白蝶Chapter 1 Hobbit編
-ドワーリン-
第十四話 妖精畏るるは
「ノーリ! どさくさに紛れて私の地図を盗りましたね!」 ドワーリンも叱ってくださいよ、と珍しく憤慨するスキラは議論する価値もないくだらん争いへなぜか俺を巻き込み始めた。こっちに矛先を向けるな。俺は愛用武器の泥を払う間、矢継ぎ早に繰り出される星形頭をした泥棒と小僧の言い分へ耳を傾ける羽目になったのだ。 「……何だってんだお前らは。喧しい」 「だってノーリったら私の大切な地図を」 「だから俺は何も盗ってなんか。どうせよそ見してる内に落としたんだろ。スキラは欠伸ばっかしてるから」 「うっ」 スキラは悔しそうに唇を噛みしめた。否定出来んところが痛そうだ。だが、誰が盗った、何を落としたなど、そんなことどうでも良い。落下死を免れて二日目、トーリンがいつ怒鳴り出すかも分からんから騒ぐなと一喝して俺は剃髪を撫で上げた。大体スキラもスキラだろう。普段は何をされても穏和に流してるくせ、今日は一体何をムキになっているのだか。 「ま……万が一にも落としてたら、ナルシルの欠片で八つ裂きにされる……」 小僧は焦点の定まらぬ瞳でぶつぶつと呟く。頭は大丈夫か。先日随分と大鷲に揺られていたが、そのせいで脳みそが混ざったのかもしれん。しかしその折り、俺はドワーフの懐からぼろ切れがはみ出ているのを認めた。ふむ。どうやら勝者はスキラのようだ。兎にも角にも二人組を黙らせるべくそれとなく示してやると、小僧は肉食動物の如き一対の黒曜石を光らせ、返せといわんばかりに掌を差し出した。 「ノーリ。上着に見慣れないものが挟まってますよ」 「な、何のことだかさっぱり」 「またそんなことを。それは友達にお借りした地図なんです。後生ですから……なんだったら遠征の私の分け前を少し差しあげても良いです。ですから、それだけは、それだけは返してくだ――あだっ」 お前らの言い分は分かったからいい加減に黙れ。面倒臭くなった俺は、演説の最中であったが、双方へ頭突きを食らわせる。すると二人揃って「なんで自分が」と文句をつけやがるんだ。そんなの決っておろう。喧嘩両成敗だ。 それにしてもエレボールの分け前を放棄してまで取り返したい地図が存在するとは驚きだな。だとすればまこと貴重な品かその友人とやらが恐ろしいか。まだ死にたくないと必死に訴えるスキラを見ているとこいつでも本気になることがあるのかと思わず感慨に耽った。 「スキラの分け前なんかいらないね。だってお前の取り分はスマウグの生き血だろ。竜の血なんかこれっぽっちも価値がないじゃないか」 「失敬な。竜を馬鹿にすると罰が当たりますよ。それにオインだって認めてました。竜の血は最高の薬毒だって」 なんでお前が怒る。竜を擁護し始めた小僧に呆れるあまり兄者へ助けを求めた。されど白髭の老臣は俺と視線が絡まるなり満面の笑顔で頷き、「任せた」と親指を立てて無情にも背を向けやがった。裏切り者め、覚えていろ。 「……いいからノーリ。返してやれ。このままだとお前も殺されかねんぞ」 「……ちっ」 ほらあった、と小僧が飛びつく。そして乾いた砂へ埋もれる前に拾い上げ、紐を巻きあげるとそれはそれは大切そうに内着へ滑り込ませた。童子のような外見へそぐわず常日頃より落ち着き払った態度のスキラではあるが、ノーリ相手だとやけに喧しくなるのが難点だ。それはもう暇さえありゃ歌い出す某ドワーフのように。しかも喧嘩の仲裁役は俺である。そろそろ勘弁してくれないか。こっちは喧嘩するほうが性に合っているんだ。 かくいうノーリは三兄弟の次男で根っからの泥棒であった。さすがに裂け谷の銀食器をくすねた時は頭が痛くなったが、一族に対する忠誠心は本物である。スキラがご満悦で地図を片付けに去ると、盗っ人ドワーフは左を顧み、右を流し見て、ここらで盗めるものがないと判断するや盗人猛猛しくガンダルフの荷物からレンバスの束を一つ拝借して列へ戻った。 「はあ……ようやく静かになったか」 オークから逃げ回ってるというのに暢気なやつらだ。昔から掴み所のないノーリだがスキラも負けず劣らず読めんやつである。あいつは大人しいと思って油断していれば、時折ぽろりと毒舌を吐き、痛恨の一撃を見舞ってくるからな。かといって憎めない性格なのがまた気に障るのだ。偵察ホビットが戻って来るまでこのまま静かにしてろと胸裡で悪態づき、渋面が似つかわしい我らが王へ囁きかけた。 「頼むからあいつらのお守り代わってくれ」 「いうほど嫌そうに見えんがな」 「……まあ。葬式みたくどんよりしてるよか良いとは思ってるが」 それより、とトーリンは鋭く目配せをする。 「あいつを見張っておけ。少しでもそれらしき部分を見出せば捨て行く」 それらしき部分――つまり小僧がエルフである証拠だ。ドワーフ族なら知らぬ者はおるまいが、我らが王、ドゥリンの末裔は森の妖精へ憎悪の感情を抱いている。具に語るまでもなかろう。あいつらは助けを求めた我らをいとも容易く見捨てたのだから。 しかし俺は返事を濁した。諾しにくい理由があったのだ。たしかにエルフは嫌いである。あんなやつらスマウグの炎に焼かれちまえ。しかしスキラは―― 「ドワーリン。どうした。エルフまがいに情が湧いたとでもいうんじゃないだろうな」 「それなんだが――スキラはエルフじゃない」 明瞭に答えると、気品ある王族の眼差しへ一抹の不安が過ぎった。 「どういう意味だ。なぜ断言出来る」 「本人から聞いた。エルフじゃない。それに、俺も見た」 何を、とは説明しない。その空漠へ核心が潜んでいると悟った幼馴染みは短い髭を無意識の内に擦り、翳る迷いを打ち払うべく筋の通った声音で曖昧模糊に仄めかされた真実を追究した。 「……何を、見た」 * 「あれは裂け谷を出発する直前だった。俺は厠を探して敷地内を彷徨ってた。しかし、どこを見ても木、木、木。あんなところで迷わないほうがおかしいだろ? 案の定俺は道を失って庭に用を足すことにした。その時だ、回廊を渡る小さな影が視界に入った。でもエルフじゃなかった。人間のガキだった。そいつは俺を見るなり、『スキラのお友達のドワーフですか。スキラを探しているんです。見掛けませんでしたか』と丁寧に尋ねる。だから『見掛けてないし、知り合いだが友達じゃない』と返してやると、巻き毛のガキは『どうしてみんなそう言うの』と涙を耐えて顔を歪めたんだ」 「『みんな』とは誰のことだ」 「まあ待てトーリン。これから順を追って話す。……誰も聞き耳立てちゃいないな。兄者、しっかり見張っててくれよ」 「あい分かった。聞き耳立てるのはわしとトーリンだけで十分じゃな」 兄者は茶目っ気たっぷりに――兄者の戦闘能力を考えるとちっとも可愛らしくないが――片目を閉じて皆が寝静まったことを確認した。トーリンが俺の腕を掴んで急かす。本当にせっかちな王様だ。俺は魔法使いと小僧の寝顔を注視し、まことに安全だと分かると先を続けた。 「俺は訊いた。『みんな、友達じゃないというのか』と。するとガキは悲しそうに眉を顰めて『うん。動物もエルフもみんな、スキラのことが怖いんだって』と言い放った。裂け谷でスキラはエルフに溶け込んでいたように見えたから俺は混乱した。『でもあいつは館の主と仲が良いだろう』と訊き返すと、『エルロンド卿みたいに長生きしているエルフはずっとスキラと一緒にいたから仲が良いんだ。でも若いエルフ達はあの人を怖がってます』という。意味が分からないだろ? だからもっと追求しようとしたら、どこからか女の声がする。そしたらガキは『母上が呼んでる。失礼します』と嵐のように去って行っちまった」 「……それで。スキラがエルフじゃないという証拠は何も出てないが」 むしろ長生きだと仮定するとエルフの線が濃くなった、とトーリンは憮然とする。 「黙って聞いててくれ。でな、すっかり用を足して身軽になった俺はガキを追い掛けた。それで最初に小さな影を見掛けた回廊へ入ると奥に階段があって、突出した場所に彫像が建っていた。それが抱く台座には折れた一振りの剣、そして欠片が鎮座してる。壁には様々な戦の絵が描かれてあって、その一つに折れた剣とそっくりなやつを一人の男が掲げていた。黒い軍勢を率いた巨人へ向かってな。あれはきっと、指輪戦争の絵だ」 「情景描写は省いて先を話してくれんかね。トーリンがご立腹じゃ」 「兄者まで俺をこけにするか。省ける説明なら省いておるわ。こっからが良いところだから待っておれ。……それでな、琴のような波の緒を聞いた気がして階段を昇るとその場所に別の人間が佇んでいたんだ。スキラだ。あいつはエルフ製の白衣を纏い、降ろした黒髪へ細かい編み込みをして着飾っていた。始めは別人だと思って通り過ぎようとしたんだが、あいつのほうから話掛けてきた。それでスキラだと分かったんだ」 あの時、ドレスのような長衣を惜しげもなく引き摺り、面伏せに見返るスキラに対して我ともなく不思議な予感を抱いたが、それは黙っておこう。女染みた男ならいくらでもいるもんだ。俺は苛立つ王を宥めてスキラとの会話を事細かに語り始めた。 「ドワーリンがこんなところに来るなんて珍しいですね、とあいつは瞠目した。迷子になったと正直に話すと赤い実が成る木々を辿って東へ行けと三日月が昇ってまもない方角を指し示す。そうすればドワーフへ宛がわれた部屋に辿りつけるはずだと。お前は来ないのかと問うたら、これから会議があるから無理だ、フィーリとキーリへ遅れる旨は伝えてあるから先に出発しててくれと、川底を漂う砂金のような高く繊細な声でいう」 ――知らず知らず、俺の意識は裂け谷へ戻っていた。忌まわしいエルフの館、少しだけスキラのことを知った館。ああ、あいつがなぜあそこに居たか、という話だったな。スキラは絵を眺めていたのだと思う。だが思わぬ相手と鉢合わせた俺は去り際を逸し、釣られて絵画へ見惚れる。こちらが立ち去らないことを認めると小僧は巨人の黒指へ填まる黄金の指輪を撫ぜて細めいた。 「ねえドワーリン。あの時サウロンが完全に滅ぼされていれば、悪しき竜はこの三千年の間に衰退し、スマウグがはなれ山を襲うこともなかった。そう考えたことはありませんか」 「仮定の話は時間の無駄だな。実際にスマウグは我らが故郷を襲った。もしも話なんてのは、惨劇に無関係の人間が他者を憐れむ心優しい自分を演じたくて打ち興じる戯れに過ぎんだろう」 「ふふ。確かに。ドワーリンのいう通りかもしれないです。あの時、エルロンド卿がどれだけ頑張っても、後世へ名を留めしイシルドゥアに指輪を捨てさせることは出来なかった。もしも、なんて言葉の余地が存在しないほど、彼は指輪に魅入られていましたから」 まるでその姿を実際に見ていたような言い草だろう? いや、さやかにこそ答えなかったが、きっとスキラはあの場に居たのだ。しじまへ混じ入りたおやかに指を組む人間は胡散臭いことこの上なかった。こいつは何者なんだ。エルフではないのか。俺は耐えきれずにとうとう言い放った。 「小僧、お前はエルフか」 いいか。俺はあの時の屈辱を絶対に忘れんぞ。絶対にだ。瞬刻スキラは息を飲む。と思うやいなや弾けるように笑い始め、身体を二つに折って、剣の欠片が散じる台を叩きながら抱腹絶倒しやがったんだ。まったくもって許しがたい。分かるか、あいつは溢れる涙を手の甲で拭い、ぜえぜえと気管を鳴らして小一時間以上も俺を笑っていたんだぞ。 「え、エルフ……私がエルフ……!」 エルフに憧れた時期もありましたけどそれはないです。ドワーリンはほんと面白いですね。と揶揄しているとしか思えぬ数々の言葉を浴びせやがる。だが俺を貶すことはトーリンを罵倒するも同然だ。初めに小僧がエルフじゃないかと言い出したのは我らが王なのだから。それで「何が面白い」とドスを利かせると、スキラは未だ弧を描く口元を隠して愛らしい微笑みを浮かべた。 「だって私をエルフと一緒にするなんて。怒られてしまいます。卿や光の奥方なら笑って許してくれるでしょうけど」 「だがお前は長命なんだろう。指輪戦争をその目で見ていた、ということは」 最短でも三千年は生きている。人間の王族家系ドゥネダインも長命であるが、せいぜいドワーフと同じ二五○年程度――千代も長らえる生き物は魔法使いや森の主、憎きドラゴン、エルフくらいなものだ。さもあれど小僧は貌に漂わせる含み笑いを崩すことなく、「たまに長生きな人間がいるんです」と申し開いた。 「長命だからエルフとは限りません」 「……だが。そんな人間がいるなど聞いたことがないぞ」 青筋立って反論するもスキラには通じない。あいつは、 「あー……何千年も生きる人間なんて気持ち悪くて、表立って話そうとしないのでは」と己のことなのに苦虫を噛み潰したように渋面した。道理ながら容易に信じにくい内容である。しかし俺は思い出した。先に出会ったガキの台詞、こいつがエルフに怖がられているという旨を。 仮にスキラがエルフなら奇妙なことだ。同じエルフが同族を厭うなど頻繁にある出来事ではない。だがこいつが似て非なる別の種族だとすればどうだ。異常な長寿を誇る人間をお高くとまったエルフが煙たがるのも有り得ぬ話ではない。 笑いの波が収まった小僧は霧がかる氷河の中で明滅する蒼き鬼火のように冷え切った瞳を閉じた。むろんあいつは決して冷酷な訳ではない。だが俺はいつも小僧の目を見詰めていると名状しがたい薄ら寒さに包まれるんだ。だからスキラが瞼を降ろしたことに少しだけ安堵した。情けなくもな。それから、教えられた赤い実を探して外を見遣ると、夏枯れ一つない庭を掻き分け、どこからか騒ぎを聞きつけた住人達が現われた。 「一体何の騒ぎだ。例のドワーフ達か?」 エルフはどいつもこいつも若者の成りをしてやがる。けれど此度遭遇した三人組は殊に若いのだろう。なにせ態度が幼い。喧嘩上等、文句つけやがったら殴り返してやろうと身構える。が、その折節、俺はたまげる場面を目撃しちまったんだ――。 「何があった。ドワーリン、もったいつけるな」 「トーリン。あまり声を荒げると皆が起きてしまう。冷静になるのじゃ」 指輪戦争を描いた絵画の前から、夜半深き岩山へ知覚が戻る。夢中で語ってたらしい。兄者と我らが王は身を乗り出してドワーリンという即興仕立ての語り部へ耳を傾けていた。 「それで。三人組の若いエルフはどうしたんじゃ」 「あ、ああ。それがな。あいつらはスキラを認めるや否や、悲鳴を挙げて腰を抜かしたんだ。小僧も俺も、まだ何も仕掛けていないのに、だ。どうやらガキのいったことは真実だったらしい。エルフどもは及び腰で後退り、『こんなところで出くわすなんて』『目を見るな、呪われるぞ』『スキラだ、逃げろ』と口々に叫んで走り去った」 あいつらの恐れ方は尋常じゃなかった。翻って小僧は何食わぬ顔。ひょいと肩を竦めるだけで嘆息した。なぜ何も言い返さん。さしもの俺も苛立ち、 「あんまりな態度だろ。だから『失礼にもほどがあろう。仲間を侮辱するな』と逃げ腰の臆病者へ怒鳴ってやった。するとな、スキラが笑ったんだ。先刻の馬鹿にした雰囲気と一転、心底嬉しそうに破顔して。穏和ではあるが、どこか一線引いて素っ気なかったあいつが、だぞ。あんな柔らかく笑うものかと意外だった。で、続き、こう繰り返すんだ。『ね。私をエルフと一緒にしたら怒られるでしょう』と」 スキラの正体が分かった訳ではない。むしろ深まるばかりだ。何千年も生きる人間などまことに存在しようか。しかし泥中の花、やつらの中においてエルフでないと分かっただけでも良しとする。 なんだ。俺があっさり引き下がるのが意外か? これでもあの小僧を買っているんだ。拳こそ最大の武器だと自負して止まぬ俺だからこそ認める点だが、これまでの戦い、あいつは滅多に剣へ頼らず、脚や拳で切り抜けて来ている。大体のやつは刃物に頼りきりなのにな。見直したもんだ。あれで髭があり、ガタイが良ければ、勇敢なドワーフ戦士として名を馳せよう。 「……エルフが嫌う人間か。その話が確かなら我々は考えを改める必要があるな」 裂け谷の出来事を凡て語り終えるとそれは白矢のように二人の背筋を凜と射った。冷え冷えとした夜半は寂となり、仲間のいびきだけが響く。雲はない。トーリンは気難しい横顔を仄青い月光へ照らした。ドワーフらしからぬ透いた鼻筋、厳格な光を宿す眼孔へ高き額骨が影を落とす。彼ははなれ山へ住まわっていた頃より随分と白髪が増えたようだ。無理もなかろう。気宇たる王にあるまじき苦労を重ねているのだ。 かくしてそろそろ夜も明けようかという頃、おもむろに王が口を開いた。 「スキラが何千年も生きているのなら、竜の一匹や二匹倒していてもおかしくはない。竜討伐の専門家――ガンダルフの目に狂いはなかったのだな」 「そうじゃな。それにエルフでないなら、追い出す必要もないと考えて良かろう。……構わんかね、トーリン?」 無言の内に肯うドゥリンの末裔。その瞳へ灯る憎しみがやや和らいだように見えた。異質な存在であれどスキラは旅団の一員と称して遺憾ない。正体不明であってもエルフでなければ問題はないし、なんだかんだ仲間を守って戦うあいつを追い出しては戦力不足に困ろうというもの。 ふと、スキラがエルフでなくて一番嬉しく思っているのはトーリンかもしれんと過ぎる。頑固ゆえ衝突も多いが、その分だけ仲間へ対する思いの丈は深い男だ。俺達は救いなき水底で海藻に絡め取られ足掻くような感覚へ陥る反面、謎深き竜討伐専門家を眺め、何かを為し得た英雄のように揃って口角を上げた。
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