藍傘Night 0 嵐前夜

第四夜 碧落

 そこは広い世界だった。いや、平たい世界といったほうが正しいかもしれない。江戸城から見下ろす町並みは煤にまみれ僅かな炭を残して崩れ去っていた。 「ひどい有様ですな」  年老いた男の呟きが史桜の耳に入る。幸い政治の中心である江戸城は無事だった。それだけが救いだと男は続ける。歴史的な大災厄から一夜、旗本たちはせわしなく城内を走り回っていた。 「して上様、あの娘、何者なのでございますか」 「知らぬ。だがわしが預かる。わしの側仕えでいいじゃろう」  飄々と答える家定公に部下が抗議していた。史桜はその隣の部屋で、配給された着物へ袖を通す。自分の世界から持ってきた着物は業者から直接受け取った高価な品だった。史桜の一年分の給料を積んでも買えるかどうか疑わしい。帰った時のこと、もしくは帰れなかった際、売り払い、生活資金にすることも視野に入れて大切に保管することにした。  ふすまの向こうでは彼女の処遇について会議をしている。しかし難航しているようだ。史桜は不安を胸に、帯を締めた。 「史桜どの、お持ちになったお着物はお召しになりませんの?」  家定の乳母、歌橋が首を傾げる。 「私が着るには豪奢すぎます」 「ほんとう、すばらしい反物ですものね」  歌橋のため息と、鏡台に移る自分を見た史桜のため息が重なった。 「反物屋でもなさっていたのですか」 「ええ、少し。似たようなことを」  史桜は曖昧に笑って誤魔化した。そして再び深い嘆息を漏らした。一体全体奇妙な話である。どうして彼女はこの世界に来てしまったのだろう。何が切っ掛けで? 何のために? 「理由なんて、ないのかもしれない」  彼女が考えるべきはこれからのこと。感傷に浸るのはいつでもできる。運良く、命が危ない訳でもない。生きていれば何かしらわかるだろう。と意外にものんきに構えていた。  将軍の待つ部屋へ足を踏み入れると、幾つもの目玉が一斉に彼女を捉えた。将軍、その次に偉い大老、今朝往診に来た医者、そしてこれは初めてみる顔だが、人が良さそうな初老の男――彼は別件で居合わせたようだ。史桜はこの医者が好きではなかった。彼は昨晩会った男と同じ臭いがした。しかしもっと粘っこく、探るような視線で史桜を見るのだ。 「準備は整ったようじゃな」 「素敵なお着物ありがとうごさいます」 「かしこまらんでもよい。そなたの価値と比べればたいした品じゃないのでの」  そう言って将軍は、緊張気味に固まっていた相好を崩した。なぜ彼が自分にこだわるのか、史桜は知らない。ただ簡潔に「痛みが鎮まるから」と説明されただけで。しかし果たしてそれだけのために周囲の反対を押し切ってまでただの小娘を保護しようとするのだろうか。それだけ痛みが激しかったのか。それとも、将軍という人間の為すことを理解しようと思ってはいけないのか。とにかくも、慣れるまでのしばし、家定公の側にいるのが最善だと判断せざる得なかった。 「永倉取り次ぎ役、城下町を案内してやってくれんか」 「はっ……? わ、私が、でございますか?」  上機嫌な将軍は、初顔合わせの男へ役を振る。しかしすぐに大老が口を挟んだ。 「上様、お忘れですか! この娘は昨晩の厄災を引き起こした張本人かもしれないのです。牢屋に入れておくべきです」   まるで、城下に連れて行けば脱走しかねないと言いたげな物言いだった。史桜はむくれ面をしたが、やむを得ないことだった。なぜなら昨晩、三人組の賊――表面上はそうなっているらしい――が侵入した際、運悪く史桜もその場に居合わせた。そのことがますます彼女の疑惑に拍車を掛けてしまったのだ。 「そんなことをすればお前が牢屋行きじゃ」  しかし家定はあくまで史桜の擁護に回る。将軍という後ろ盾は行く当てもない彼女には願ってもない幸運だった。 「この娘がそばにおるとわしの痛みが引くのじゃ。痛みが引けばわしも政に参加できる。お前たちとて、わしが早々と引退しては立場が危ういのじゃろう。だったら言うことをきかんか」  歌橋曰く、家定と敵対する一橋派が虎視眈々と将軍の地位を狙っている。しかも身体の弱い家定は将軍の役に就いた時から既に跡継ぎ問題で揉めていた。もし彼らと別の一派が高い地位に就けば、権力をふるい易くするため、いまの高官は一掃されることだろう。――かつて彼らがそうしたように。大老は饒舌な将軍に眼を剥いた。 「それにわかっておるのか。彼女は昨晩、わしを守ってくれたのじゃ。彼女とわしだけが生き残ったのはそういう理由じゃ。恩人を罰せよとは……お前達も大層なことを言うものじゃな」  実際には史桜が将軍に守られた形だった。しかし作り話が入っているのは敢えて言及しない。彼女だって平穏に暮らしたい。よって多少の嘘も方便である。朗々とした演説に部下たちは縮み上がった。結局「将軍の側仕え」ということに纏まり、大老は初老の男を率いて渋々退出した。後に残されたのは家定、史桜、歌橋、医者。家定は身を崩し、だらしなく地面に伏した。 「家定さま、ありがとうごさいます」 「よい、礼などいらぬ。だがそうじゃ、次はお前のことを聞かせてくれぬか」  ここにいる人間は信用できるから、と彼は後押しする。史桜はお世話になる以上、多少のことは話すべきだと判断し、覚えている限りで説明した。 「……つまり、気付いたら時代を遡っていた、と?」 「そういうことになりますね」  史桜以外の三人は顔を見合わせていた。 「わしと歌橋は、実際に現れたところに居合わせたからのう。いかんとも否定しにくい」 「ええ、大変奇っ怪な現れ方でした。家臣が魔物だと騒ぐのも無理ありません」  すると綱道も鷹揚に腕を組んだ。 「昨晩の男はあなたを『マレビト』と呼んだのですね」 「はい」 「実は私もマレビトの伝承は聞いたことがあります。異なる世界からやってくる来訪者のことです。未来も一種の異界と見なすことができるでしょう」  どうやら三人とも信じる方向に向かっているようだ。だが史桜自身、未だ信じ切れていないのも事実で。 「帰れないのでしょうか」  彼女は詳しそうな綱道につのった。医者は困ったようにのけぞる。 「そこまでの知識がないので何とも。ただ西洋の技術をもってすればあるいは……」  すると家定の表情がこわばった。 「ならん。わしが死ぬまで帰ることは禁ずる」  必死に主張する家定を一瞥し綱道は微笑んだ。なぜだか史桜はその笑みに震えが走った。 「まぁ慌てなさるな。史桜どの。兎にも角にも家定さまのお側にいれば安全だよ。……ところでどうだろう、息抜きに街に出てみないかい」  昨晩で壊滅状態だが、一部はまだ活発に動いているらしい。将軍にもこの土地を知るべきだと促され、強制的に外へ連れ出されることになった。しかし綱道と共に、というのが酷く嫌だった。だから史桜はつい、こんなことを口走っていたのだった。 「永倉取り次ぎ役さんとご一緒がいいです!」 * 「……で、どうして私なのでしょう」 「すみません口が滑りましたご迷惑お掛けします」  史桜の希望通り永倉取り次ぎ役と共に出かけることで事は落ちついた。どうも家定は史桜に甘いらしい。「そういう趣味か」と妙な方向に納得されたが、綱道から逃れられただけで万々歳だった。 「お上も人が悪い」 「あのほんとすみません」 「ああいや、いいんですよ。私にも息子がいましてね。ちょうど暇していたところだったから、あれに案内させようと思います」  それとも私がいなくてはだめですか? と問われ、慌てて首を横に振った。綱道以外なら誰でも、そんな思いをしっかり読みとられていたらしい。 「新八、稽古から帰っているか」  城からほど近いところに永倉家はあった。周りの家も健在である。大半の家が火災で失われたが、おそらく風上だったのだろう。ここは昨晩の災厄を逃れた地域だった。 「いるなら返事をしなさい」  取り次ぎ役は再び大声を出す。と、不意に後ろから粗雑な返事が返ってきた。 「んな大声ださなくても聞こえてるっつの。なんなんだよ親父、俺は町の手伝いで忙しいんだぜ」 「ああ今戻ったのか。お前に重要な頼みがある」  振り返ると、筋骨隆々の男の子が沢山の竹刀を担いで立っていた。永倉新八、後の新選組幹部である。父親は二人を紹介すると、幾ばくかのお小遣いを渡してさっさと城に戻ってしまった。夕刻に永倉家で待っていて欲しいとだけ告げる。  残された二人は黙り込んでしまった。史桜は横目で男の子を観察した。すばらしい体格をしている。それをさも自慢するかのように着物の前が大きくはだけていた。しかし嫌味ではない。性格なのだろうか、たいした色気も感じられない。短く刈り込まれた薄茶の髪が風になびいた。 「いや親父、意味わかんねえし……。まぁいいや、史桜ちゃんつったか、町に出て上手いもんでも食おうぜ」  郊外へ向かって歩くと、旅人向けの店が立ち並んでいた。新八は面倒見の良いお兄さんだった。史桜は外見上縮んでいるため、精神年齢としてはおそらく上なのだが、安心して身を預けることが出来る男だった。 「ふーん、江戸は初めてなのか」 「うん。今将軍の側仕えとして置いてもらっているの」 「大変だな、そんなうら若い女の子が城で一人奉公たぁ! 俺なんて道場に入り浸りだぜ」 「ということは新八さんは刀が好きなんだ?」 「ああ、史桜ちゃん、今のうちにしかと俺の顔を見とけよ! 俺はいつか世界一の使い手になるすげぇ男だからな」 「ふふ」  史桜が生きていた時代にこれほど気概ある若者がいただろうか。とても眩しかった。幕末は乱世の時代と記憶していたが、そんな悪いものではないかもしれないと微笑んだ。しかしふと新八の顔に暗い影が差した。 「けどよお……相手が家定公ときいちゃ心配だな、おい」 「どうして?」 「表立っては言えねぇが、家定公の跡継ぎ問題は年々激化してるって話だ。家定公の側にいて史桜ちゃんが巻き込まれなけりゃいいが」 「そんな酷いの?」 「暗殺なんて日常茶飯事だぜ。それに家定公を保たすために、西洋のヤバイもんにも手出してるって話だ」  相当危険な香りがするのは気のせいか。しかし彼は良い人のようだ。粗雑かつ、女の子が側にいるのに他の女の子を褒めるなど――見ろよあの子可愛いなぁ、を少なくとも三回はした――女の子の扱いは慣れていないと見受けるが、純朴で優しい人だった。  片や幕府など他の人間は完全に信用できると言いにくい。果たして家定も何を考えているのやら。直感が、新八を頼れと告げていた。 「あの、また伺ってもいいかな」 「おうよ。俺で良ければいつでも頼んな」 「……ありがとう」  史桜は餡蜜を頬張った。自然に広がる甘みがとても美味しかった。癖のない味はやみつきになりそうで、ほろりと溢れた涙は只はらはらと、何の感情を伝えるでもなく流れ落ちる。史桜は目に埃が入ったのだと誤魔化し夕空を見上げた。随分と話し込んでいたらしい。このまま逃げてしまおうかと心を過ぎる。しかし将軍ならば全国に追っ手を放って彼女をとっ捕まえそうである。それくらい自分に対する執着を感じた。 「これから、どうなるのかな」 「さあなぁ。俺にもわかんねぇや。だが確実に言えることは一つある。――これからは、動乱の時代だ」  史桜の背中に戦慄が走った。昨日言われた言葉が鮮やかに脳裏に蘇る。お前は乱世の火種だ――そう、この時代で日本は変革を迎える。そしておそらく史桜も無事では済まされないと、鬼を名乗る男は予言した。 「だけど俺は生き延びるぜ。生き延びて生き延びて、刀を振るい続けんだ」  俺には付いてくるなよ、と彼は豪快に笑った。 「なんで?」 「なんでって……俺は刀を振るうために生きてんだ。史桜ちゃんなんて付いてきたら危ないだろ」  最もである。その言葉通り彼は一年後の秋、道場で本目録を承った後、脱藩する。史桜が永倉家に養女入りしてすぐのことである。そして彼女は、その思いとは裏腹に、時を紡ぐ動乱へと巻き込まれていくのであった。 序章完結/一章へ続く

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