で名前を叫ばれる度怯えていたが、さほど悲しんでいなかったように思う。  わしは廊下の影に入る二人を追い、柱の側で聞き耳を立てた。 「スキラ、何度いえば分かるのだろうか」 「ああ、その、大変反省しています……ご心配お掛けしました」 「別にあなたの怪我は心配していない。スキラ以上に丈夫なものはゴンドールにいないと思うから。だが兵の士気に関わるのだ。ただでさえ暗い時代に差し掛かっているのに。聞くが、力ある存在がそんな様子で民を守れると思っているのか」 「はい……ごもっともで」  静かな鉄槌が下る。萎縮する女の姿がまざまざと脳裏に浮かび、こみ上げる笑いを必死で抑えた。 「まったくあなたの扱いには手を焼く。ヒャルメンダキル一世に仕えていた時もそんな調子だったのか。エルロンド卿から聞いたところ、あなたは随分と王の信頼を得ていたようだが、その様子では王にも叱られてばかりだったのかもしれないな」 「そんなことありませんよ。もう少し真面目でした。……あー、いえ、たぶんですけど」 「だったらなぜ今もしっかり働かない」 「だって元々、奉公する気なかったのですよ。交換条件で仕方なく。それにね、ソロンギルは知らないかもしれませんが、ゴンドールで私は目立つべきじゃないとガンダルフから忠告を受けたのです。此処には、あなたという素晴らしい世継ぎがいるのですから」 「スキラ、今その話は」 「アラゴルンが訊いたんです」 「わかったからその名を口にしないでくれ」  わしは聞き捨てならぬ単語を耳にした。アラゴルンのことではない。ヒャルメンダキル一世という王の名だ。彼はゴンドール最大版図時代の偉大なる王である。その臣下だったというのか? ならば彼女は何歳だ。少なくとも千五百歳はくだらぬ。父上はこれを知って彼女に奉公をさせたがったのだろうか。わしは、サウロン然り、スキラ然り、知らぬ間に古き存在が首をもたげ、か弱き人を巻き込んで悪夢のごとき時代へ突き進んでいるのだと気付いた。 「しかしいくら言っても分からないのだろうな。あなたは人ではないから、人の脆さがわからない」 「……アラゴルン、その言い方は」 「ここでその名を呼ぶなと言っている。スキラ、あなたは悪しき者がはびこり、善き者を破壊した時代をその目で見てきたはずだ。すべての時代を知る者として、責任がある。エルフの奥方やエルロンド卿と同じように。私もまたその重荷を分かち合う存在だ。だが、あなたがそんな様子では心許ない。どうか私を不安にさせないでくれ、我らが白き夜。あなたが隙をつけ込まれて敵に回れば、我々の損害は計り知れない。私は民を守るために率先して、反逆した竜を殺しに行くだろう。あなたはそれを望むか?」  柱の陰より二人を伺い見た。スキラは眉を八の字に下げ、いかんともしがたい表情で瞼を伏せた。拗ねている。ソロンギルはそれ以上追随せず、仲直りを促すように肩を叩いて踵を返した。  宿敵の背が遠くなるとわしは鬱蒼と姿を現わした。 「おまえはソロンギルに怒られるのがよほど好きと見える」  開口一番、嫌味が口をついてしまった。けれど、くだんの資料室の一件以来スキラに対して感じていた苦手意識はすっかり成りを潜めていた。だからこれはほんの挨拶だ。すると無言でわしに一瞥をくれるスキラ。傷ついた表情があまりに人間らしくて、弁解ついでに慰みの言葉を掛けてしまう。彼女がここまで意気消沈する様は経験がなかったのだ。  わしは彼女をこんな表情にした原因を心得ていた。 「おまえには人の脆さが分からない――か。ふん、随分と傲慢なものだ。王の世継ぎとやらは。しかしわたしは、おまえほど人間染みた人間は見たことがないが」  表情豊かで思っていることがすぐ顔に出る。責められれば落ち込み、苦労は出来るだけしたくない。それを堕落したドラゴンの性質と取るか、実に人間らしいと取るか、解釈は十人十色だろうが。 「人と呼ぶには差し障りがある。だがドラゴンと呼ぶには人に近すぎる。正体が分かった後でもわたしの頭を悩ませるとは、侮れぬやつだ、ニムダエ殿は」  どちらが本名なのか。わしは知らない。そもそも名など持っていないのかもしれぬ。だが、エルフ語の名で呼びかけてやれば、彼女はかんばせを輝かせた。 「本を見つけたんですね」 「まこと苦労した。もっとヒントをくれても良かったろう。だが父上がなぜおまえに拘るか理解できた。わたしは未だおまえの凄さを実感したことがないが」  理解できる日がくるのだろうか。人知を超えたところに彼女の凄さがあるのかもしれない。しかしスキラは豆鉄砲を食らったように呆け、 「私のすごさ、ですか。初めて聞きました。そんなものないですよ。ただ生きた時間が長いだけ。すごさといえば、デネソール殿やソロンギルのほうが上です。私は何もしていません」 「だが戦で決して怪我をしないのは、どういうことだ」 「それはすごさではありません。ただ身体が頑丈というだけ。危ないと思った時に身体の一部を竜に戻しているだけです。ドラゴンなんてそんなものですよ。本当の偉大さは、人間の中にある」  永き世を生き、歳を経た生き物は時に理解しがたいことを告げる。字面を読むのは容易く、真の理解は難く。寿命が違えば見える世界も違うのかもしれぬ。わしは不思議と悔しいと感じなかった。純然たる称賛に自尊心が満たされたせいだろうか。否、彼女が誰の味方でも、敵でもないからであった。すなわちソロンギル側の人間ではないことと同義である。  最もそれが全ての理由ではなかったが、わしはす、と右腕を差し出した。 「スキラ、わたしの副官にならぬか。良い話だと思うぞ。わたしはいずれ執政を継ぐ身だ。そうなればおまえも白き塔の大将として活躍できる」 「大将なんて恐れ多い。それに残念ながら、指導者的立場に立たないって条件でこちらに滞在していますから、お引き受けできません」  私はあくまで武力でいいんです。そう告げるスキラはさしずめ謙虚というよりは、億劫そうである。 「地位はしかるべき御方に与えてください。そのほうがみんな幸せだと思います。エクセリオン候の長子、デネソール殿」  父が崩御すれば、こやつはどこへ去るのだろう。わしはニムダエに、柊郷の愛すべき竜ではなく、白き塔の聖獣となり、我が治世を助くることを密かに望んだ。おそらくやつも分かっていたろう。居眠りばかりしているが、決して鈍感なやつではない。仄暗い欲望を掌に隠しつつ、我らは徐々に親交を深め、スキラは望み通り我が治世の支柱となってくれた。  しかし竜とは誰にも御せぬものなのだ。ある年の冬、裂け谷の旧友と会うと国を出たきりスキラは戻らなかった。消息はわずか一通の便り。訳あって戻れないと走り書きした紙切れ一枚である。それきり一度たりとも会っていない。生きているかも分からぬ。悠久を見通す魔法の石パランティアの力を以てしても、だ。  刻一刻と大いなる闇が迫っていた。サウロンの居城バラドゥ=ドゥアは再建され、灰色の魔法使いや北のドゥネダインが隠密に行動を始めている。さながら奈落のごとき暗黒を夏至の白き夜が覆い包むように――わしは愛すべき妻の墓の上で、孤独に夜明けを待ち続けておるのだ。

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