白蝶Chapter 1 Hobbit編
-バギンズ-
第八話 バギンズ氏の悩み
「お加減はどうです、ビルボ」 ホビット庄の名士である由緒正しい血を引く、ビルボこと私を、野菜売りだの盗人だのと言いたい放題なドワーフたち。彼らがガンダルフに率いられ、我がバギンズ家の丸扉から雪崩れ込んだ日のこと、私は異質な佇まいをした、ひときわ小柄な女性へ目を留めた。 瞳には爛々たる星空。高く結わえた黒髪が肩に垂れ掛かり、しどけなく広がる裾は、夜空に広がる光の川のごとき見事な濡れ羽根色をしている。異国風の顔立ちをした彼女は私やドワーフと同程度の背丈をしていたが、すぐに、人間かそれに類する種族だと気付いた。つるりとした肌はドワーフのように髭だらけでもないし、華奢な身体付きをしている。かといってホビットのように耳は尖っておらず、兎のごとき足もない。その女性はまごうことなく、ブリー村に住まう人間と同じ姿をしていた。 「うーん、少し後頭部が痛いかな……」 「そっか。倒れた時に頭を打ったのかもしれないですね。冷やすといいですよ」 「ああ、どうも。えーと……あなたの名前はなんでしたっけ」 「スキラです。魔法使いの古い友人の」 「ああ、そうか。そんなようなことを言っていた気もする」 訪問者の人数が多すぎて覚えられない。とは、ご本人達の前で口が裂けても言えまい。しかし、かの人の名前は不思議な響きを帯び、鮮やかに脳裏へ焼き付いた。遠国の出なのか。交流の中心地として栄えるブリー村でも滅多に耳にせぬ音だった。 スキラは銀縁で飾った白練りの内着を首元まできっちり詰め、映える黒髪を、あたかも少年のように緩く結わえていた。見慣れぬ造形のせいか。格別美人でもないが、土埃にまみれた外套でも覆い隠せぬ清冽さが印象的で、さながら冬初めに舞い降るホビット庄の初雪である。私は氷のように透き通ったスキラの側が大層心地良く感じた。 「たんこぶが出来ていますね。でも血は出ていないから、安静にしていれば大丈夫。他に痛むところは?」 「いや、ないよ。ありがとう」 手渡された契約書を読んだ所までは覚えている。だがその後、想像を絶する旅の内容を聞いて失神したようだ。我ながら情けない。しかしあんな内容を聞かされれば誰だって気絶するに決っている。だって、ドラゴンの猛火で消し炭になる? 爪で抉られてはらわたが飛び出る? とんでもない! 生きて帰れぬ確率のほうが高いのは明々白々だ。ならば、ドラゴンになんて近づかないほうが賢明だ。 だというのに、どうしてドワーフたちはわざわざ危険な冒険へ出立したがるのだろう。故郷を取り戻す前に命を落としては元も子もないじゃないか。彼らの夢は、安穏とした暮らしを愛するホビットには理解し難いものだった。 「私は絶対にドラゴンと関わらないぞ。あんな、おぞましいもの。考えるだけで身の毛がよだつ」 私は半ば自分へ言い聞かせるように口走った。その呟きを耳にして、氷嚢を作るスキラが振り返った。沈着な面に読めぬ感情が駆け、一瞬切なそうに歪む。あ、失言だったか――咄嗟に口を押さえるも、杞憂だったらしい。スキラは唇で薄く弧を描き、私の手当てを再開した。今の今まで氷に触れていたせいだろうか。額に当てがわれたスキラの指は凍てつくように冷たい。 「ん? あれ? 氷?」 その時ふと気付いた。我が家に氷などあったろうか。この季節は霜降り山脈やそれに類する氷山まで出掛けないと氷を入手出来ない。そのため、山へ赴いて氷を手に入れる側も、客に売りさばく側も、余計な労力を使う。しかも溶けてしまっては元が取れないので、すっかり春めいた季節の氷は一部の金持ちが求める贅沢品として扱われ、目玉が飛び出るほど高額だった。私は冬以外氷を常備していなかった記憶を掘り起こし、不思議に思った。 「ねえスキラ、この氷はどこから持ってきたんだい? 今時期のホビット庄じゃ氷は手に入らないよね」 「あー……ここに来るついでに、ちょっと」 酒盛りするならみんな氷を欲しがると思ったんだ、と彼女は口を濁した。事実、揺椅子の脇、気付け用の酒として置かれたグラスに冷涼な氷が浮いている。この季節に冷えた飲み物を嗜むことはついぞなかったため、私は物珍しそうにグラスを眺めて、頬を緩ませた。 「嬉しいね。雪が溶けた今時期こそ、冷たい飲み物で乾杯したいもんだ」 「そんなに喜んでくれると思わなかった。また欲しいなら、持ってきます」 「だったらその時は、こんな形じゃなくてもっと丁重におもてなしするよ。本当はね、客人とお喋りするのは好きなんだ。今日は……ちょっとあれだけど。ドワーフが居ない時なら大歓迎だから、ぜひまた来てよ」 「もちろん。だけどドワーフだって慣れると良いひとばかりですよ」 「へえー。私の家を荒らさないでくれたら、認めてもいいですよ」 スキラは本人に代わって弁解し、自分も先月までドワーフと何も接点がなかったのだと語った。私たちはつれづれなる談笑に花を咲かせ、物騒な冒険譚を忘れて楽しい一時を過ごした。今日の会合について、ガンダルフのちょっとした悪口、ホビット庄の収穫話。一言一言交わす度、私と彼女は近しい面を持つと気付いた。それは安泰を望み、美味しい食事をなによりも楽しみとし、植物や小動物を愛でる――歓迎せざる客、荒々しいドワーフたちには通じぬであろう平和を愛する心だった。 「今日の会合はあなたも招集受けて来たの」 「ええ。ミスランディア――ガンダルフに呼ばれて」 「付き合いの長い友人なんだっけ。苦労しそうだね」 スキラは女の身で旅に出るつもりなのだろうか。頑強なドワーフたちでさえ恐れるドラゴン退治に。帯刀している以上少なからず戦えるのだろうが、目的地は遙か東である。こんな華奢な女性が長旅に耐えられるのか怪訝に思いながら、疑問を悟られぬよう濡れ布巾をいじった。 なぜドワーフでもない彼女が危険な冒険へ飛び出すのだろう。どうしてガンダルフは彼女を指名したのだろう。スキラは私が旅の仲間に選ばれたことも知っていたのだろうか。絶え間なく浮かんでは消える疑問。いずれも彼女に関することばかりで、私は抑えられぬ好奇心を抱いた。 その折、隣室と繋がる丸穴からトーリンが姿を現した。 「スキラ、今良いか」 太く毅然とした声。ドワーフ王ならではの威圧感を漂わせ、彼は腕組みをして壁へ寄りかかっていた。胸を射貫くまなこが、しかとスキラ捕らえる。女は居ずまいを正し、静かにそれを受け止めていた。 「トーリン、どうかしたんですか」 「そろそろ返事を聞かせてくれ。我々と共にスマウグを打ち倒す旅へ出るか」 「……嫌だと言い張ったところで、ミスランディアが聞く耳持つと思います?」 「では、了承したと判断して良いのだな」 スキラはどこか困ったように肩を竦める。トーリンはそれを肯定と受け取り、不遜に口角を上げた。 「ものぐさな態度は不安要素ではあるが、ガンダルフの言うことが本当ならばお前の存在は心強い。我が一団に歓迎しよう。ドラゴン討伐の専門家、スキラ」 「ありがとう……肩書きは余計だけど」 「それは共に旅をすれば分かることよ。契約書にサインすることを忘れるなよ。書いたらバーリンに渡せ。私はあちらにいる」 二人は多少なり気安い関係に見えた。出会い頭から私へ向けられていたトーリンの刺々しさは、馴染みある友人との親しみに変化してスキラへ注がれる。私は理不尽さと疎外感を感じた。彼女はドワーフと種族が相異なる。だからホビット〈部外者〉である私と、この場では同じ立場だと勝手に決め込んでいたのだ。 ――であるのに。どうしてだろう。契約書にサインする白い横顔に、名状しがたい思いが滲んでいるのは。私と違ってスキラは対等に扱われているのに、どこか気鬱そうで、心ここにあらずであった。 「ねえスキラ? 何かあったの。なんだかとても……」 言いさして、不意に、部外者が立ち入ったことを聞くべきでないという思考が脳裏を占める。なるほど、ドワーフたちは慣れれば心を開いてくれるかもしれない。しかし彼女は、決して触れることの出来ぬ禁断の領域を持っていた。 そもそも、「ガンダルフの旧友」とはどれほどのものなのだろう。ガンダルフは私が生まれた時代から既に老人の格好で中つ国を彷徨っていた。だがスキラはぱっと見、年若い。対談すればしっとりした落ち着きを持つ大人の女性だと分かるが、内面を考慮しても、良くて二十代前半の姿だろう。その彼女が言う「旧友」とはどれほどの尺なのか。スキラは人間の枠に填めたままでは推察出来ぬ謎を秘めていた。君は本当に人間なのか、と己の胸中のみで問い質す。 「スキラ、君は、ほんとうは行きたくないの?」 しかし、代わりに口をついて出たのは、まったく違う問いだった。彼女は目を瞠り、羽根ペン片手に勢いよく面を上げた。その拍子に黒髪がそよ風に靡き、同色の瞳と奇妙な呼応をする。瞳孔が獰猛な光を放った。私は夢心地で、もしドラゴンに出会ったら、彼らの瞳はこんな風だろうかと思い描いた。 「ビルボ。どうしてそう思うんですか」 「なんだか面倒くさそうというか、億劫そうに返事していたし……それに、君は私と似ている気がしたから、平穏に暮らしたいんじゃないかと」 差し出がましい口を利いたことは重々承知である。先の会話が事実ならば、スキラは私が心配するまでもなく強い人だ。だが嫌々ながら危険な旅に出掛ける相手を放っておくことが出来なかった。私も強引に旅へ連れ出されそうだったから、妙な仲間意識が働いたのである。 スキラは視線を床に這わせ、散々迷った後、ひっそりと呟いた。 「私は……ドラゴンは、みんながみんな悪い訳じゃないと思って」 「つまり、討伐すべきじゃないってこと?」 「いいえ、そういうわけじゃない」 むしろスマウグは倒すべきだと主張した。それでも、どこか歯切れが悪かった。彼女はサイン済みの書類を見直し、老臣へ提出すべく踵を返す。だが穴を潜ったところで、つと立ち尽くし、鷹揚に上半身を捻った。 「そういえばビルボは付いて来るの。忍びの者と伺っていますが」 「えっ私? そんなまさか行くわけないよ。痛いことは嫌だし、袋小路を離れるなんて考えられない。ガンダルフが一人で言ってるだけだよ」 「そっか」 一緒なら楽しそうだと思ったのに。スキラはそう告げて、振り向きざまに笑った。入れ違いに灰色の魔法使いが入ってくる。私は揺椅子へ座したまま、とんがり帽子の老人を仰いだ。気もそぞろで、我知らず、氷の入ったグラスへ熱い紅茶を注いでしまう。すると煎れたばかりなのか、それは湯気が出るほど高温だった。 私はいつまで経っても、皆目、溶ける気配のない氷を眺め――ガンダルフの長い長い小言に歯を食いしばって耐え忍んだのだった。
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