藍傘Night 0 嵐前夜
第三夜 雨余
史桜は息苦しさを感じて覚醒した。肌寒い風が鼻先を通る。重い瞼を開くと高い天井が広がっていた。しとしと、しとしと。屋根瓦に雨粒が当たる音が心地いい。絹のような肌触りのよい布団の中、身じろぎ一つせず耳を澄ませていた。絶え間なく続く音の連なりが煩雑とした思考を遮る。こんな静かな夜を迎えるのはいつぶりだろう。車の音もしない。時計の音も、電車の音も、彼女が生きていた都会に欠かせぬ音は何一つ。 史桜は見知らぬ天井に戸惑いを覚える一方、今の状態に満たされている自分を悟った。心は無に、清涼な空気と溶け合う。深呼吸して、少しずつ蘇る記憶を手探りでたぐり寄せた。 「……で、結局ここはどこなのかな」 障子に畳。金箔の屏風に高価そうな壺。部屋の隅で健やかな眠りについている老女は着物に身を包んでいる。豪奢な装飾だが、見たところ普段着のようだ。生地は柔らかく、老女の身体によく馴染んでいた。老女の寝息を確認すると静かに布団から抜け出た。史桜はブラウスのまま寝かされていたらしい。息苦しい正体はこれか、と合点がいく。それから枕元に畳まれたジャケットと着物を認め、風呂敷に包んだそれを胸に抱いた。 一カ所だけ開いた障子から外を伺った。そこは庭に通じていた。噎せ返る土の匂い。庭の真ん中に溜め池があった。その上を渡した赤塗りの橋は雨に打たれ、こつこつと固い音を響かせる。 「(どっかのお屋敷みたい)」 この庭はどこまで続くのだろう。鬱蒼と茂る木々は避暑場に相応しいが、こんな雨の日は不気味以外の何物でも無い。彼女は庭と外界を仕切る壁の高さを目測した。次第に強くなる雨脚は絶好の脱走条件だ。しかし、女一人でよじ登るには高すぎた。史桜は先ほどまで寝かされていた部屋を一瞥する。老女は起きない。史桜は意を決し、庭沿いの廊下へ足を踏み出した。 不思議と誰にも出会わなかった。ふすまで仕切られた部屋からは明かりが漏れている。それを頼りに出口らしきものを探すが、辺りに人の気配はしなかった。 「(あの人はどこだろう)」 外へ向かうさなか、無意識に、手を差し伸べたあの人、家定公を探していた。勝手に逃げるより、あの人を頼ったほうがいいのかもしれない。そんな考えが脳裏を過ぎる。将軍と名乗るからには発言力があるのだろうし、「わしが保護する」と断言した手前、害なすはずもない――おそらくは。史桜は外へ出る前にあの男を捜すことに決めた。家定公に何か魂胆があるなら、乗ってやるのも悪くない。安全を確保するためには、多少の我慢も辞さないつもりだった。 しばらく進むとなんとなく優美な装飾の部屋の前へ辿り着いた。行灯の火は立ち消えている。至極視界が悪かった。加えて人気もない。史桜はぬめる足下に注意しつつ障子の隙間から身を滑り込ませ、息をひそめて目を凝らした。そこに家定公が横たわっていた。死んだように――まさにその表現が的確なのだ――彼は布団の中で瞳を閉じていた。忍び足で近づく。部屋の外で仕える家臣も、護衛もいない。この部屋で史桜の存在を家定以外に知られる心配はなかった。 「起きてますか、家定公。あなたと話したい」 史桜のささめきごとが部屋に響いた。そして布団の傍らへ腰を下ろそうとしたその刹那。鈍く光る銀の閃光が視界を遮った。 「マレビトとあろう者が、そんな貧弱な男に頼るのか」 本日何度見たか分からない本物の刀が壁に突き刺さっていた。小振りだが、史桜や家定公など一差しで絶命させられよう。彼女は風呂敷を取り落とし、驚愕のあまり声を失った。 「ふん……こんな小娘がマレビトとはな。もっと妖艶な姫君を想像していたのだが、期待はずれのようだ」 刀に付いた血潮が壁を伝い落ちる。戦いからは幾分時間が経っているのだろう。刀身に乾きかけの黒い液体と赤い鮮血がこびりついていた。この男には見覚えがあった。色素の薄い金糸、赤い瞳、白い着流しに黒の羽織。光を越えようとした時、彼女をこの場へ引き留めた男だ。何者か、はたまた何しに現れたのか。両方の意味を込めて後退る。しかし男は「安心しろ、外にいた虫けら共はすべて俺が片付けた」とまったく意に介さない。 虫けら――意味が分からず外へ通じる隙間を見やる。そこに先ほどまで見えなかった塊がごろごろ散らばっていた。暗闇に目が慣れると、その様がつぶさに見て取れる。そう、居ないものだと思っていたが、この部屋に家臣はいた。ただ息をしていなかっただけで。ぬめる液体が血だったと気づくと全身に震えが走った。 「……あなた、何」 あらゆる意味をこめて問う。すると男は、ようやく俺様に興味を示したか、と呟き「俺は風間千景。西国の鬼の頭領だ」と名乗った。 「マレビト、なぜお前はここにきた」 「その問い以前に、そもそもここはどこですか」 「どこかも知らずきたというのか。マレビトとは存外愚かなのだな」 いちいち勘に障る男だ。言動の怪しい人間とわざわざ関わりをもつ必要もない、と判断した史桜は黙秘する。そんな彼女を思いやる様子もなく、風間はずかずかと歩み寄る。 「お前はこの世界の人間ではない。自分でもわかっているのだろう、ここがお前の生きてきた世界と異なることに」 「まあ……少なくとも、時代が違うことは分かりますけど」 「それこそがマレビトである証だ。そしてマレビトは、我々鬼にとって忌むべき存在だ」 風間の赤い瞳が闇夜にきらめいた。それだけが妙に存在感を持ち、史桜はまるでその瞳とだけ話している錯覚に陥った。 「マレビトは鬼を惹きつけ、狂気へと突き落とす」 強大な力を持った鬼ほど惹きつけられる力も強い。それは、時代が動く前触れとなる。 「……鬼、とは?」 先ほどから当たり前のごとく「鬼」という生き物について話す風間。しかし史桜の中に鬼という概念はない。思い浮かべるとしてせいぜいおとぎ話に出てくる醜悪な生き物だ。大きな身体を持ち、牙と角が生え、棍棒を振り回して人々を困らせる見目汚らしい悪者だ。だが、目の前の男を「鬼」と呼ぶには、いささか美しすぎた。 すると意外なことに問いの答えは風間の隣から返ってきた。それも、風間本人が答えるより遙かに丁寧かつ分り易く。 「人を凌ぐ力の持ち主を総称して鬼と呼びます。人と似て非なる存在、姿形は人に似ていますが、鬼と人間はまったく違う種族です」 そう答えたのはがたいのいい色黒の男だった。燃えるように赤い髪を冠にたくわえている。強面な顔と裏腹に、柔らかな態度で史桜へ接する。 「天霧、余計な口出しはいらんと言ったはずだが」 「失礼しました。しかし彼女が動揺していたものですから。風間、少々やり過ぎではありませんか」 「俺には俺のやり方というものがある」 「そうでしょうか……平静を装っていますが、彼女は随分怯えていますよ。わざわざ危険を冒す必要はありません。マレビトを興奮させると何が起きるか分かったものではないと仰ったのは風間、あなたではありませんか?」 お目付役のような口うるさい男にやり込められると、風間は不機嫌そうに唸った。史桜にとって渡りに舟といったところか。風間はしばし躊躇っていたが、次の天霧の一言でようやく身を引いた。 「将軍殿が目を覚まされたようです」 「……忌々しい男め」 風間の呟きは、天霧ではなく、下から注がれる熱心な視線に向けられていた。家定はぱっちりと目を開いている。死んだ訳ではなかったようだ。史桜はこの場にそぐわぬ安堵を漏らした。 「久方ぶりじゃの、鬼の頭領」 風間はひっきりなしに瓦から垂れる水滴をにらみ付ける。家定と視線を合わせようともしない。意識だけは家定へ、死に損ないがなんの用だと返した。すると家定は起き上がり、史桜の隣へ立った。 「いかに鬼を束ねる者といえど、おなごに乱暴してはいかん」 「俺様がお前の指図を聞くとでも思っているのか」 「指図ではない。このおなごがお前達にとって脅威だと云うなら、わしが保護しようと提案しているのじゃ」 「ふん。その娘のせいで、お前は俺様に殺されるかもしれないのに、か」 ――随分とお人好しになったものだな、奇人・家定公も、と皮肉たっぷりに囁かれる。 時代が変わる。それは家定にとって、栄華を誇る徳川の終わりを意味していた。そして栄華の終わりは、長い間江戸幕府に虐げられてきた者たちによって為されるはずだ。風間や鬼の一族も例外ではない。しかし家定はただ嗤うだけだった。風間に殺される前に命尽きると知っていたからだ。風間はその笑みを冷ややかに見下した。 「十三代将軍家定殿がなぜそこまでマレビトに執着するのか、非常に興味深い」 「わしには、鬼がなぜマレビトを憎むのかが疑問じゃが」 臣下が今の家定を見たならば、今まで将軍は奇人の演技をしていたのだ、と思うかもしれない。もっとも残念なことに、家定は奇人だと陰口を叩いていた彼らは、風間の手により絶命していたが。 「……いいだろう。時が来るまでお前の好きにするがいい。俺たちは別段、マレビトを欲している訳ではないからな。煮るも殺すも自由だ」 小さく鼻を鳴らす風間。眉を顰める天霧。 「マレビトよ。この先平穏に生きれるなどと淡い夢を抱くな。時代の変革を見届けるとはそういうことだ、お前がそれを欲しようと欲しまいと時代はマレビトを飲み込む。そして覚えておくがいい、お前が我が風間家に禍をもたらすというのなら、この俺様が全力で息の根を止めてやろうぞ」 ゆめゆめ忘れるな、お前は乱世の火種なのだから――不穏な言葉を残して風間は外へ続く障子を開けた。そこにもう一人、青い髪の男が立っていた。彼らは互いにそれとわかる程度に頷くと音も立てずに姿を消す。いつの間にか雨は止んでいた。とりとめない不安や考えが史桜の頭を占拠していた。家定は頭〈かぶり〉を振る。先に取り落とした風呂敷から藍色の着物が飛び出ていた。家定はしとやかな手つきで優美な着物を広げ、ぼんやり佇む史桜の肩へそっと掛けた。
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