白蝶Chapter 1 Hobbit編
-バギンズ-

第九話 芽吹く疑念

 あの屈辱、あの憤り。決して忘れはしない。そう語るドワーフに紛れ、今日もあの女性は飄々と険しい旅路を進む。忍びはおろか、泥棒さえしたことがない平和ボケした私に、ビルボ、と名前で優しく声掛けしてくれるのはスキラとガンダルフくらいなものだった。  急げバギンズ。遅れるなバギンズ。ドワーフの王に由緒ある苗字を呼ばれるのは悪い気分ではない。だがそこには「貴様なぞに胸襟を開くものか」という固い決意がひた隠しにされているようで素直に喜べなかった。ドワーフたちの中に敵意とも異なる、内なる鉄扉を見出した私は、必然的にスキラの側で過ごすようになった。  かくいうスキラは不思議な人だった。塵芥が舞い散る石畳を疾走しようと、種々の花粉が飛び交う森林を通り抜けようと、艶やかな黒髪は埃にまみれることなく白夜のような柔肌の側で薫風と戯れる。そして、どうしてだろう、私を優しく見守る瞳はさながら黒檀、まろやかな宵闇と化した深き水底からこちらを伺う水蛇を彷彿させるのだ。  だが恐ろしくはない。私はいつも、冷然とたゆたう水藻を掻き分けた向こうに、金箔をまぶした可憐な花々を見出すのだから。ああ、あれを彼女に渡せたらどんなに良いか。恋煩いと一線を画した、エルフに対する憧れに近い感情が湧き上がる。そう、スキラは「人」ではない。私はホビット独特の細かな観察眼で早々と見抜いていた。スキラはたぶん、もっと綺麗な、我々が抗うべきドラゴンからほど遠い――。  不可解なことに、この道中、彼女を女性と扱う者はいなかった。ガンダルフはともかく、ドワーフ達は本当に気付いていないのだろうか。スキラ自身に問うてみると、ドワーフ族の女はみな男のようだ、だから多少他種の男が女っぽくても見分けがつかないのだろうと返ってきた。 「そういうものかな」 「うん、そういうものじゃないかな」 「ふうん。スキラがそれでいいならこれ以上何も言わないけど……。でも君って、暢気だよね」 「そうかな。ビルボには負けると思うけど」 「えっ。どうしてだい」  何気なく訊き返すと、彼女は口の端を緩めて自分の細剣の柄をつついた。 「だって剣も扱えないのに、この危険な旅に同行しようと決めたんですから。正気じゃないと思われてもおかしくないでしょう、マッド・バギンズさん」  頭がおかしいのはドラゴンと対峙しようと目論むドワーフも同じだ。そう言いさして口を噤んだ。ただでさえ肩身が狭いのだ。自分の立場を悪くする発言は控えたほうが身のためだぞ、と門出に魔法使いから受けた助言を反芻して、自らを戒めるように勢いよく飲み込んだ。いま何を言いかけたか分かっている。そんな表情でにやにやする彼女の横顔に、真の忍びらしく、死角から丸々した木の実を投げつける。しかし易々と躱されてしまった。絶対にこちらを見ていないと思ったのに。たわいないやり取りの間にもスキラの謎は深まるばかりであった。 「おいバギンズ。よそ見していると仔馬が足を滑らせてお前ともども転倒するぞ」  しかし仕返しをするどころか、別方向から指摘を受ける始末である。その日、ホビット庄から続く平坦な土地を抜け、樹木が生い茂る山道へ入った私は、馬毛アレルギーに疼く鼻を押さえ、重責を背追って岩肌を上る健気な仔馬を励ました。 *  盟友スキラに関してさらなる興味深い発見をしたのは、幾日も経たぬ夜半のことだった。その日はいつものように魔狼の呻きがどこからともなく聞こえ、トーリンの神経を高ぶらせていた。一方で私も、前夜に老ドワーフが語ったナンドゥヒリオンの合戦、ドワーフとオークの壮絶な戦いを想像し、寝付けずにいた。  オーク、エルフを堕落させて作り出された醜悪な化け物。  ドラゴン、七千年以上昔に悪の化身として冥王に寵愛された傑作。  トーリンはこの旅路で、諸手に剣を握り締め、双方の敵をなぎ倒さんとしているのだ。ドラゴンだけでも望みは薄いのに、どうしてオークまで相手にしなければならない。けれどトーリンとオークの間には因縁がある。現実になってしまったらどうしようと毛布にくるまり寝返りを打った。  私は当然ダメだ。戦えない。だがスキラはどうだ。本当に強いのだろうか。そういえばエルフや妖精の類いは人間種の何倍も強靱という。だから大丈夫か。いや、しかしあんな細腕で本当にドラゴン討伐なんて――などと堂々巡りを繰り返す。その折りだ。見張りをしていたボフールがスキラに見張り交代を告げ、寝床へ入った。  私は冴えた頭で耳を澄ませる。遠目に、スキラが大口開けたまま眠りに落ちるドワーフ達の脇を通り抜けて薪に当たる姿が見えた。今晩のお供は灰色の魔法使いとバーリン――ドワーフ唯一の白頭、穏和な老戦士は剣の扱いに優れ、トーリンが最も頼りとする重臣である――らしい。彼女が音もなく座すると、ガンダルフは書物に目を落としたまま人差し指を上げた。 「おおスキラ、丁度良かった。お前さんに訊きたいことがあってな。どうもこのごろど忘れが激しくていかん」 「ミスランディアはお年を召していらっしゃいますから」 「なんじゃと。わしはまだそんなに老いぼれておらんぞ。そもそもこの身体は中つ国に来る時にやむなく」 「あー……それで。何を訊きたいのですか」  とうとうと語り出さんとする老爺を遮ってスキラが問い返す。彼は、ああ、と我に返ってパイプを握り直した。 「ドラゴンについてじゃ。この書物に、ドラゴンは水を厭うと書いてあるが、専門家の意見を伺いたい」 「水ですか。おそらく、その書物の通りだと思います。竜の始祖グラウルングも水を嫌っていました。その後冥王によって改良された竜が産み出されたのでなければ、ほとんどのドラゴンは水を苦手とすると考えて良いと思います」 「ふむ。一体を除き、じゃな。中つ国の水には水神ウルモが宿っておる。そのせいと考えて良いじゃろう。しかし水を嫌うからといって、それでドラゴンを倒せるとも思わん。なんとかしてスマウグに効果的な対処法を編み出したいものじゃが……」  魔法使いはぱふぱふと煙を吐き、眉をしかめた。バーリンが二人の問答を興味深げに眺めている。老ドワーフは感慨深く頷き、 「賢人ガンダルフが知恵を請うとは。お前さんの年でそんなに物知りとは驚きじゃ。スマウグも倒せる気がしてくる」と目尻の皺を深めた。 「ほっほっ。スキラはわしの何倍も物知りじゃよ。わしは尋ねてばかりじゃ。これでやる気があれば言うことなしじゃが……まあ今回の旅について来ただけで良しとしよう」  私も含めこの中つ国で魔法使いが物知りだと知らぬ者はいまい。そんな彼が次々とドラゴンについて質問を浴びせ、口ごもることなく答えを与えていくスキラを認めると、「ドラゴン討伐の専門家」という肩書きも重みが出る。しかし、あんな年でなぜドラゴンを討伐するようになったのだろう。老爺二人とうら若い女性の奇妙な組み合わせを眺めているうちに、ガンダルフの当番が先に終わり、いつしかスキラとバーリンだけが燻る薪を囲んでいた。  山道から見下ろす水平線が刻一刻と白む。夜明けまでわずかである。とその刹那、一際大きな魔狼の遠吠えが響き渡り、警戒する面々を余所に「少し見回って来ます」と億劫そうにスキラが立ち上がった。そして彼女の独特な気配が葉叢に消えるや否や。おもむろにトーリンが姿を現わした。常にもまして渋い表情である。寝袋越しに彼と視線が絡まり、私は思わず肝を冷やしたが、その心配は杞憂に終わった。彼の矛先は私なんかではなくもっと別の人物へ向けられていたのだ。 「バーリン、スキラはどうした」 「ああトーリン、おはよう。あたりを見廻りにいったよ」 「一人でか? 危険ではないのか」 「大丈夫じゃろう、ガンダルフのお墨付きじゃ。まったく感心するよ。あんな細い体で、足手まといにもならず、遅れることなくよくわしらに付いて来ている」 「当然だ。これくらいで弱音を上げるようでは旅に参加する資格はない。ましてやドラゴン討伐の専門家などと名乗れるはずもない。……もっとも、その肩書きが真実か、定かではないがな」  トーリンの台詞が私へ向けられた婉曲的な皮肉に聞こえたのは、単なる被害妄想だと思う。そうに違いない。先ほどから毛布の下で仔馬に食わせる林檎を磨いていた私は、出来るだけ自分の存在を消しつつ寝袋から這い出た。二人のドワーフはこちらを一瞥しただけである。彼らは部外者同然の私へ注意を払うでもなく、囁き続けた。 「バーリン。本当にあんな小僧がドラゴンを退治できると思っているのか。豪腕のドワーフでさえ難しいことを、たかだか細い剣を振るえるようになった程度の小僧が、成し遂げられると思うほうが間違いではないのか。第一……ドラゴンの専門だと? やつは本当に専門と名乗るほどドラゴンを滅ぼしたと思っているのか。私はそうは思わん。憎きスマウグと出会って百余年、中つ国でドラゴンが討たれたなどという噂は聞いたこともない」  ドワーフ王は遠き故郷に居座る竜への憂さ晴らし宜しく、スキラやガンダルフといった、よそ者への不満を縦糸を伝う水滴のように喋喋とぶちまけた。しかし、その心痛煩う彼の独白は私を驚かせた。袋小路屋敷で垣間見たスキラとトーリン、二人の間柄に対する認識を百八十度ひっくり返す内容だったのだから。  ――トーリンは、彼女を信用していないのだ!  私はどんな表情をして突っ立っていたのだろう。血気盛んな王の小言に肯いながら、もう少し様子を見るべきと諭すバーリンが呆然とする私へ苦笑を投げかけた。その瞳には老いゆく者の慈しみが宿っていたが、同時に密告を許さぬ厳しさ、聞き耳を立てる私を見逃す代わりに共犯者となることを強いていた。  こんな時、平和至上主義のホビット族ならどうするか。訊かずとも分かっている。何もせず黙っているのだ。だが私の内へ流れる先祖の血がそうさせたのだろうか。それとも、出会ってまもない頃から良くしてくれた友の名誉を回復したいという、なまなかな正義感がそうさせたのか。私は脳裏を過ぎったある考えを隠しきれなかった。 「でも、スキラが人間でなければ可能かも」  私のささめき言に二人の動きが制止した。豊かな髭を持つドワーフ王、彼は尊大に顎を持ち上げ、すぐさま反応を示した。 「どういう意味だ。バギンズ。何か知っているのか」 「い、いや、なんでもない。なんでもないよ。ただの想像だ。変なこと言ってごめん」 「嘘を吐くな。やつが人間でなければなんだ。ドワーフだとでも言う気か。笑わせるな。あんなひょろひょろした男がドワーフなど認めん。ドワーフは豪快で、逞しく、勤勉だ」 「ええと。そりゃまあ、私もさすがにドワーフだとは思わないけど……」 「では何だというのだ。ホビットか? ふん。それなら頷けるな。だが食べ物のことばかり考えている野菜売り族がドラゴンなど倒せるはず――」  不意に、トーリンは押し黙り、瞠目した。どうにかして声を出そうとするが、言葉が出てこない。そんな体で剛毛の口髭が震え、老ドワーフとホビットを代わる代わる見詰めると、突如、安らかな寝息を立てるガンダルフに憎悪の牙を向けた。 「エルフか……!」  絞り出されたのは悲愴な呟き。トーリンは食いしばった歯の隙間から辛うじて息を吐き出した。傍らで見守っていたバーリンも主の思考を理解し、 「ドラゴンを倒せる存在。だが人間ではない。ドワーフでも、ホビットでもない。となると、残るはエルフ……ということかね」と声を低めた。  私は二人のドワーフから不穏な色を読み取った。ああそうだ、失念していた。ドワーフとエルフは仲が悪い。だのに彼女がエルフかもしれないなんて、証拠も何もない不確定な情報を流して良い結果を望めるはずないのだ。まずいぞ、これは宜しくない。非常に、宜しくない。私は事態を悪化させてしまったことに気が付き、血の気が引いた。 「バギンズ。そういうことか。お前は、スキラがエルフだと言いたかったのだな」  煮え湯を飲まされたと内に渦巻く怒りの矛先を私へ向けるトーリン。私は友のため、なにより私自身のために、慌てて弁明をした。 「いや、そうじゃない。私は別にスキラがエルフだなんて言っていないよ。あの人は人間さ。間違いなく。だけどとっても強いから、人間なのに人間らしくしない……って意味で、人間じゃないと言ったのであって……」 「ではお前は、スキラはエルフではないと言うんだな。確かか」 「た、確かさ。もちろん。私はエルフに会ったことないけど、でもほら、耳だって尖ってないし、エルフはもっと上背があると聞いたことがあるし」  何を口走っているのか。ただ、彼女の足手まといになりたくない一心で「スキラはエルフじゃない、本当に違うんだ」と繰り返す。私は強く助けを願った。だが中つ国を作り給う神は、時にいたずら心を起こすもの。私を救いに現われた救世主は、高く結うた黒髪、銀装飾を施した白衣に身を包んだスキラその人だった。 「バーリン、あたりを見回ってきましたが特に問題ありませんでし……あーっと。お取り込み中……?」  踵を返さんと身を捻るスキラ。待って行かないで。いややっぱここに居ないで。このまま置き去りにされれば私はトーリンに八つ裂きにされてしまう。だが渦中の人物に話を聞かれたくないのも確か。板挟みになりながら目で訴えた。すると何かを察したスキラの瞳孔が、やにわに鋭くなった。そうして、思い出すのだ。そうだ、この眼だ。彼女が人間ではないと確信した切掛けは、と。  眼力だけで哀れなホビット一人殺せそうなトーリンは、疑り深い視線の矛先をスキラへと変えた。王は容疑者の行く手を阻み、耳を、眼を、顔立ちを査定する。そのまま二人が見つめ合うことしばし。奇妙なことに、スキラを品定めする間、彼の傲慢さは成りを潜め、一族を率いる王たる責務、一文字に結んだ口元から滲み出る慎ましやかな威厳が彼を包み込んだように思えた。翻って、彼女の表情からは何も読み取れない。だが独特な面立ちはトーリンを安心させるに足りたらしい。彼は罰が悪そうに視線を逸らし、「いいだろう。バギンズ。信じよう」と背を向けた。  トーリン同様、エルフに対し敵愾心を持つはずの老ドワーフが胸を撫で下ろす様は滑稽であった。しかし彼としても穏やかに旅を進めたいのだろう。どこか雰囲気が丸くなった広い背中を眺めつつ、私達は深い溜息を零した。バーリンは仲間を叩き起こす主を見守り、 「まったくどうなることかと思ったわい。ミスター・バギンズ、トーリンにエルフの話題は禁物じゃ」 「私はエルフだなんて一言も。言い出したのはトーリンですよ」 「それだけ敏感ということじゃ。しかし、もし……本当にそうだとしたら――違うと信じているが――我々は今後一切、彼の協力を拒否すると、それだけ伝えておこう。いいかね、忍びの者よ。今夜話したことはガンダルフや本人には秘密じゃ」  用心深く念を押し、トーリンを手伝いに去る老戦士。傍らで大人しく控えるスキラがいたわしく思える。彼女は小首を傾げ、私の肩をそっと叩いた。 「えーと。ビルボ。今の、何があったか訊かないほうが良いんですよね」  彼女は地獄耳でもあるらしい。バーリンの言葉を受け、スキラは深く追求しようとしなかった。他の誰でもない、彼女に関する話だったと分かっているはずなのに。宥めるようなスキラの微笑み、私は羞恥で頬を赤くした。冷たい掌がホビット族の巻き髪を掻き回す。私はこの白い手に助けられてばかりだ。そして自分が旅を決意したのは、ドラゴンよりもなによりも、不可思議な彼女の存在に興味が湧いたからだと気が付くまでそう時間は要しなかった。  うなじを垂れ、淡青色が交じる白きニフレディルの花々のように、浮き世離れしたスキラの正体を知る日は訪れるのだろうかと、私は自問自答し続けたのだった。

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