藍傘Night 1 花散嵐
第十夜 爛漫
「よっしゃ、江戸だー!」 「元気だね、平助君……」 「なんだよ、お前が体力なさ過ぎんの!」 これくらいでへばってたらどうすんのさ! と史桜は軽い叱責を頂いた。 ここは江戸を臨む山頂。秋麗爽やかな風が足下を走り抜ける度、そよぐ新涼の香が彼らの鼻孔をくすぐった。彼らが京を出立した頃には八木邸の狂い桜もだいぶ散ってしまっていた。花の命はなんと短いのだろう。瞬きした時にはもう、元あった場所に花弁はないのだ。その狂い咲きから一転、史桜たちは真っ赤な山中にいる。熟した栗の実を見つけて一つ、二つ拾う。永倉家への手土産にと休憩の度、籠に入れて歩く史桜を平助はからかったが、馬鹿にはしなかった。 「新八っつぁんも連れてくれば良かったのに。久しぶりに家族に会えるかもしれないんだし」 ま、脱藩浪人なんだからそう簡単にも行かないか、と平助。 「そうだねえ……でもきっと、お咎めなしでも戻らないよ、兄様は」 「なんで?」 「男の意地なんだって」 「なんだよそれ」 戻る場所があるなら戻ればいいのに、選べるだけ良いじゃん、と長い髪が揺れた。そこに込められた寂寥の糸を読み取れず、史桜はひらひらと舞い落ちる枯れ葉を見上げた。無性に胸が締め付けられる心地がする。この世に生きる限り、人とて草木と何ら変わらぬ存在なのだと。そう言われている気がしたのだ。だが感傷に耽っていると、顔にべたりと大きな葉が張り付く。似合わぬことはするなと言われているかのようだ。史桜は名残惜しさを覚えながら切り株に腰を下ろした。 「平助君、休まない?」 「えー? なんだよ、もうへたったのかよ!」 「半日歩き通しなんだよ。そりゃあ疲れるって……」 平助の体力は無尽蔵だった。だのに剣術はおろか武術もまともに出来ない娘に随分と無茶なことを言うものだ。――だからこそ平助はこの旅に付き添っているのだが。 平助は書状の返事を持って帰る史桜の護衛として江戸まで来ていた。前述の通り史桜は武術の心得がない。新八に習いたかったのだが、兄と一つ屋根の下にいた期間は非常に短かったし、気づいた時にはもう出奔していた。 「平助君がタフすぎるんだと思う」 むろん永倉家に恥じぬよう合気道は学んだ。が、人には向き不向きというものがある。女の子相手にならなんとか、と史桜の実力はそんな程度だ。とてもではないが帯刀した浪士に遭遇して五体満足で逃げ切れる自信はない。そういう理由で江戸へ寄る予定だった平助に、ついでの副長命令が下された次第だった。 「んじゃあ……休憩といえば?」 「はいはい、ご飯ですよねー」 お日様は高い。ここで多少休憩しても今日中に街へ入れるだろう。荷物を下ろして乾飯を取り出すと、平助の毛先が嬉しそうに飛び跳ねた。 「いよっしゃあ! 待ってました!」 「あんまりはしゃぐと崖から落ちちゃうよ」 「大丈夫だーって、んなヤワじゃないんだし!」 太陽を受けて輝く平助。どんな時でも前向きな姿はとても眩しい。隣に腰掛けると、彼は眼下に広がる江戸の街を見下ろした。木々の清爽な空気を肺いっぱいに満たし「江戸を離れてから一年も経ってないのに、懐かしいなー」としきりに頷いた。 「新選組って元々は江戸が本拠地なんだもんね」 「そ、まぁ俺は途中から入ったから、壬生狼時代から一緒だった左之さんや新八っつぁんみたいに、そこまで長い付き合いじゃないんだけどね」 屋敷で出会うより以前から原田左之助の名前は見覚えがあった。新八の手紙で何度も見かけていたからだ。二人は江戸を飛び出してから直ぐの知り合いだという。近藤局長の道場で共に汗を流した腐れ縁、といったところか。それに引き替え平助は北辰流という別流派の道場に属していた。だから少し――史桜にとっては十分長いと思うが――だけ付き合いが短いのだ。 「平助君は若いんだから、兄様と原田さんの付き合いより短くて当然だよ」 「まあな。昔から新八っつぁんと一緒だったら、俺かなりひねくれて育ってた思うし」 史桜は幼い平助が原田と新八にやんややんやと弄られている図を思い浮かべた。それから盛大に吹き出す。小さい平助君は可愛いだろうな、と脳裏を過ぎったのは超極秘事項である。 「ぷっ」 「ちょっ史桜! 何で俺の顔見て笑ってんだよ!」 「いや、なんでも……」 「絶対に今なんか想像したろ!」 自分の方を向かせようと暴れる平助に逆らいながら、平助が幼くても喧嘩の規模が小さくなるだけで、新八達の扱いはさして変わらないかもしれない、などと失礼なことも考えた。平助との旅は史桜にとって楽しい時間である。本来ならば未婚の武家の娘が殿方と共に往来を闊歩することは許されない。しかし幸い町中ではないこと、そして「雇われ護衛」と「雇い主」いう身分ならば体面を気にする必要もなかった。 事実、彼女にとって新選組は居心地が良かった。そこは自由の世界だった。武士という指針を胸に自らを律する志士達。本来武士というのは誰にも支配されない高潔な精神を持つ。武家出身者が少ないにも関わらず、新選組にはその精神がさやかに息づいていた。 ――この頃からかもしれない。史桜が幕府という頸城〈くびき〉を厭わしく感じ始めたのは。そして数年後、幕府や武家という枠に嫌気が差したこ彼女は兄同様「脱藩」の罪を胸に掲げることとなる。ひとしきり笑ったら消耗した力が戻って来る。彼女があまりおいしいとは言えない携帯食を食べ終わったのを確認すると、平助は立ち上がる。 「さて、いくか! 今日こそ宿で寝たいしな!」 「うん」 昨日まであんなに疲れていたはずなのに、目的地がすぐ目の前に迫っているというだけで活力が湧いてくる。軽快な足取りのまま先を行く平助が口を開いた。 「史桜は江戸に着いたらどうするんだ」 「書状を無事に渡したら、土方さんと近藤さんを待つよ」 「ふーん」 思案深げに頬を掻く平助。 「その後は?」 「ん?」 「だからその……その後は、どうするのかなって」 「……普段の仕事に戻るかな」 その声が震えていた気がして平助は振り返る。だが、彼女に別段変わった様子は見られなかった。きりりとした横顔は新八が敵と対峙した時に似ている気がした。得意分野は正反対であるものの、ざっくばらんな気質は瓜二つだ。平助は、彼女が剣士で俺が敵だったら見惚れている間にざっくり斬られているな、と取り留めのないことを考えた。 「史桜ってさ、江戸で働いてたんだよな」 「うん」 「でも、武家の若い娘が奉公するって、おかしくないか?」 「そうかな」 ずっと気になっていたことだった。平助だけじゃない、原田や土方、山南や斉藤も首を傾げていたことだ。貧乏武家の者ならば頷ける。しかし新八の家はそんなに困窮している訳ではない。父親も幕府に奉公して、放蕩息子を除けば生活にはさして困っていないはずだ。 「新八っつぁんも史桜が働いてるの知らなかったみたいだし。口には出さないけど、家のことやあんたのこと、心配してたぜ?」 「そう……兄様が」 史桜の反応は一貫して薄かった。驚いているようでそうでもない。平助も極力さりげなさを装ってみるも、淡泊な反応にいささか拍子抜けしてしまう。だが、平助は兄貴分の心配そうな顔を思い起こした。 「俺もさ、心配……っていうか、ほらやっぱり、な! 今回の密使の仕事だって危なかった訳だし。史桜が困ってたら力になりたいんだよ!」 おかしい。なんだか趣旨がずれている。何を口走ってるんだ俺は、と平助は頭を抱えた。心配してるのは確かだが、そうではなくて核心を聞き出さねばならない訳で。両者の間を重たい沈黙が制した。感情を表に出さず、恬然と相手を見つめる少女の視線に熱が上るのが分かった。 「(ほんっとに恥ずかし……!)」 脳の思考も止まれば足も止まる。旅の足取りは完全に停止していた。しかし、その沈黙は鈴のような笑い声によって破られた。 「心配してくれてありがとう、平助君」 その瞳には安堵と、もう一つ。強いて言うなら哀愁のような感情が見て取れた。てっきりありがた迷惑だと嫌がられると思っていた平助は不意を突かれて押し黙った。史桜は重ねて「大丈夫」と告げ、 「でもそんな危険な仕事じゃないの。家も困ってる訳じゃないし。……私が奉公してるの理由は、ただの好奇心から」 平助よりすこし長く史桜を見てきた新八ならばその言葉が嘘だと気づいたかもしれない。憂いた瞳の奥で光るものにも、気づけたかもしれない。だが平助はまだ出会ったばかり。史桜の精一杯の嘘を見破るのは至難の技だった。 「危なくない仕事って?」 「お医者様の助手」 「助手ぅ?」 意図せず素っ頓狂な声が出た。平助は慌てて口を結び、彼女の話に耳を傾けた。 「うん。綱道さんって言って、今度から新選組に配属されるお医者様だよ。蘭学者で言語にも堪能だから幕府が外国と交渉する時や貿易する時に立ち会って通訳するお仕事も担って居るみたい」 そんな危険じゃないでしょう? と小首を傾げる史桜。緩く結わえられた黒髪がさらりと涼しげな音を立てて動いた。不謹慎ながらも、平助はその艶やかな髪に触れてみたいと頭の隅で考えた。 「綱道さんとは、永倉家の養子になる前から知り合いでね」 書記として付き添うのがほとんどだ、と告げる史桜。同時に、これ以上の追随を許さぬ拒絶も含まれていた。平助は今聞いた話をゆっくり反芻した。彼女はまだ告げていない別の理由がある。そうは思っても、平助は疑問を胸の内にしまっておいた。誘導尋問には余計な口出し不要である。 ――そう、平助はただの護衛ではなかった。史桜の監視としても旅に同行していたのだ。 むろん土方の命令だ。土方は元々、今回の勅命に強い疑問を抱いていた。それはそうだ、人体実験など許されるべきではない。新選組のさらなる躍進のために渋々承諾したが、正直、幕府が何を考えているか想像しかねる。そこで幕府ではなく密使だった人間を探る方法に出た訳だ。 『重要なのはあいつが密使だという点じゃない。密命の内容を知っていた、という点だ』 土方も酷な役割を押しつけるものだ。親友の妹で、平助自身も悪い子ではない感じていて。なぜか知り合いという言葉では表せないほど親近感を抱いていた平助は、出来るならこの娘を疑いたくなかった。 『平助、考えてみろ。なぜただの運び手が密命の内容を知っている? それは、永倉史桜が本件の裏を知っている可能性が限りなく高い、ということに他ならない』 副長の言い分も最もだった。彼は常に正しい。最短の道で新選組を栄華の道へ導く。 「あの人に着いていくって決めたのは、他でもない俺なんだから」 「……平助君?」 「ん、や、なんでもない」 幾人もの命を預かる隊長の身として平助も鬼にならなければならない時がある。今がきっと、その時なのだ。 「綱道って名前は聞いたことがあるなあ。有名な蘭方医だろ?」 と話を戻すと史桜は薄く微笑んだ。 「綱道さんは羅刹研究の第一人者だから、そのうち会えると思うよ」 「へえ、変若水のねぇ……って、ええ?!」 平助は度肝を抜かれた。重要なことをこともなげに言い放った彼女は大人しい顔して時々とんでもないことを言う。これは俺を試しているのだろうか、それとも単に警戒心が皆無なだけだろうか、と頭を抱えた。 「えーとつまり、綱道って医者が羅刹の親玉ってこと?」 「親玉って表現は……まあ、そうとも言うね」 眩しいくらいの笑顔が返る。正直者であるがゆえ平助は他意のない笑顔に弱かった。しかし書状に記されていた情報以上の話を聞く度、彼女がもつ変若水についての知識に驚く。その淀みない口調は、史桜も一緒に研究しているのだと暗に示唆していた。 「変若水に関して、綱道さんの右に出る人はそうそう居ないよ」 一方の史桜には、警戒する様子は微塵も見られない。会合が開かれたらもっと色んな話聞けるはず、と付け加え、近づく江戸に目を懲らした。 「本来、あの薬は私たちの手に負えるものじゃない。だから私は断って欲しくもあった。……でも綱道さんならもしかして――」 遠望を見渡す空色の瞳は、どこか焦点が定まっていなかった。 「なるほどねえ。じゃあ尚更早く山降りようぜ。日が暮れちまう」 「ええっ。もう休憩終わりなの」 「野宿したいなら俺は構わないけど?」 「……うん、出発しようか!」 現金な史桜に平助の盛大な溜息が響き渡った。こんなので本当に密使が勤まるのだろうか。少なくとも新選組では真っ先に斬られる人間だろう。だからこそ平助も守り甲斐があるとも言えるが、多少は自分でも周囲の危険に配慮してもらいたかった。 曰く綱道という人間は『羅刹』の産みの親といっても過言ではない。蘭学者であり、且つ西洋の技術を身につけた医者である彼は幕府の宝だった。 「あ……あとね」 不意に史桜が声をあげた。そして綱道さんは娘さんがいる。綱道さんには似ても似つかない可愛い娘さんだと笑うではないか。 「へー可愛いんだ。一目会ってみてーなー」 「平助君にはもったいないかも」 「何それ、俺じゃ役者不足って訳?」 「いや? そんなことは言って……るけど」 「言ってんじゃん!」 悲痛な叫びが青葉を震わせた。史桜は肩を揺らし、目尻にたまった涙を拭く。 「だってすごく良い子だから。でも綱道さんの研究については知らないから、会っても言っちゃダメだよ」 そう念を押す史桜。言われるまでもなかったが、平助は生返事をしながら米粒のついた手を舐めた。 「そうと聞いちゃじっとしてらんないな。早く出発しよーぜ!」 新選組の誰もが、この旅は地獄への誘いだと気づいていた。しかし気づいていながら道を阻もうとする者はいない。すべては夢であり、現である。願えば願うほど叶って欲しい現実は遠のくとみな知っていること。史桜は一人、軽々と岩山を降りる平助の背に手を伸ばした――その姿はさながら、蜘蛛の糸を求める罪人のようだった。
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