藍傘Night 1 花散嵐

第八夜 枯芒

 八木邸に間借りしている屯所では広間で集まるのが常だった。沖田につれられて部屋に入ると幹部総出で迎えられる。沖田は柄に手を掛け、歌うように「土方さん、連れてきましたよ。ここで斬っちゃいます?」と、とんでもない冗談を繰り出す。なぜ一日の内に何度も命を狙われねばならないのか。さりとて沖田が本気で言っていないことは分かる。虫の好かない女だと感じているのは真実だろうが、所詮追い出せばいいだけなのだ。  史桜は静かに彼の後ろに付いたまま土方の怒声を待った。 「馬鹿いってんじゃねぇ。そいつは仮にも永倉家の令嬢だ。失礼のないようにしろ」  副長の眉間に深いしわが刻まれた。沖田も負けじと、令嬢をそいつ呼ばわりする土方さんも土方さんだと思いますけど、と軽い調子でなじる。自分が話題の中心になっていることを些か恥ずかしく思いながら、暢気なものだと考えた。これから重要な話し合いをしようというのにまるで緊張感というものがない。史桜と近藤を除いて。  近藤はけんかをおっ始めそうな二人を牽制し史桜に正面へ座るよう促した。 「史桜君、ここに君を呼んだ理由は分かるかね」 「存じております」  新八に呼ばれるならまだしも幹部全員が集まっているのだ。密命に関する話に他ならない。近藤は自分を励ますように咳払いをし、意志の強い瞳で密使を見据えた。 「我々は、受け入れようと思う」  何を、とは言わない。言うだけ野暮だ。近藤は言葉少なに新選組の意志を形にしていく。彼らの言い分は実にシンプルだった。新選組は将軍を支えるための機関。ならば幕府たっての頼みを断っては新選組の名折れだと。つらつらと語られる局長の心情を聞いている最中、史桜は新八と肩を並べている隊士が悔しそうに唇を噛んでいることに気づいた。この場で好き勝手声をあげることを許されるなら今すぐにでも「俺は認めない」と叫び出しそうである。  原田という名だったか。兄同様、ここでの面倒を積極的に看てくれた人だった。みんなの兄貴分、もしくは新八と平助の保護者。そんな印象を受けた。目を奪われていると新八の手が動く。いつも史桜の頭を撫でてくれるその手が、落ち着かせるように原田の肩を優しく叩いた。  原田は肩の力が抜けたようだった。貌も和らぎ、二人は目配せをしてまた局長へ視線を向けた。史桜はつい謝罪の声を上げそうになって思い留まる。折良く近藤が一息吐いたのだ。そして、鬼の副長からずいと書状を差し出される。受け入れると決めた土方もまた納得していない様子だった。今回の件は近藤の暴走にも近いものがあったのかもれない――新選組の立場や保身云々を除いても。 「これがお上への返事だ。それから、俺と近藤さんは後日話し合いに上洛する」 「確かに受け取りました」  唐突な状況変化に慌てたがまさか聞いていなかったなんて言えない。しかし懐に書状をしまいながらも先の原田が気になり、目で探してしまう。不意にその黄色がかった澄んだ瞳と史桜の瞳がかち合った。罵倒されるのでは、と身を固くする。しかし予想に反して、相手は目を細めると思いがけない言葉を紡いだ。 「ありがとな、史桜」  原田は幼子を安心させるように微笑を浮かべる。何をしたわけでもない――むしろ今回の件で沢山傷つけた――のに、お礼を言われてしまった。苦しいのはあなた方のはずなのに――史桜は突として視界がもやに包まれる感覚を覚えた。意識はある。だが世界が半透明な薄膜で隔たれたがごとく急に不鮮明になる。その代わり新しい世界が次々と姿を現した。そこには本来史桜がいるべき世界もあった。けれど向こうからは見えない。かと言って手を伸ばしても届かない。どちらの世界からも隔たれ、マジックミラーのような空間からふたつの世界を眺めるだけ。  明滅する赤、黄色、青の光がひどく懐かしいと思った。この時代にはない箱のような物が列を成して動く。立ち並ぶ建物、道を急ぐ人びとが身につける服は異国のものと似ていた。このまま薄膜を破ってしまったら新八たちはさぞかし驚くだろうと小さく小さく笑った。 「まだ、見えるんだね」  問いかけるように囁いたのは誰だったか。否、史桜に間違いなかったが、自分の声とは思えぬほどの苦痛に満ちていた。ふと、嗚咽のようなものが耳朶を打つ。声の主がどこにいるのかはすぐに分かった。たくさんある薄膜の向こう、至極近い場所でもう一人が誰かに抱かれて涙を流していた。女と男。女はまだ幼かった。少年のように髪を高く一本で結わえていたが、華奢な身体は少女のそれである。  洋装で髪は短くなっているものの、男の顔は見覚えがあった。のぞき見をしているようで居心地が悪い。だが好奇心に負けて身を乗り出す。少女の顔がみえない。破れるぎりぎりまで薄膜を押した。折節、意外なことが起こった。押せば伸びていた薄膜が固くなる。そして花弁とも雪とも判別つかない花吹雪が目の前を覆った――と思うと、不透明だった史桜の世界がくっきりと眼前に現れた。  瞬きして見渡せば部屋の中は明け放れた屯所の窓から入り込んだ桜でいっぱいであった。 「意識がもどったようだ」  気がつくと目の前に斉藤の冷えた瞳が広がっていた。どうやら史桜は座して壁にもたれ掛かっているようだ。周囲を隊士達が囲んで覗き込んでいる。 「てめぇ話し合いの最中にいきなり寝るとは言い度胸じゃねぇか」 「というより、目を開けたまま寝るなんて怖いことするよね、史桜ちゃんって」 「ええと……すみません」  斉藤にたしなめられる。土方に呆れられる。沖田に心配される。やおら今し方見た男はこの中に居るという妙なる確信を抱く。しかし霞がかった頭では判別など不可能だった。あの時女の子を抱きしめていた男は大層柔らかい雰囲気を纏っていた。きっと彼らは想い合っているのだろう。自分のことではないのに、史桜は頬に熱が集まるのを感じた。 「みんな、あんまり心配する必要ないぜ。こいつ昔っから、起きてんのに白昼夢見るらしいんだよ」 「新八。十分心配だろ。医者に診せたほうが良いんじゃないのか」  仲間に解説する兄をぼんやり見上げつつ、原田の反論が左から右に抜けていった。視界の端で、訝しむように斉藤がまた覗き込む。史桜はその目から逃げるように顔を背けた。 『世界は廻る。ぐるぐる廻る』  男と一緒にいた少女。黄昏れるような声が遠くで響いていた。 

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