白蝶Chapter 1 Hobbit編
-フィーリ-

第十話 風雲報せし

「キーリ!」  腐臭に咽せるドワーフ一行に緊迫した空気が走る。仲間内で最も年若い、弟の名を叫ぶトーリン叔父上の急いた声色が洞窟に響いた。フィーリ、行ってはいかん。そう俺に制止を掛けるガンダルフを振り払い、洞窟から這い出すと、しんがり勤める弟キーリを恫喝する叔父上がいた。 「キーリ、深追いするな! オークが来る! 早く洞窟に入れ!」  間髪入れず、俺も加勢すべく剣を取る。弓の名手である弟は叔父上譲りの黒髪、溌剌とした青年だった。そんな珠玉をこのような場所で散らしてなるものか。兄弟の絆を護る兄貴として、トーリン叔父上の後継者として、俺は勇ましく踏み出した。  しかし、だ。出鼻をくじかんとするように、オークの弓矢が雨あられと降り注ぐではないか。赤みがかった俺のブロンドが一房四散する。おっとり刀でキーリの無事を確認すると、さすがは叔父上の甥。あいつは矢の雨をことごとく剣で弾き落としたようだった。そのままキーリは視認でき得る最後のオークを薙ぎ伏せ、叔父上の招きに応えんとする――その刹那である。道中一目利きの俺は、八重の遠〈おち〉、正確な居場所までは分からなかったが、己へ向けて放たれた微かに煌めく白矢を認めたのだった。  叩き落とす余裕などない。敬愛するトーリン叔父上へ近づきたい一心で日々培った反射神経のお陰か、俺は咄嗟に身を捩り鋭い切っ先を回避した。そして助かったと安堵したのも束の間の出来事である。 「いだっ」  硬質な音――まるで固い鱗に剣を突き刺した時のような――が響いた後、奇妙な声が上がった。俺ではない。さだめて危急を免れて洞窟へ滑り込んだキーリでも、一行の指示をしていた叔父上でもない。不審に思って声の主を探し出すと、どうしたことだ、俺の真後ろに額を押さえて蹲るスキラがいるではないか。いつの間に距離を詰めていたのか。じめついた嫌な予感が浮かぶ。まさか先ほどの白矢がこの少年を貫いたのではと、ゆゆしき事態に俺の心の臓は早鐘を打ち始めた。 「どうしたんだ、フィーリ」 「キーリか。いや、どうしたも何も……」  暢気な弟を余所に、俺は一目散に小柄な少年と差し向かった。 「おい、大丈夫かスキラ。まさか今の矢が」 「いや、問題ないです。ちょっと当たっただけで……って痛い痛い、フィーリ、触ると痛い」 「やっぱり当たったんじゃないか。十分、大事だ。早く傷を見せるんだ」  それにしても先ほどの固い音はなんだったのか。別の矢が洞窟の壁に当たった音だろうか。しかし俺が見た矢は一本だった。ああそうか、誰かが剣を収めた音だったのかもしれぬ。そう自分を納得させ、少年に面を上げさせる。かち合うのは潤みある黒い瞳、縦に広がる瞳孔。果かなき輪郭は女のようだ。しかし彼は、額を手で覆い、頑として患部を見せようとしなかった。 「ほら。その手を額からどけるんだ」 「本当に問題ないですから」 「それはガンダルフや叔父上が決めることだろう。駄々をこねない」  さのみ血の跡は見受けられない。だから真実、たいした怪我ではないのだろう。けれど本来俺に当たるはずだった矢が他人に当たり、スキラは食わなくてもいい側杖を食ってしまったのだ。どうして放置できようか。弟をあやす時のように優しく言い含めると、その人は渋々と手を降ろした。 「ああ、傷は……って、んん?」  切り傷、打撲跡、矢傷。怪我を指し示すものは見当たらない。スキラはたしかに呻いていたはずなのに。混乱する俺と居心地悪そうに笑うスキラを見比べて、弟が吹き出した。そんなばかな。俺は落ちた矢を探す。スキラの足元に先が砕けた矢の残骸が散じていた。  この少年の額に当たって砕けたとでも言うのか。冗談交じりで「鏃も折れる額か」とからかうと、スキラは「あはは。石頭だから打ち身だけで済んだみたいですね」と、傷一つない、患部とおぼしき箇所を神妙に擦った。待て待て。そんな馬鹿な話があるか。石頭だとしても鏃で皮膚は切れよう。灰撒くような嘘に呆れていると、その人はキーリと俺の背中を押し、 「フィーリ、心配ありがとう。後で打撲に効く塗り薬貰っておきます。さ、早くミスランディア達を追いましょう」  置いて行かれてしまいますよ、と旅路を急かした。 「いやでも」 「さあさあ、早く」  誤魔化された気がしてならない。だが言われるがまま足を動かせば、叔父上達は既に洞窟の奥へ消えていた。その折り、砕けた破片を踏んでしまう。どんな山道にも耐えられるよう丈夫に繕った靴裏に、俺はオーク矢の鏃の鋭さをしかと感じた。だものだから、折角気持ちを切り替えたというのに、違和感だらけの世界へ引き戻されてしまう。  靴越しでもわかる切っ先。それを生身の人間がどうやって防げるというのか。それともスキラは申告せぬだけで何か別の物で防いだのだろうか。謎を解く鍵はあの仄かな音。正体不明の硬質な響きだと思考を巡らすも、なぜか突拍子もない考えばかりが浮かぶ。  そう、どうしてか俺はこう思ってしまうのだ。スキラの額に、剣や白矢といった刃物をことごとく弾き返すドラゴンのごとき「鱗」があればすべて解決する――と。 「は。まさか。それこそ、まさかだ」  ドラゴン退治だと気負い過ぎているのもしれない。さても俺は些末なことをこれほど気にする質だったか。杯中の蛇影、仲間に対して疑り深いのは良くないと有り得ぬ考えを捨てた。 *  六つの尾根を抱く峰、早瀬川の源にほど近きエレボールはたいそう森厳だと叔父トーリンはしきりに語っていたものだ。だが王国を奪われた後に産まれた俺やキーリは山の上の王国と実際に相まみえたことがない。「叔父貴が誇る壮麗なはなれ山はこの光景に近いのかもな」と弟の呟きを耳に、俺は裂け谷を仰いだ。 「嗚呼……萌え出づる顕花。澄んだ渓流が巡るエルフの水の館。憧れの裂け谷……!」  どこかのホビットが賛美の詩歌を口ずさんでいるのは聞かなかったことにする。花を折りたるようなエルフの女は竪琴を嗜み、ドワーフの幾倍も身丈ある眉目好き男たちは野菜ばかり勧めてくる。そのせいで仲間の機嫌は下がりっぱなし、比較的冷静な老臣バーリンも肉を求めて項垂れていた。  ドワーフとエルフ――二種族の諍いは遙か太古、ドラゴンの始祖が生きていた何万年も前の時代から連綿と続いている。発端は我ら種がエルフの白き秘宝をくすねたことだと聞き齧ったことがあるが、エルフもエルフで仕返す機会を執拗に窺っているのだ。俺達ばかりが悪い訳ではない。絶対にそうだ。  叔父上曰く、はなれ山でエルフが助けに来なかったのも、ドラゴンの報復を恐れたなどと言い訳に過ぎず、古き因縁を根に持ったゆえだ。まるで子供じゃないか。賛同を欲して、道中こっそりスキラにその話をしたことがあったが、「彼らは寿命が長いから記憶力も良いんです」と苦笑され、「でもフィーリ自身は、エルフと諍いを起こしたことはないんでしょう」と遠回しに諭された。だが産まれてすぐ周囲に植え付けられた感覚をそう易々と拭えようか。 「フィーリ、その肉くれ」 「駄目だ。それは俺の……おいキーリ!」  スキラといえば白昼の出来事が気になって物思いに更ける。と、油断大敵、弟に肉を取られ、兄弟喧嘩とも呼べぬじゃれ合いを始める俺達。その時分だ。向こう側からホビットが何かを探し求め、覚束ぬ足取りでふらふらと近づいてきたのだ。 「あの、ねえ。スキラはどこかな。そろそろ出発の時間なのに、さっきから見当たらないんだ」 「スキラ? 思えば裂け谷に来てから一度も見ていないな。キーリは見たか」 「俺も見てない。あー、そうだビルボ、探してきてやるよ」  弟が「探検がてら」と音低く付け加えたのを聞き逃さなかった。好奇心旺盛なキーリだ。そんなことだろうと思ったが出発直前に迷子になられても困る。弟の面倒を見るのも兄貴の役目。俺も一緒に行くと伝え、忍びの者に伝言を頼んだ。  連れだって部屋を出ると瑞々しい緑葉、赤や黄色の花弁が廊下を彩じ、せせらぎが心地よく響いていた。草木の上に住まうエルフと異なり、ドワーフは地下深くに棲む。だが朗々と裂け谷を褒めそやしていたバギンズに幾ばくか共感を覚え、キーリに倣って柵へ寄りかかる。霧ふり山脈へ通じる天然の要塞、頭上からしなだれる枝木には小川の水滴が煌めき、この地もそう悪い場所ではないように思えた。  俺はエルフ嫌いだと言っても、叔父上やバーリンに比べれば憎悪は薄い。かつてスキラが指摘した通り、直接諍いを体験していないからだ。最年少のキーリに至っては更に頓着せぬ。だからこそ探検してエルフを知ろうとしたのだろうし、俺だって弟が仲良くする分には大目に見る。つまるところ俺はエルフを敬して遠ざける、叔父上の後継者として育てられたものの一族に害が及ばなければ親交があったって構わないと思っていた。  それにしても見知らぬ館の中、どこをどうやって探そう。大方弟も考えあっての発言ではあるまい。思案に余った俺達は誰かと出会うまで探索を続けることに決め、当てもなく彷徨い始めた。 「なあフィーリ。この館はなんて名前だったか」 「さあ、なんだったかな。最後の憩い館、だったような」  大仰な名だ。どういう意味かは知らないが、後でスキラかガンダルフにでも聞いてみようと思った。なにせスキラはこの館の主と気安い関係であるようだし、俺より若いくせ物知りだ。この館にはなんとかという広場があり、ひもすがら、絶えることなく火が灯っていると教えてくれたのもあの少年だった。  そうして俺達が似たような景色の場所をぐるぐると周り、そろそろ本格的に見つけないと叔父上の叱責を受けると焦り始めた頃。鈴の音のような笑い声が二つ、廊下に面した一室から漏れてきた。大笑いしたり、くすくす笑ったり、転げ回ったり。エルフらしからぬ物音に好奇心を刺激された弟は制止する間もなく壁に逼った。そして恐々と室内を伺うキーリ。と、あいつは俺を手招きして、共に覗き見するよう促すではないか。 「一体何してるんだ……そんなの忍びの者がすることだろう」 「しっ。良いから良いから。フィーリも見てみろよ」  俺は、その日まみえた光景を忘れはしない。室内に咲くは姿の花――中年と妙齢の女。エルフの服に身を包んだ人間の女が二人、片方の中年女がもう一人の髪を結いながら談笑していたのだ。気品ある中年女は白き衣を身につけ、こまごまと年若い女の世話をしている。友人同士だろうか。それにしては大層恭しい手つきで、座する女の黒髪を撫でつけていた。中年女は滑りよい黒絲に櫛を通し、根元から毛先まで静かに梳く。 「相変わらず良い御櫛をお持ちね。うっとりするわ」 「そんなに梳く必要ないですって、ギルライン」 「いいえ。これからエルロンド卿や白の魔法使いにお会いするなら、しっかり身だしなみを整えなければいけませんよ。特に白の魔法使いは厳粛なお方。印象を少しでも良くしておいたほうが協力を頼む際も有利にことが運びましょう。だいたい……先ほど身に付けていらした服も風采の上がらぬものばかり。もう少し身綺麗にされたら殿方も寄りつくでしょうに。エルロンド卿も嘆いておられましたよ。娘を淑やかに育てることは成功したけれど、あなたは一向に」 「えーと……私もやることが終われば見習いますから、そろそろ……」 「なりません。まったく、これでは立場が逆だわ。私のほうが年下だというのに」  まるで親子のようだ。けれど二人の顔は似ても似つかない。むしろ黒髪の女は特異な面立ちをしており、中つ国でも珍しい部類だ。そう、どこかの誰かのような独特の―― 「スキラ?」  間違いない。どこからどう見ても坐しているのはスキラだ。だがあれは女だ。しかしスキラなのだ。纏うはエルフの長衣、その人は俺や叔父上のように髪を下ろし、細かい三つ編みを施されている。普段と異なるのはそれだけ。だのにこうも人が違って見えるものか。曲線へ誘う凹凸はまことに男と呼ぶべき者の姿か。菓子を前に中年女と歓談するスキラは、噂話に花を咲かせる柳腰の女達と遜色ない。しかし俺の訴えは鈍い弟には通じなかったようだ。キーリは俺の何気ない呟きに口を差し挟み、 「スキラ? それがどうかしたか?」 「いや、だからあの黒髪はスキラだろう」 「うん、あれはスキラだな。……それが?」  返す返す、どうしてこうも疎いのか。いや、弟に限らぬ。叔父上でさえ気付かぬだろう。俺達ドワーフ族から見れば髭なき男などみんな女同然。エルフは言うまでもなく、人間でさえ、女に見えても男かもしれないし、男に見えても女かもしれない。特に相手が子供なら見分けるのは至難の業だ。しかしスキラが公言していないということは黙っているべきか。小声で囁き合っていると、やにわに室内の笑い声がぴたりと止んだ。 「そこにいるのは誰です」  丈高き中年女が凜と問いかける。俺達は咄嗟に壁へ張り付き影を隠した。衣擦れの音、大理石と踵が打ち鳴らす音、殺した息の音が混じり合い――そしてついに俺達は見つかってしまった。中年女は瞬刻、瞠目するも、すぐさま訳知り顔で微笑み、俺達を室内へ招き入れた。 「ふふ。スキラにお客さんですよ」 「私に……?」  そうして弟と俺を認め、彼――彼女、または娘と呼ぶべきなのか――は目尻を下げた。 「ほんとだ。フィーリ、キーリ、二人とも迷子ですか」  当たらずも遠からず。事実、彷徨っていた訳だが、当初の目的を簡単に説明するとその人は「ああ」と頷いた。 「探しに来てくれたんだ。どうもありがとう。あ、こちらの女性はギルライン。裂け谷に住まう友人です」 「ギルラインです。お見知りおきを。旅のお話は伺っています。ドワーフの皆様」  しかし、と中年女。 「スキラはミスランディアに呼ばれていたのでは」 「そうなんですよね。あー……もし。少し頼まれてくれま」 「いやです。あなたはしっかり会議に出てください。私は伝言など受け付けませんよ。あなたが大切な用事を放り出して旅に出掛けたなんて、息子の教育にも悪いですもの」 「あの子は言うほど気にしないと思うんだけど……」 「なりませんったらなりません」  スキラの眉が八の字を描く。察するに、彼女は何か別の用事があるらしい。用事の主がガンダルフということは、共に遅れて出発するということか。叔父上もバギンズも知らされていなかったのだろう。利いた風に、俺が心得たと肩を竦めるとスキラはおもむろに立ち上がり眼前で微笑を浮かべた。その白い片手が彼女の胸に、かと思えば俺の胸板へ当てられる。瞼を閉じて恭しく頭を下げた人物が女だと意識すると、我にもなく耳裏が熱くなり、息が詰まった。 「スキラ、何をしてるんだ」  どきまぎして問いかける。と、彼女は悪戯っぽく前歯を見せ、 「今のはエルフ式のお礼です」  ドワーフにわざわざエルフ式で礼をするとは。叔父上なら喧嘩上等と剣を掲げるに違いない。だが柄にもなくスキラの意図を汲み取ることに成功してしまった俺は怒りも覚えなかった。俺には、なぜ彼女がドワーフとエルフの両端を持すか分からない。これからも知らされるかどうか確証ないが、彼女にとってエルフは大切な存在であり、その点だけは理解して欲しいという意味だと合点した。  その人はキーリにも同様に振る舞い、しばしの暇乞いを告げると、中年女へ道案内を請うて、己の用事を済ませるべく退出した。その去り際である。たまさか華奢な横顔に見とれた俺は、透いた白肌の奥、きらりと光る鱗のようなものを垣間見たのだ。 「さあさ、お二方参りましょう。大丈夫です、ドワーフの方々が出発なされたことは誰にも申し上げません。このギルライン、ドゥネダインの血に誓いましょう」  スキラは女だ。いくらドワーフが鈍いといっても、これは疑いようもないことだ。だが彼女にはもっと深く、誰も知ってらならぬ、否、知るべきではない秘められし謎があるような気がして戦慄する。このときばかりは、俺はギルラインと盛り上がる単純な弟を羨ましく感じたのだった。

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