藍傘Night 1 花散嵐

第九夜 草露

「狂ってる、みんなみんな、狂ってる」  少女の指が宙を掴む。高価な着物の裾が土にまみれるのも介せず、空を仰ぎ、両手を広げながらぐるぐると旋回した。赤い手すりの橋が庭の真ん中へ掛かっている。その縁に腰掛けた中年の男は、手元の皿へごまを振りかけた。おぼつかない手つきは刀や運動などと全くの無縁に思われる。 「ああ、わしはいかれた変人翁〈おきな〉じゃ」  あまり遠くに行くでないぞ、と湯気越しに声を掛けると水蒸気に乗って香ばしい芋の匂いが辺りに充満した。史桜は香りに誘われて男の隣に屈み込んだ。男の顔は青白く濁った瞳は一点に定まらない。若々しい顔つきとは正反対に髪は根元から真っ白に染まっていた。 「違うよ、あなただけが狂ってない」  彼女は男特製芋料理を受け取り、ぷすりと菜箸を突き刺す。よく火が通っている。正室の実家から送られてきた薩摩芋だろうか。甘い香りを胸いっぱいに吸い込み、肺から逃げてしまう前に熱々のそれを頬張った。 「史桜、なぜお前はそう思う?」 「だってあなたのお料理、とっても美味しいもの」 「理由になっとならんな」  それもいつものこと。男は理解不能な発言を追随するでもなく、池の中で丸々肥えた鯉へと視線を落とす。この目も、既に大して使い物になっていないはずだ。だが既に死期が近いことを悟っていた彼は、この娘と在るこの瞬間を謳歌しようと決めているようだった。史桜は柔らかい手つきで彼に器を返す。僅かに触れたその手は冷たい。彼は血気失せた唇を微かに動かした。 「お前こそ狂っておるよ。わしを変人扱いしないのだから。だがお前が元の世界に帰ってしまったら……その時こそわしは狂うのじゃろう」  こんなに、娘のように可愛がっているのだから。そう漏らす彼は、齢百を超えた老人に見えた。史桜はまだ口内に残る角張った芋を舌で転がしながら、その隣の男は池に餌を放り投げながら、静かにせせらぎの音へ耳を傾けていた。

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