白蝶Chapter 1 Hobbit編
スキラ

第十一話 白と灰と茶

 間がな隙がなミスランディアの発言へ目くじら立てる白の魔法使いから逃れて数刻。取るもの取りあえず白の会議を退出し、火の広間、絶えず灯る橙色の近きでまどろみながら私は先の出来事を反芻していた。  魔法使い――己が竜であることに慣れ、漫然と中つ国を彷徨っていた私が初めて彼らの名を聞いたのは二千年ほど昔だったか。奇しくも偶然と運命が重なり合ったイシルドゥアの手によって第一次指輪戦争が終結し、警戒的平和の中、海を渡り、善き民らに助勢すべく名乗りを上げた最初の賢者。それが白のサルマンだった。その人は大変聡明で、私など足元に及ばぬほど多くの知恵を編みだした。おしなべてミスランディアも畏敬の念を示し、手ひどい批判を向けられても松吹く風と寛恕している。  いささか融通が利かないのはご愛敬といったところか。しかし彼らと顔を合わせる度に、私はサルマンとミスランディアの仲に何らかの異変を認め――特に白の賢者である――サルマンは灰色の魔法使いに対して敵意、況してやいわん、嫉妬のような、そんな仄暗い気色を言葉逐一に感じ取っていた。  その彼が此度、ミスランディアが提示した「案」に賛同したのだ。むろん白の会議の目的を考えればサルマンの承諾は妥当である。というのも、この会議は再び舞い戻るだろう冥王を打ち砕くため定期的に開催される魔法使いたちの戦略会議なのだから。今回たまさか介入した、賢者でもない、ただの娘が口を差し挟むことではないだろう。しかし昔はもっとサルマンも近づきやすい人だった。私は親交あった人が知らぬ間に遠ざかり、いつしか視界から消えていくもの寂しさに耽った。  ミスランディアが広間へ戻る気配はない。先にドワーフたちを追い掛けろと指示されていた私は、このまま寝入らせてくれ、と主張する怠け癖のついた身体へむち打って荷造りを始めた。乾飯に似たレンバス、防腐剤として苦い葉を入れた飲み水、包帯と傷薬、かつて名うての指輪細工師が鍛えたエルフ製の細剣。 「あ。そういえば地図がない……」  なくても大丈夫だろうか。いかんせん迷わぬ自信はないが、裂け谷から伸びる東道を真っ直ぐ辿れば合流できるだろう、と荷物を抱えた時分。やぶからぼうに軽やかな足音、無邪気な笑い声と共に衝撃が腰へと走った。 「スキラ、どこに行くの」  好奇心に満ちた灰色のまなこが腰に抱きついたまま私を見上げた。 「ひどいよ。挨拶にも来てくれなかった」  少年の深い黒髪が滑りよい額を覆う。十に達したばかりの男児は幼いながらも聡明さを称え、小さな人の身でありながらエルフの英知を存分に吸収していた。 「何だ君か。びっくりした。声掛けなくてごめんね。さっき母上様と君に会いに行ったら、君はお昼寝中だったの」 「それなら起こして欲しかったのに」 「ふふ。子供は寝るのも仕事だよ」  エステル、未だ輝き方を知らぬ雨夜の星。幾年もすればアラゴルンと敬われるようになるだろう男児は王家始祖の面影を色濃く残した頬を可愛らしく膨らませた。が、眼は笑っている。まこと怒っている訳ではあるまい。彼は賢い子だから、私が気遣ったのも、先を急いでいることも承知済みなのだ。ただ、彼の母と仲睦まじくしていたのに、自分だけ仲間はずれにされたのが悔しいのだろう。  少年は「私も一緒に冒険をしたい」と腕に力を込めた。庇護欲を湧き起こすこの生き物いったいどうしてくれよう。だからほんの冗談。ささやかな悪戯心で誘惑してみるのだ。 「じゃあエステルも一緒にはなれ山へ行こうか」  さすれば一気に華やぐ少年の表情。そうしてエステルは全力で「うん!」と頷こうとするのだが、やにわに押し黙り、「う」といいかけたまま視線を宙へ漂わせた。 「エステル?」  視線を追って振り向けば、果たして彼の母上様が口を一文字に佇んでいたのだった。 「まあ、スキラ。随分と口が達者なようで」 「……あは、はは。ギルライン、ご機嫌麗しゅう」  さすがは王家の女。威厳がある。生来持ち合わせた気品が一層無言の圧力を水際立たせ、私は身も細る思いで両掌を合わせた。 「……す、すみませんでした」  すると私の髪を結っていた時と打って変わり、冷ややかな視線を投げ掛ける中年女性は間合いを詰め、「口から出任せを吐く元気があるなら今すぐ出発できますわね」と意味深長に微笑んだ。 「いい加減なことをいって息子を惑わされぬようお願いしますわ。大人は冗談のつもりでも、子供は本気に取るのです。後で嘘だったと分かれば落胆しましょう」 「反省します……」  平謝りである。母となったギルラインはやや手厳しくなったのではないか。私は気を取り直し、ホビット庄で仕入れた土産物を少年へ手渡すと、代わりにエステルは小汚い紙切れを掌へ押しつけてきた。 「これはなあに」 「地図。母上がね、裂け谷へ来る前に使っていたんだって。スキラはきっと地図を持ち歩いていないから、私の手から渡してあげなさいって」  地図がないとぼやいていたことがなぜ分かった。女の直感とは恐ろしい。しかしよくよく見れば、それはそれは、大変古い地図だった。少年アラゴルンが継ぐべき王家の血筋、いわゆる長命のドゥネダインたちへ伝わる数千年来の骨董品である。現ゴンドール王国へ持っていけば王家秘蔵ものだろう。一層驚いて見返れば、そこにはしたり顔で目尻に細波立つ皺を刻んだ一児の母がいた。 「こんなすごい地図、貰ってしまっていいんですか」  すると彼女は「差し上げる訳ではありません。無事に帰って来ましたら、私ではなく、息子へ返してくださいませ」と積年の苦労が滲む微笑を浮かべた。まるで母のようだ。ああ、私の母もこんな風だったろうか。長らく隔たった記憶では判然としない。だが懐かしい家族の暖かさにふと涙腺が緩み、奇妙な笑いがこみ上げた。 「ふふ。それじゃあ、有り難くお借りします。ギルラインのご配慮に感謝します」 「ええ大切になさってください。破ったり、汚したりすれば弁償して頂きますよ。我が家の家宝なのです。この意味、あなたなら分かりましょう?」  彼女の家宝ということは、国宝級ということだ。しかし己の生まれも、その責務の重さ、背追うべき運命を未だ知らぬ少年は私を庇うように反抗した。 「でも母上。スキラはどろんこになって旅をするのに、その条件は厳しすぎると思います」 「いいえ。スキラがどろんこになろうと、血まみれになろうと、少しでも汚したらかんかんに怒ります」  私は血まみれになっても良いのか。変なところで割り切りが良い母親である。私は峯々の裏側へ落ちていく夕日を一瞥すると、白紐で細剣を結い合わせ、軽い荷物をさも重そうに背負い直した。 「肝に銘じます。ではギルライン、卿へ宜しくお伝えください。エステルも、君がもう少し大きくなったら美味しい食べ歩きの旅をしようね。ミスランディア直伝の、美味しい野いちごが実る山や、蜂蜜がたくさん取れる場所を教えてあげるよ。それまでしっかり母上様のいうこと聞いて大きくなるんだよ。馬の練習も忘れずにね」 「なんだか母上みたいだ」 「こら。あの怖い母上様と一緒にしない」  どういう意味です。そう咎める女と男児に手を振り、足取りも軽く広場を引き上げた。少年を道連れに旅をするのは面白そうだ。きっと私よりずっと多くのことを学び、人々のために生かすのだろう。その私たちの仄かな願いが叶うのはもう十数年先のお話である。だが次第に悪へ飲み込まれつつある中つ国では食べ歩きの旅など実現しようもなく、荒野を駆け巡る野伏となりし少年は王の帰還を待ちわびる民草のために剣を振るうのだった。 *  私が裂け谷を出て幾日が経った。ドワーフたちとの差はたった三日。微かに残った足跡を追いながらまもなく合流できると予想する一方で、ミスランディアとどれほど距離が開いているか皆目検討がつかなかった。あのままお別れはあるまい。ミスランディアは闇の森まで同道するはずだ、と呟きながら地図を見遣ると、先の道が途切れていた。いや、地図は正しいのだが、辿るべき大地がぱっくり裂けているのだ。 「『巨人出現。注意しろ』……?」  古きものは灰汁を溜め込み、時に厄介払いの対象となるが、それが書物や地図となれば別の話だろう。国宝なる地図は百代の王が手ずから記録し、普通の旅人では手に入らぬ道中情報が印してあった。成る程、数々の割れ目は彼らの仕業らしい。篠を突く豪雨だったのだろう、足跡も途切れ、山道がめちゃくちゃにかき乱されていた。私は一寸足踏みするも、ひょうと蛾に姿を変えて先を急いだ。  そのまま昼夜飛び続け小さき人々の姿を探し求める。だが可笑しなこともあるものだ。どこにもドワーフたちの気配が感じられない。だから、思ったより差が開いていたのかと精一杯に速度を上げると、どうしたことか。だしぬけに山を突き抜け、山脈の向こう側へ出てしまった。 「あれ?」  いくら山慣れした彼らといえど数日で越えられる距離ではない。追い越してしまったに違いないと来た道を戻る。が、またいない。じゃあもう一度。やっぱりいない。そうして何度目かの往復でようやく私は異変を感じ取った。 「どこかで見落とした訳ではなさそうだけど」  何かが変だ。これだけ往復すれば一人くらい視野に入ろう。洞窟、地面の穴、壁の抜け道、知っている限り隈無く探し回ったが、思案に暮れる。普段しない姿への変身が長引けばさしもの私も魔力を使い切ってへとへとであった。こんな時エルフのように動物の声が聞こえれば便利だと思う。けれど竜は闇の生き物。動物たちは私の気配を感じるや否や姿を隠してしまう。悲しいかな、仲良くしたいこちらの意志とは無関係に世界は回るのだ。 「……動物、か」  おもむろにとある考え浮かんだ。ここは霧降り山脈。そう遠くない場所に鳥の巣があったはず。闇雲に探すより地理に敏な彼らから情報を仕入れたほうが消耗も少なかろうとふらつく身体で彼らの住処を目指して高度を上げた。右舷は吹きすさぶ雪の峰。前方に闇の森、はなれ山と目的地を認める。荒風に流されながら特徴的な鳥の巣を探すと、僅かも行かぬうちに捜し物を見出した。  切り立った崖と巨大な巣は遠くからでも視認可能である。が、翼がなければ近づけまい。鷲の王を護るように周囲を仲間の鷲が旋回していた。突然の訪問者に気が立っているようだが、彼らは異端者を追い返そうとはしなかった。 「ご機嫌よう、グワイヒア。大鷲の君!」 「どこの狼藉者が紛れ込んだと思えば……ニムダエか。相変わらず嫌な気配だ。ワシどもに何用か。戯れに近づいたというならば食べてしまおうぞ」  大鷲の王は然らぬ体で羽根をかい繕った。いくら何でも蛾の姿で固い嘴に突かれては痛い。私は岩肌へ降り立つと、人の姿で事情を打ち明け、精霊の化身へ助けを求めた。 「どうもお久しぶりです。それがですね……ミスランディアと共に旅をしていた仲間のドワーフたちが見つからないのです。ホビット族も一人います。大鷲のみなさん、どなたか彼らを見かけませんでしたか」  ないし、彼らが消える可能性のある要因を。霧降り峠は私がカラズラスに居た頃と様々に違っているはずだ。中つ国三世紀に入って、こちらを縄張りにする彼らのほうが子細に詳しいだろう。しかし大鷲たちは物珍しい名を聞いて小首を傾げた。 「ホビットとな。かような種族、聞いたことがない。しかもドワーフときておる。あやつらの天敵であるお前がなぜ一緒に旅をしているのだ。肝心のガンダルフもおらなんだ。……ははあ、わかったぞ。ワシどもを騙す気だな、ずる賢いドラゴンめ。ニムダエ、おおニムダエ、冥王が創りし竜の寵児よ。我ら鷲の王を謀ろうとするならば容赦せぬぞ」  大鷲たちは彼らの王グワイヒアを庇い絹を裂くような甲高い声で威嚇した。だが私は忍耐強く気褄を合わせ、 「ええ、その通りです。ミスランディアは共に居りません。後から合流する予定だったのです。しかし彼も、ドワーフたちも見つかりません。少しの情報でよいのです。何かご存じでしたら教えて頂けませんか。そうすればグワイヒア、私はあなたの前から消えましょう。二度とあなたの巣へ立ち入りませんとお約束します」と、トーリンやビルボの背格好を事細かに説明し、ありやなしやの彼らと再会したいのだと再三繰り返した。 「ふむ……なるほどな。ドワーフやホビットのことは知らぬが、ガンダルフが絡んでおるとなれば協力してやらんこともない。……竜に協力するのは遺憾だが、お前が我ら先祖と親交があったのもたしか。あのガンダルフが信用しているのも、それなりに理由があるのだろう。しばし待たれよ。誰か見た者がいないか部下に尋ねてしんぜよう。心配するな、そう時間は掛からん」  鷲の王は仲間を呼び寄せ、ああでもない、こうでもないと百に千に言葉を交わし始めた。グワイヒア、六十年後に起きる第二次指輪戦争の協力者として名を残す鷲の王である。歴代もっとも小柄な王はミスランディアに傷を癒して貰った恩があるとかなんとかで、灰色の魔法使いのお願いならばすっ飛んでいく。私にはあんなすげない態度なのに、だ。しかし魔法使いが三千年の時を使って紡いだ交流の糸が悪を振り払う切り札となるのだから侮れない。 「いや、違うか。ミスランディアの行動はすべて意図がある」  使命をまっとうせんとする魔法使いは敬愛すべき人だ。私が嫌々ながらこの旅へ出たのも、おそらく彼に影響されたからだろう。ビルボもそう。トーリンも、バーリンも、そして後々指輪を捨てる旅へ赴く九人の男たちも。頑固一徹な熱血爺さんは常に真剣な眼差しで事へ当たるものだから、覚えずこちらも協力してしまうのだ。  他の魔法使いはどうしたろうと過ぎる。灰色、茶色、白、そして青が二人いたはずだがとんと出会わぬ。青い二名は東――今や暗雲垂れ込める地域を旅して回っていると聞いた。茶色は先日会った。人界を捨て、動物と生きることを選んだ魔法使い。グワイヒアとも仲が宜しい。白は茶を堕落したと蔑むも私にすれば羨ましい限りだった。なんたって動物と話が出来るのだ。ラダガスト、ラダガスト。竜である身体を捨て、いま一度生まれ変わることが出来るなら彼になってみたい。 「ああ……ラダガストに会いた」 「ラダガストだ、ラダガストだぞ!」  はて。私は幻聴を聞くほど疲れていたか。突としてぶつ切られた思考の破片をかき集めるべく再び瞼を閉じる――が。 「鷲の王よ、ラダガストが」 「ラダガストがどうしたというのだ」  くどいほど某人の名を連呼する鷲たち。誤聞ではなさそうだ。鷲の王は足手反様に啼く部下を鎮め、専ら何者かと意思疎通を図っていた。 「あのー……茶色の魔法使いがどうかしたのですか」 「ドラゴンは黙っておれ。ラダガストから緊急の伝言なのだ。……ああ、なるほど。ふむ。そうか。それは一大事だ」  眼前に鳥がいる。ロスゴベルの兎がいる。ミスランディアの蛾もいる。さながら先刻の私の如く、動物たちは何かを必死に訴えている。だが何をいってるのかさっぱり分からない。私はすっかり蚊帳の外で、請うた願いもあっさり反故にされようかと諦めかけていると、大鷲王の硝子玉が私を捉え、鋭く目角を立てたと思えば、やおら気勢を揚げた。 「いったい何を落胆している、ニムダエよ。無礼にもワシの住処へ踏み入り、しつこく頼み込んだくせにもう諦めたのか? 折角ラダガストから有力な情報を仕入れたというのにその程度では教える訳にはいかぬな。宜しいか竜の子。これからワシが話すことを一言一句聞き漏らさず、耳目に触れるが良い。なるほど、たしかに良い知らせではないが、一聞の価値はあると思うぞ」  そうして長口上を吟じ切った鷲王は私へ色を取り戻させた。けれどもそれは希望と絶望をもたらす諸刃の剣でもあったのだ。 「そうだその調子だ。落ち込む竜など気持ちが悪くてかなわぬからな。さて待たせたな、ワシがお前に良き情報を教えてしんぜよう。ガンダルフとドワーフが見つかった。ゴブリンどものねぐらを抜けた先にいるぞ。だがオークに取り囲まれ絶体絶命らしい。灰色の魔法使いがラダガストを通して救援を要請している。これからワシどもはそちらへ向かい、旧友の頼みを聞き入れようと思う。……どうだ、聞いて損はなかったろう?」  ゴブリンのねぐら。しかるに彼らは地下にいたのだ。どうりで地表を探し回っても見つからない。しかし、ただはなれ山へ向かうだけがなんたってそんな状況になっているのか。つくづく気苦労が絶えぬ旅である。  私はグワイヒアへ深々と頭を垂れた。 「有り難ございます。あなたたちを頼って良かった。感謝致します。して、厚かましいお願いと存じますが、居場所が分かったのでしたら私も連れて行ってくださいませんか」  一羽二羽と飛び立たんとする彼らを仰ぐ。大鷲の王がつと前へ踏み出した。だからてっきり、私も乗せてもらえるものと勘違いして逞しゅう鳥脚へしがみつくと、瞬く間に蹴り返されるではないか。 「まこと厚かましい。お前は自分で飛ぶがよい。ワシどもはドラゴンなど乗せんぞ」  なんてひどい鳥だ。私にだけ極端に冷たい鷲たちはグワイヒアの合図で黄昏空へ羽ばたき、こちらの存在など初めからなかったかのように列を成す。歴とした差別だ。ドワーフやミスランディアは背に乗せてやるのだろうに、なんたることだ。 「あー……まったく。仕方ないか」  私は心労に唸りながら白い鷲へ姿を変えると、後にも先にも今日はこれが最後だと、大空を翔る偉大な鷲を追い掛けたのだった。

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