藍傘Night 1 花散嵐

第五夜 月霞

 星冴ゆ冬月。蛍火のようなささやかな松明を頼りに京の町をひた走る。雪の香を含んだ風が史桜の黒髪を揺らす度に松明の炎が不安げに揺れた。振り返らずとも長州の面々がすぐ後ろに迫っていることがわかる。史桜は肩で荒く息をしていた。だが疲れも忘れるほどに無我夢中で足を動かした。屯所まではあと少しなのだ。この書状さえ無事に届ければ自分は死んでも良い――とはさすがに言い過ぎだが、この文を新選組の許へ届けぬことは許されない。そんなことをしでかそうものなら即刻打ち首、もしくは羅刹の餌にされても文句は言えまい。史桜は迸る血潮を浴びて哄笑する羅刹達の姿を想像し、胃の底が薄ら寒くなった。 「今は、死ねない」  刺客へ、というよりは、自分へ言い聞かせるように。しかしその間にも追っ手の長刀が煌めく。鋭い切っ先は流れるような漆黒の髪束を一房削ぎ切り、彼女は肩で大きな息をした。 「待たれよ! その書状、新選組の許へ届けさせる訳にはいかぬ!」 「おい先回りしろ、あの小娘を挟撃するんだ!」  いつの時代も暗殺業というのは手段を選ばない。彼女は天を仰いで何か思案した後、はだける着物も意に介せず、民家の屋根をよじ登った。今夜は殊に冷えるようだ。まだ中秋だというのに、雪まじりの夜風が青緑色の衣越しに肌を突んざく。金刺繍が施された袖口で口元を覆い、彼女は出かけたくしゃみを抑えた。  ――このままでは切り刻まれる。  嫌な確信を胸に史桜は次なる襲撃に備えて息を整えた。その折りだ、どこかからか響く剣戟を耳にした。何者かが激しい戦闘を繰り広げているようだ。色んな音がさやかに響く高所から、滑り落ちないよう注意を払いつつ清澄な空気に耳を澄ませた。三つ、いや四つほど向こうの通りだ。聞き覚えのある怒声が鼓膜を震わせた。 「お、おいおい、なんだよこいつら?」 「この回復力……ただ者ではない。気をつけろ」 「んなこたあ分かってんだよ、斉藤!」  一千一隅の奇跡とはまさにこのこと。それはとても――とても懐かしい声色だった。史桜の胸に一気に安堵が押し寄せ、じいんと目頭が熱くなる。 「京にこんな化け物がいるなんて聞いてねぇぞ!」 「やつらは相当俺たちを殺したいと見える。何にせよ、心してかかるべきだ」 「あぁくそ、どうせなら綺麗な姉ちゃんに襲われたかったぜ……!」  永倉新八、もとい史桜の兄は相変わらずだ。何者か相手に刀を振るっているようだが彼から発せられたのは戦場に似付かわしくない暢気な台詞だった。良家に生まれながら刀のために地位も家も捨てた真の武士。彼は刀を極めるためだけに生まれたのだ、と父や母は笑っていた思い出が走馬燈のように蘇った。だがそんな兄とて斬っても斬っても死なない『化け物』相手に疲労を覚え始めたようだ。  ――兄様をお助けしなければ。  史桜は先ほどまでいた通りとは反対側へ降り立った。そしてまた向かいの屋根を登り戦況を確認する。その作業を何回か繰り返した後――不意に史桜を追いかけ回していた男の絶叫が辺りにこだました。急ぎ最後の屋根を登り終えるとそこには想像を絶する光景が広がっていた。 「ちっ。乱闘に入ってくるやつが悪いんだぜ」  そこには史桜の追っ手が凶刃の下、無残に散っていた。どうやら騒ぎの元を史桜だと勘違いして化け物の前へ躍り出たようだ。だが死闘は終わらない。未だ続く戦闘の中、血に飢えた羅刹の一人がゆらりと死体に向かった。新八と、もう一人いる隊士が怪訝な表情を浮かべたが、史桜はこの後に続く行為を予測して目眩がした。 「ぎゃは……はははは! 血だ、血だぁ!」  狂った男は腕を振り上げ、動かぬ人形を切り刻む。  ――これは、人ではない。  おそらくは、新八も居合わせた隊士も、脳裏を過ぎった考えは一つだったろう。 「なんなんだよこいつら……仏で遊んで楽しいのか?」 「死者を愚弄するのは関心しないな」  二人は獲物を構える。だが史桜は知っていた。どんな強靱な人間でも弱点を狙わなければ決して倒せない。それが羅刹。綱道が心力注いで作った羅刹なのだ。血の気が失せるのを感じながら彼女は声を張り上げた。 「弱点は心臓です。心臓を一突きに!」  新八が弾けるように振り返った。人がいる気配は感じ取っていたが、まさか自分の妹だと思っていなかったのだろう。 「お前、史桜か?!」  一瞬、黒髪を横で束ねている隊士と目がかち合った。沈着な瞳の奥に戸惑いと驚愕が垣間見えたが、お構いなしに声を張り上げる。 「落ち着いて聞いてください。その者たちは、心臓を一突きにするか首を刎ねない限り回復してしまうのです」 「……なるほど、心の臓か。助言感謝する」  弱点が分かればこっちのもの。そう呟いて、真面目そうな隊士が表情を緩めた。華奢な、それでいて鍛えられた骨張った手が刀の柄に触れる。微かに、華奢な身体が傾いだ。――と思うや否や、化け物達は絶命していた。あの羅刹を一瞬で倒してしまう剣技を目前に史桜は薄ら口を開けたまま呆然とする。やがて彼は刀を収めると屋根の上で縮こまっていた小柄な女を仰いだ。兄はともかく斉藤と呼ばれた男は油断ない視線を送る。事態が事態なだけに致し方ないが史桜は身も竦む思いだった。 「お陰で助かった。あんたが何者だとか新八とどういう関係なのかとか、聞きたいことは山ほどあるが、ひとまず降りてきたらどうだ」 「それもそうだな。ほら史桜、俺の腕の中にどーんと降りて来い!」  抱き留めてもらうなんて恥ずかしいにもほどがある。羞恥に頬を染めながら薄氷の張った地面へ自力で降り立つと濃い血臭に吐き気を覚えた。追っ手の血と羅刹となった者の血が混じり合う。自分を殺そうとした追っ手と言えど、こんな悲壮な殺され方をしては可哀想だと思った。  「で、あんたは何者なんだ」  複雑な心境で死体を眺める史桜へ率直な疑問を呈するこの男。質問されたのは自分であるにも関わらず彼女はまじまじと相手を観察した。兄と同じく浅黄色の羽織を着ている。刀の長さ、構えから推察して居合いを得意とするのだろう。物静かな口調の中に断固たる決意が満ちていた。 「聞いているのか、あんた」  斉藤と呼ばれた男は眉を顰めた。だが彼女が応えるより早く新八が割って入る。 「んな警戒すんなって。こいつは俺の妹だ。江戸に居たはずだが、俺が恋しくて京まで追いかけてきちまったらしいなー。いやまったく、罪な兄貴だぜ」 「あんたに妹がいたなんて初耳だが」 「ま、家の話はあんましてないな」  なにせ俺は脱藩浪人だからなあ。そんなことを言って永倉はけらけらと笑った。久方ぶりに感じる義兄の温もりへ瞳を細め、斉藤へ向き直った。 「申し遅れました。永倉史桜と申します。こちらにいる永倉新八の義妹に当たる者でございます」  彼女は空に似た新橋色と藍色の着物を身にまとっていた。白い肌は闇夜に凜と際立つ。唇の赤色は見る者に血を彷彿させ、斉藤は戦い前のような妙な胸騒ぎを覚えた。女はやおら眉を八の字に下げ、 「見事な居合い、新選組の斉藤一様とお見受けします。兄がいつもお世話になっております」  それはもう、きっと、謝罪しても仕切れないほど兄が迷惑を掛けていることだろう。万感の思いを込めて深々と頭を下げる。 「たーっ、史桜、んなかしこまる必要ねぇって」  長らく家族と疎遠な新八。息災は風の便りで伝わってくるものの、不確かな情報ばかり。ゆえに密かに妹へ送られてくる手紙だけが新八の両親の心を慰めていたという。小声で花街通いをちくりと刺された新八は「いいか史桜、花街にはな、男の夢がいっぱい詰まってるんだ」と力説するも、女子の共感を得るのは難しいのだろう。傍らで二人を見比べていた斉藤は、やはり新八は女心を解してないのだな、と冷静に分析していた。 「まぁ、は、花街の話は別に良いんだけどよ。史桜、なんでお前が京にいるんだよ」 「大切なお手紙を届けにね」  胸元を指さす。そこから、皺になっているものの、それと見て高級紙とわかる薄鼠色の半紙の片隅が顔を出していた。 「それが例の文とやらか」  斉藤は納得し、疑問を全て解決すべくついと一歩踏み出した。 「ところであんたは先の化け物のことを詳しく知っているようだな。あの人間離れした力、異常な再生能力……俺たちが理解できるように全て教えてくれまいか」 「それは……」  有無を言わせぬ口調に気迫負けする。兄と違って刀を振るう訳でもない。彼女は、ある一点を除いて変哲もないおなごなのだ。だが気迫負けはしまいと史桜は書状を衣の上からきゅっと握り、申し訳なさそうに力なくうなだれた。 「申し訳ありません。ここから先は、近藤様にお会いしてからじゃないと話せないのです」 「局長に?」  その一言で斉藤はだいたいの予想がついたのだろう。話についていけない新八をさしおいて夜半に白い襟巻きが翻った。 「なるほど、それは局長宛の書状なのだな。ならば俺たちが屯所まで案内しよう」  近藤局長といえば粗雑者をとりまとめる猛者だ。こんな簡単にお目通り叶うとは思っていなかった史桜は拍子抜けして肩の力を抜いた。 「え? そんな簡単に会わせてもらえるものなんですか」  そう問うた時だった。冷淡だった男の口調が幾分和らいだように思えた。 「隊士の肉親、というだけでは信用できないが、あんたが悪い人間でないことくらい新八の態度を見ればわかる。俺が近藤局長に話を通してやるから、付いてくると良い」  命を助けられた借りもあるしな、と迷いのない足取りで先を急ぐ華奢な隊士の背を、踏みしめられ、足裏の熱で溶かされた雪面の黒い点を、少女はただ目で追うだけだった。もっと揉めると思っていただけに、無いはずの裏を読んでしまう自分を恥じ入る。 「二人とも、何をしている」 「あぁ、今いくって。おい史桜、斉藤が大丈夫って言やぁみんなも歓迎してくれるだろ。突っ立ってねーで早いとこ戻るぞ」 「は、はい」  兄も奇っ怪な行動をする人間だが居合いの隊士もまた不思議な雰囲気をまとっていた。風の噂でしか知らなかった新選組。この人たちを取りまとめる近藤という人間はどんな人物なのだろうと一抹の不安を抱きつつ、史桜は銀雪に残る足跡を辿った。

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