白蝶Chapter 0 白真珠・第二紀編
-灰色魔法使い-
第六話 慈しみの理由
「それで? グラウルングに誘われて、おぬしはどうしたのじゃ」 「どうって、別に。他に行き場がありませんから、彼の住処に居着きました。けれどそれも、彼が人間に殺されるまでの、ほんのわずかな間でしたが」 灰色ローブを纏ったわしはパイプを片手に、ゆるゆると瞼を開けた。目の前には人の姿をした妙齢の娘。濡れ羽色の髪に白く透き通った肌が浮き立っている。深淵な色を讃えた黒曜石のごとき瞳がわしを捕らえると、初めて聞く昔話にいささか狼狽してしまった。人々に竜として認知されるスキラが、遙か太古、人間だったという話は既に聞き及んでいたが、そんな経緯があったとは知らなんだ。魔法使いの賢明さを以てしても到底信じられぬ話である。知っていたらもっと早く手を差し伸べてやれたかもしれないと憐憫の視線を投げ掛けた。 「えー! スキラさん、彼は翼がなかったんですか。ドラゴンなのに!」 「ドラゴンがみな翼を持っているとは限らんのじゃぞ、ペレグリン・トゥック。翼のないやつもおれば、炎を吐かぬ冷血竜という種類もおる。最悪なのはアンカラゴンやスマウグのように翼を持つ火竜だが、すべからくドラゴンという種族が、我々に大いなる脅威をもたらす存在であることは間違いない」 小さき人々は仲間の昔話に夢中になっていた。彼女は子供へ童話を読み聞かせるように、ホビット達の反応を逐一確認しては、心に残る思い出をかみ砕いているようじゃった。 「不思議だと思いませんか。流れ去った日々のことは忘れてしまったのに、私を拾った金色の竜のことだけは、すべてはっきりと覚えてるんですよ」 「当然でさあ。それだけ恐ろしかったんでしょうよ。オークだけでも吐き気がするのに、化け物の始祖と対峙するなんて……ああ、おらはこの先ドラゴンとなんて遭遇したくねえだ」 まさにその噂の生き物と話していることも忘れて、サムはぶるると身震いした。だが彼女は特に気分を害した様子もなく、六十年前の旅へ思いを馳せた。 「サムが恐れるようなことには、ならないと思うけど。生き残っていたスマウグも倒された訳だし。でも、恐ろしい……か。どうかな。彼への印象は、恐怖とはちょっと違ったかもしれません。そりゃ実験だと言って嫌なことも沢山されました。趣味の悪いことに、私が泣くと喜ぶんです。人間はこうされることが嫌いなのか、大変勉強になる、と。だけど最初の出会い以降、彼を恐ろしいと思ったことはありませんでした」 彼女は己の納得し難い感情を探るように首を捻った。するとわずかに落ちた沈黙を破って、緑葉のエルフが問い掛ける。 「彼が住むナルゴスロンドの土地といえば、今でいうモルドールのような場所だろう。人間なら空気を吸うだけでも有害なはず。なのに、あなたは逃げだそうと思わなかったの」 ナルゴスロンドとは、かの竜が滅ぼした国である。やつは土地を奪った後、財宝を全て数え上げ、奥の広間に積み上げて寝床を作ってそこに棲み付いた。だが竜がスキラを通して人間について学んだと同じく、彼女もまた竜と暮らして様々なことを学んだ。彼女が竜の住処で自由に使えるものは皆無だったが、ただひとつ。財宝に紛れて散らばる本だけは触ることを許された。幾多の言語を操り、高度な知能を持つグラウルングにとって書物などほとんど無価値に等しかったのだ。 「ひょっとしたら逃げられたかもしれません。でもあの時代は、サウロンよりもっと強い冥王が世界を支配していました。そんな中で、とうてい私一人で生きていけると思えません」 それに、と言い淀む。 「毒で苦しんだのは、彼が自分の意志で毒息を吐いた一回だけ。後は問題なかったんですよ。耐性が出来たのかも」 すると「羨ましいな。私も耐性出来るかな」と、レゴラス。 「エルフは元々丈夫でしょう? 必要ないんじゃないですか」 「そうだけど、ドラゴンの毒となれば話は別だよ。もしあなたも毒ガスを吐けるなら、一度やってみてくれないか」 「本気で言ってるの、レゴラス?」 「まさか。冗談だよ、みんなを危険にさらすようなことはしない」 「驚いた。まあ本気で頼まれても毒ガスなんて吐けませんけど」 「あはは、それじゃ頼み損だ」 彼女は頭上から聞こえる陽気な声に、肩を竦めた。 毒といえば昔、裂け谷の主から小耳に挟んだことがある。グラウルングは火や呪いだけでなく、毒息も吐くと。同じ眷属の術ならば人間に害が及ばぬよう防ぐことも容易かったろう。 しかしその折り、ふと、フロドが思い出したように口を差し挟んだ。 「でもそのドラゴンは冥王の僕だったんでしょう。冥王に見つかってしまわなかったんですか」 彼らしい質問だ。なにせ、わしらの旅は「いかにしてサウロンに見つからず事を運ぶか」が最重要である。フロドはわしと視線が絡まるなり、魅惑的な瞳を恥ずかしそうに伏せた。 「私も最初は、見つかってしまわないか毎日びくびくしていましたよ。けれどグラウルングはひた隠しにしていたようです。お陰で、彼が死ぬまでなんとか生き繋ぐことが出来ました。グラウルングはあまりに早く逝ってしまったため、彼を隅々まで理解する時間はありませんでしたけれど。……あれは竜なりの愛だったのかなあ」 わしは人間より何百倍も長い間、中つ国をさすらって来た身である。だが竜が人間に愛を示すなど聞いたことがない。やつらは例外なく他種族を見下しているのだ。だから仮に、敢えてグラウルングの行動を推し量ってみるとすれば、それは竜特有の所有欲が原因だったのかもしれぬ。なにせドラゴンは一度手に入れた宝は死んでも守る種族である。 しかしスキラを拾った黄金竜のふるまいは、親が子を守るように、少なからず慈しみが込められていたように思えてならなかった。ならば、それを愛と呼ばずなんと呼ぼうか。 「でも、スキラさん、そうだとしたらかなり歪んだ愛ですね。わが子のように慈しんでおいて、死ぬ間際に呪いを掛けるなんて。普通なら、大切に思っているわが子を苦しめるなんてしませんよ。ええ、そうですとも、僕なら絶対にしません」 「……ふうむ。そうじゃろうか」 賢いメリアドクの疑問を受けて、さながら指揮棒のごとく、わしは杖を振るった。 「やつの行動は実に竜らしいと思うがのう。ギムリは重々承知じゃろうが、ドラゴンの所有欲は人やエルフ、ドワーフの比ではない。手に入れた金銀財宝は墓まで持って行く。さて聞くところによると、黄金竜はスキラを己の所有物と考えている節があったようじゃが……違っただろうか、スキラ」 「ええ、おそらくは」 スキラの頷きを得、改めて旅の仲間の面々を見回す。今や、グラウルング直伝の高い魔力によってのみ人の姿を保っているスキラ。彼女を取り囲むようにホビットが四人、真上の木には緑の服に身を包む闇の森のエルフ、火番をしながらこっそり盗み聞きしているに違いない筋骨逞しいゴンドールの大将と、やや距離を置いて静かに岩へ坐す孤高の野伏。そして、わしを除いては、この面子の中で最もスキラと親交が深いであろう山上の王国のドワーフ。みながみな、嫌々ながら旅に加えられた娘の昔話へ耳を傾けていた。 「ガンダルフ? 所有欲があるからどうだっていうんですか」 「ピピンよ、お前のような年若に親心を語り聞かせるにはまだ早いじゃろうが、まあ……勉強になるじゃろう。よいか、やつは死に間際、呪いを掛けた。自分の代わりにスキラをドラゴンにする、残酷な呪いをな。じゃが、そうすることで、相手はグラウルングを決して忘れられない。スキラの意識の大半を、一生グラウルングが占めるのじゃ。これこそ所有欲の本質というものじゃろう。ドラゴンは一度手に入れたものを決して手離しはしない。そう――スキラの言葉を借りれば、それがやつにとっての愛だったのじゃ」 一同は鎮まり返っていた。若者達は理解しがたい表情を浮かべていたが、当の本人は自明のことのように笑った。身の上だけを聞けば不運この上ない。しかし、嘆くとも異なる、不思議な感情が魅力的な横顔を駆け抜けたのを認めた。 「つまり子離れできない親というわけか。厄介な養父を持ったものだ、スキラ殿も」 「困ったものだな。お互いそのような親にはなりたくないものだ」 身に覚えがあるのか、ボロミアのぼやきは深い影を内包していた。同意するようにアラゴルンの嘆息が続く。しかし二人は同時に何かを思い浮かべたと見え、微かに赤面した。 ――裂け谷を出て一週間。出発当時とんとやる気のなかったスキラも、徐々にこの旅へ興味を持ち始めている。良い兆候に安堵して、わしは黒髪のおなごを手招いた。彼女は意図を察するや否や、丸々太った白い蛾へ姿を変え、わしの杖で羽を休める。 「スキラよ、今夜の見張りにお付き合い願えるかな」 「いいですよ。どうせ昼間はガンダルフの頭の上で寝てますから」 普段、白い蛾の姿で身を隠しているスキラは、明るい調子で言い放った。 「寝てるじゃと? わしは様々な者と旅をしてきたが、お前さんのようにてんでやる気のないやつは初めてじゃ。力持つ者として、ちっとは自覚を持つべきだと、いったい何度……」 「あー……ミスランディア? ビルボと旅を始めた時も同じ台詞言ってたの、覚えてます?」 「互いに変わっておらんということじゃよ」 気が抜けた会話に呆れ返る。 冥王の残党、および滅ぶべき種族に慈しまれ、ドラゴンと人間の狭間を揺らめく儚き生き物。存在だけで判断すれば暗黒側に所属しているスキラは、我らの厄介な旅にまったく乗り気ではなかった。だがこの第三紀が始まったとき、初めて出会った彼女の面影を見た瞬間に、天啓とも似つかぬ直感が舞い降りたのだ。彼女は闇の陣営に足を踏み入れてなお、彼方向こうの西国から星々の寵愛を受けているのではなかろうか、と。 さもなくば、上古より幾たびも訪れた濃い闇の時代にどうして正気を保っていられよう。真っ先に指輪にとりつかれるであろう立ち位置に身を置きながら、善き民とこうして並び歩けること――それこそが彼女の最大の謎であり、わしが慈しむ理由であった。
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