白蝶Chapter 1 Hobbit編
-キーリ-

第十五話 竜血をこの手に

 敬愛する叔父貴へ付き従い、フィーリ兄貴と競い合うように青の山脈〈エレド・ルイン〉を旅立ってから幾度月が欠け、満月が昇ったろう。叔父貴が突然エレボールへ進軍すると言い出したのは三月の半ばだったと思う。ビルボの家を訪ねたのが次月の始めだろうか。  あれから数ヶ月、叔父貴率いる旅団は晩夏の中つ国を北へ向かって進み、魔法使いに導かれるまま見知らぬ誰かの家を目指している。やつが敵になるか味方になるかはこちらの態度次第。けれど俺達は崇高な目的を果たすため、こんなところで立ち止まっちゃいられないのだ。ビルボと和解した丈低き一行は地を這い木陰へ潜み堅実にはなれ山までの距離を稼いでいた。 「キーリ、何か見つけた?」  つと立ち止まる俺へつぐみのような声が問うた。スキラだ。その人は風避け頭巾の合間から俺を見上げる。乱雑に切り揃えているはずなのに統合性の取れた前髪、それが時折、冷ややかな色を灯す眼差しを覆い隠して読めぬ表情を神秘的なものへ昇華させていた。 「エレド・ルインのことを考えてた」  するとスキラは、ああ、と瞳を輝かせ、 「青の山脈はキーリにとって故郷なんでしたっけ。以前はゆっくり回る時間がありませんでしたけど、もう一度訪れたいな」 「遠征が終わったらみんなをエレボールへ呼び寄せる予定なんだ。その時一緒に付いて来いよ。今度は快く迎えてくれるはずだぜ」 「……また追い返されたりしません?」 「いや……あ、あの時は俺達も手荒な扱いして悪かった、とは思ってる」  俺が「彼女」と出会ったのは袋小路屋敷で宴会をする少し前だったか。種芽吹く時期に相応しく、ドワーフの住処を訪れたスキラは花めく穂を散らす春一番のように大地を吹き渡り、白きニフレディルの花弁へ綿冠を被せる淡雪のごとく柔らかな佇まいをしていた。はなれ山に憧れて幼き頃から御伽話を読み漁っていた俺は、中つ国の極西、大海へ沈んだ地に自生していたという「雪の穂」はこんな風情をしていたのかもしれないと澄み切った水面に目を細めたものだ。  しかし叔父貴へ会いに来たと頭巾を目深に被ったまま品良く腰を折り曲げた彼女を初めて見た時、俺はてっきりドワーフかと思った。なんたって立派に帯刀してるくせ、俺よりも背が低い。なのにフードを脱いだら髭はない、耳も小さくて尖ってなければ腕だって折れそうなほど細っこく、焦茶の国の住人とも異なる珍しい面立ちの女だったんだ。俺はともかく、仲間は「危険な旅だ、子供が出る幕ではない」と躍起になって追い返したよ。 「じっと見詰めてどうしました」 「スキラのことだから、追い返された時も、遠征に参加しなくて良かったとか安堵したんだろうなーと思って」 「……過去の話を掘り返さないでください」  いくら竜討伐に秀でているとはいえ、女身でありながら冒険することは重い選択だったろう。でも面白いんだ。青の山脈へ訪れた時はおろか、旅が始まってからも仲間はスキラが女だと気付いてない。ボフールやビルボは知ってる節があるが、少なくともドワーリン殿やバーリン殿は男と信じて固い。  勘違いされている原因は何か? そりゃ叔父貴だ。トーリン叔父貴はいつもスキラを「小僧」と呼ぶから、みんなそれに呼応して男だと思い込んでいるのだ。でも、だからってスキラが女らしくないって訳じゃないんだぜ。彼女が俯き気味に見返る瞬間なんかすごく好きだ。結い上げた黒絲が白首に掛ると流れるような夜の川を作り、頭を捻った拍子に氾濫する。それから身体の回転に沿って末広がりに花扇が打ち開く様はいつ見ても綺麗だと思う。  とはいえ、別に恋愛対象として見ている訳じゃなくて――ああ、説明しにくいな――俺にとって彼女はやんちゃ盛りの俺や兄貴を大きく包み込んでくれる母親に類した存在だった。どう見たって俺のほうが年上なのにな。何故だろう、スキラと話していると昔へ戻れる気がするのだ。兄貴と二人、黄金なるエレボールの伝説へ熱心に耳を傾けたあの頃へ。  思い出に浸っていると不意に彼女の荷物がその手を離れた。 「スキラ、荷物重いだろ。持ってやるよ」  兄貴だ。面倒見の良いフィーリは裂け谷を発ってからというもの、何かと彼女の世話を焼きたがるのだ。  「ありがとう。だけど見掛けより軽いし」 「いやいや、そんなはずないだ――って本当だ。軽いな」  荷物の大半を占めていた食糧を皆であらかた食べ尽くしたせいだとスキラは笑った。怪我の功名、スキラは迷子になったお陰で汚らわしいゴブリン共に荷物を奪われずに済んだのだ。食糧を失って途方に暮れていた俺達にとっちゃまさに天の救いさ。旅に欠かせぬもの、それは冒険よりも何よりも腹をくちくすることだからな。 「……なあ。スキラってさ、あまり自分のこと話さないよな。ブリー村の前はどこに居たのかも知らないし、出身すら教えてもらってない」 「あー……そうでしたっけ。フィーリは何か私に訊きたいことが?」 「ああ、あるとも。昨日ノーリと分け前の話してたよな。なんでスキラは竜の血なんか欲しいんだ」 さすがフィーリは兄弟だ。彼が問うたことは長らく俺も気になっていたことだった。だっておかしいと思わないか。黄金の山があるのにスキラは不要だという。代わりに彼女は討ち取った火竜の血を報酬に望んだ。事実上分け前を放棄したも同然だろう?   俺はスキラを挟んで兄貴と並び歩きながら横目で窺った。しかしその問いへ答えたのは出し抜けに姿を現わしたオインだった。ドワーフ訛りが強い彼は潰れた補聴器を諦め悪く耳へ当て、 「それはもちろん、特別だからだ。竜血は生者を死に、死者を生へ導くといわれておる」と医者ならではの博識を披露した。 「言い伝えでは竜血を浴びると不死身になるとも、相応の使い方をすれば最高の治癒薬となるとも。医者なら一度は扱ってみたい代物だ。しかし竜の血などめったに手に入らん。個体数が少ないし、出会っても血を得る前にこちらが絶命している。したがって研究という研究もなく、伝承だけが僅かに残っている程度だよ」  オインは遠征組が誇る医者であり大鴉の予兆を知らせたシャーマンでもある。竜血を語る彼はさながら水を得た魚。お前もスマウグの血を狙っているクチかと勘繰るほどだ。すると彼女は「オインのいう通りです」と頷き、 「古代ドゥネダインが残した資料によれば竜血は万能です。裂傷、火傷、腐敗、肉体欠損、そしてありとあらゆる疾病、呪いの特効薬となります」と意気揚々と補足をした。なるほど。確かに竜血は貴重だ。下手をすれば黄金の山を得るより竜血を使ってボロ儲けしたほうが賢い。だけど俺にはやはりスキラの目的が金儲けとは思えなかった。彼女はとりわけ金銀財宝へ興味ある訳でもないし、貪欲に宝を欲する性格でもないのだから。 「ただし、不死身説は眉唾です。竜の始祖と名高いアングバンドの黄金竜グラウルングの血は猛毒でした。彼を討ち果たした男が致命傷を与えた黒剣を引き抜いた時、その血を浴びた手は焼けただれ、ひどく苦しんでいました」  なんとなしに弦糸をいじっていた俺はふと手を止めた。何だろう。今の言い方。まるでその目で見ていたような、そんな感覚である。されど竜の血が毒とは初耳だった。同時に不吉な話を耳にした気もしてそっとフィーリを一瞥する。思った通り兄貴も同じことを考えたのだろう。彼は三つ編みを施した短髭をいじりながら、 「ということは、スマウグの血も猛毒ってことか」と表情を強ばらせた。 「いえ。スマウグの血はおそらく安全かと。彼は空飛ぶ竈であれど呪術を使いません。私が知る限り、毒血は魔力を操る竜のみが持つ力。空を飛び、炎を吹くだけのスマウグの血に毒は含まれません」  だけ、っていったよ。空を飛んで火を噴くだけでも十分恐ろしいのに魔術を使う竜なんているのか。スマウグがただの火竜で良かったと場違いな安堵を覚える一方、フィーリは心此処にあらずで「なるほどな」とものありげに目線を逸らした。 「竜の血が毒やら治癒薬やらになるのは分かったが、オインがいった『死者を生へ』はどういう意味なんだ。死人にも使えるのか」 「キーリは時々鋭いですね。……ええ、巷にはこんな噂もあります。竜の血を死者に飲ませ、適切な呪文を掛けるとその人は甦る、と」  故人が息を吹き返すだって? だとすればエレボールの瓦礫へ朽ちた叔父貴の仲間も甦らせることが出来るだろうか。しかし俺達の考えを見抜いたように厳しく反論するはオインである。彼はまなじりを逆立て、地の底から響く冥王の声真似をして語気を強めた。 「スキラよ、若いのをあまり唆すでない。竜は闇の生き物。その力を使って甦ったとしても、彼の魂は生涯、闇に繋がれたままだ。竜血を治癒薬として使い自身の回復能力を高めることと、竜の根底に流れる力を魂へつぎ込み闇の力で身体を動かすことはまったく意味が異なる。いいかね、キーリ、フィーリ、竜血による甦りとは生者として息を吹き返すことではない。闇の操り人形となることだ。ならん、ならんぞ。どんなことがあっても甦りだけは決して行ってはならん」  粗暴者が多い遠征組でもオインは穏和な部類だ。その彼がこんな口疾に力説する姿は初めてかもしれない。それだけ危険なのか。スキラは甦生を施せるのは魔力を持つ者だけだと医者を宥め、ともかく興味で竜血が欲しいのだと締めた。 「ねえオイン。私は医学に詳しくないので、血を手に入れたら力をお借りしても」 「ほほう。もちろん、ありがたい申し出だ。竜血で薬を作れるなんて光栄だよ」  甦りはまっぴら御免だが、と二人は握手を交わした。そしてそれは単なる世間話で終わるはずだったのだ。いくら竜血について語ろうと俺達がその効果を確かめるにはスマウグの血を手に入れるより他に方法がないのだから。さればこそフィーリも俺もスマウグに関して要らぬ雑学を手に入れた程度の認識で済ませていた。  だのに、その些細な好奇心が今後の旅を大きく覆そうなどと誰が思おうか。叔父貴だって、否、ガンダルフにだって分かるまい。しかしたったひとつだけ、俺が王家の名に掛けて誓えることがあるとすれば、それは、竜血の話なんて訊かずにさっさと立ち去れば良かったということである。 *  あと半日もあれば何某の家が見えると励まされて迎えた三日目の白昼、俺達は冬の足音を背負う秋風に身を引き締めて見晴らし良い草原を影のごとく横断していた。言わずもがな、命がけの行幸である。なんたって視界が良いということはオークに発見されやすいことと同義なのだ。 「スキラ。しんがりを頼む。お前さんに任せたほうが良いじゃろう」 「かしこまりました。賢者ミスランディアの思し召し通りに」 「おぬしはいつも一言余計じゃ」  スキラは軽口を叩いて最後尾へ移動する。珍しく素直だ。だが、しんがりなんて大丈夫だろうか。彼女が魔法使いの命によって毎晩長いこと見張りをしているのは誰もが知るところだ。俺はスキラにばかり負担を掛けるガンダルフの意図が読めず疑念を抱いた。後列を固めるべくその人は背後へ回ったが、逞しい叔父貴や大柄なボンブールと並び歩く姿に違和感を拭えなかった。  案の定、フィーリは背後ばかり振り返って気が散じている。ビルボも「大丈夫かな」とボフールに囁きかけた。ほら見ろ。みんな心配なんじゃないか。だから俺も指示を無視してスキラの側へ行かんと目を向けた時だ。僅かに揺れる葉叢を認めて戦慄した。 「……ボンブール! 左だ!」  まったく予期せぬ方角から魔狼に跨がった一匹の斥候オークが降って湧いたのだった。美しい刀剣を鞘から引き抜く叔父貴、驚いて尻餅を付くボンブール。しかし誰よりも迅速にことをなしたのはスキラである。その人は前振りもなく鷹揚な動きで、されど的確に疾くと魔狼を仕留め、返す身体でオークの口を己の細腕で封じ不快な絶叫に蓋をした。  果たせるかな、大仰に抵抗するオークは華奢な腕を喰い千切らんと牙を剥く。すると赤き鮮血が彼女の外套を、露に濡れた大地の草葉をしとどに濡らし、地面に大小の染みを作った。人の娘はやにわに怯んだが暇がかる間に持ち直し淡然たる態度でオークの後頭部を抑え付ける。かくしてスキラは冷たく穏やかな面持ちで食い込む歯牙を眺めるだけ、怖めず臆せず「痛い」と平坦な声でぼやいた。 「おい、血が」  呆然とした叔父貴の声音。彼を含め、俺達はその人の血を見たのは初めてだったと思う。理由は簡単だ。スキラは今までかすり傷一つ負ったことがないのだ。だからこそ俺達は動揺したし、ガンダルフでさえ「何ということじゃ」と我が目を疑った。ぱたぱたと血汐が滴り、一部は大地へ、吸収し切れなかった残りが叔父貴やボンブールの足元へ流れゆく。それを見て我に返ったトーリン叔父貴は背後から敵を討たんとオルクリストを振りかぶった。 「待って。トーリン、もう少し」  すると彼女が、しい、と沈黙を促して留まることを知らぬ紅の流動へ意識を預けた。辛抱強く何かを待っているようだった。それは言葉か現象か。釣られて俺達も待つ。待つ。待つ。そのまま一瞬とも永遠とも似つかぬ時間が流れ――やおらスキラが肩の力を抜いた。  ああ、それから、思い出すだけで頭の芯が冷える出来事が起きたんだ。だけどきっと俺は知る運命だった。知らぬが花なんて大人はいうけど、無鉄砲な俺にゃ当て嵌まらない諺だったんだよ。じゃなけりゃあの時、オークの醜い四肢が痙攣を始め、目玉がぐるりと裏返る凄惨な光景を目撃するはずがない。それはなんとおぞましく、吐き気を催す姿だったことか。  やつは最期に大きく仰け反って泡を吹き臭い中身をまき散らして絶命した。何が起きたかなんて誰も理解していなかったろう。唯一、手早く斥候を片付けたスキラだけが冷静で、彼女が流れるような仕草で敵を放ると鮮やかな血潮が線条に飛び散り、俺は本能的な恐怖に身を震わせた。 「大丈夫か、スキラ。怪我を見せなさい」 「オイン。触らないほうが」 「何をいっとる。傷が深いだろう。患者を診ない医者がどこにいるかね」  真っ先に沈黙を破ったのはオインだった。叔父貴お抱え医師は現場へ駆け寄り、その手を染める鮮血も介せず手早く傷口を縛った。それから白目を剥いて息絶える敵を一瞥、「毒か」と悪臭に渋面するのだ。  もし――もしも死因を下したのがオインでなければ、きっと俺はその結論を導き出さなかったろう。だけど俺は確信してしまった。その予感は絶対だと。だって「結論」へ辿り付くための材料が揃いすぎていたのだ。時宜も、人も、出来事も凡て。  白状するよ。愚かにも俺はこう考えたんだ。あの毒はただの毒じゃない。スキラが腕へ仕込んだ毒でもなければオークが自分で飲んだ毒でもなく、竜血の毒だ、と。笑えよ。有り得ないって。だけどちっぽけな脳みそから生まれた阿保らしい考えが始終頭に纏わり付いて離れないんだ。  匂いを嗅ぎつけたアゾグの一団が地響きを立てて巌の頂き、碧落より雪崩れ来る。スキラは沈思して無言の内に立ち尽くしていた。亡霊のように蒼褪めるその人は静かに見下ろす。オークの無残な死体を、包帯へ滲む赤い染みを。その面差へ浮かぶもの寂しさは一種、絶望のような仄暗さを抱き、俺の裡へ漆黒の影を落とした。 「何をしている、早く逃げろ。おい、スキラ! 失血で呆けている場合か!」  血跡を凝視して動かぬ彼女に叔父貴が声を荒げた。厳しくも労り深い彼の言葉ではたと正気を取り戻したスキラは無傷なほうの右腕を引かれてよろけるも、折節、こちらと視線が絡まった。愁いを含む優しい微笑み。それを受けて、彼女はやはり人間に違いないと思いなす。しかし心の底では、それは人でもエルフでもなく――そしてただの火竜でもなく――魔力を持った竜なのだと、一人先駆けて遙けき真相へ辿り付いていたのだった。

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