藍傘Night 1 花散嵐
第十一夜 威風
凋落の翳りを示す江戸川幕府。初代から続く栄華は忍び寄る異国の風に浸食され、積み上げられた五重の塔をいとも簡単に壊していく。変若水の一件で江戸へ上洛してきた近藤と土方は、城下の外れにある小さな庵室に恭しく座していた。あばら屋のような外観の割には小綺麗な作りになっている。しかしそれは中に入らなければ分からないので、敢えて寄りつこうと思う輩もいるまい。ここは格好の密会場だった。 城で話し合いをしては誰に聞かれるかわからない。おそらくは、それを警戒してのとだろうが。それだけ他人に聞かれたくねぇことなんだな、と土方は鼻で笑った。 「待たせて申し訳ない」 座敷に姿を現わしたのは時の老中、小笠原長行〈おがさわらながみち〉だった。小笠原は壮年だったが、うっすらと産毛に覆われた後頭部から腰にかけて針金を突き通したように背筋が通っている。大きな団子鼻は三日月型に細められた目の下に堂々と鎮座していた。 その後ろから出家者のような剃髪の男が音もなく入る。老中より年若く、精彩な色を称える顔は知的な輝きを放っていた。勅命、つまり上層部の命令だと聞いていたが、思いも寄らぬ高官の登場に近藤はうろたえた。 「こ、これは小笠原老中殿ではありませぬか……! ご挨拶が遅れました。わたくし、会津藩預かり新選組局長の近藤と」 「よい、話は聞いている」 「はっ」 では、と言葉を切る老中。土方は自分達が値踏みされているのを感じた。沈黙の中に近藤と土方へ対する不信感が漂う。郎党ごときをこの座敷に呼ぶなど汚らわしい、そんな心中を隠そうともしない高官に虫ずが走った。だのに、近藤はひたすら老中の前に恐縮している。幕府という武家の心を慕う近藤の気持ちも理解できたが、今日ばかりはその態度に眉を顰めた。 ――この図を見せつけられるだけで、引き受けたことを後悔するぜ。 老中の不躾な視線に耐えながら鬼の副長は自分を律した。それから老中は視線を床へずらし、脇へ控えてあった書面を開いた。 「会津藩預かり新選組局長殿、副長殿。遠いところよくぞ参った。例の件は誰にも他言しておるまいな」 「ご安心ください、老中殿。このことを知っているのは薬に深く関わる上層幹部のみ。平隊士は何も存じておりません」 「よい。……して、勅命の件、引き受けてくれるのかの」 冷徹に光る高官の瞳。気迫負けせず真っ正面から受け止める近藤はさすがというべきか。彼は「勿論でございます」と答え、「我々、将軍様にお仕えする者に勅命をお断りする理由などありません」と相好を崩した。老中もその人の良さにあてられたのか。幕府も人望に富む人間がいるものだと僅かに態度を改めた。 「密書にも記されてあったとおり、この件は極秘である。断われば、そなたら新選組も解散、もしくは死を免れないだろう」 「何が免れないだろう、だ。あんたら幕府側はハナっからからそのつもりだったんだろう」 「これトシ、無礼な発言は控えるんだ」 「こりゃ失礼」 土方は肩を竦めた。そう、最初から選択肢などなかったのだ。斉藤曰く新八の妹が「断わってもいい」と漏らしたそうだが、幕府が許すと思えない。非人道的な実験の存在を知った者達を生かしておくはずがないからだ。しかしそうだとすると、新八の妹も運命共同体といったところか、と土方は苦笑いした。 「面倒な役割を押しつけてしまったな。しかし誤解せんでくれ。幕府の者みながこの実験に賛同している訳ではないのだ」 「小笠原殿は、反対なのですか?」 「無論だ。長きに渡り輝かしい歴史を誇るこの江戸幕府、このような物に手を出さずとも、復興することは可能だ」 苦渋を含んで紡がれた台詞に、近藤と土方は顔を合わせた。 「ではなにゆえ、老中殿はこのような役回りを」 そのとき、横にいた医者のような身なりの男が咳払いをした。老中は隣を一瞥して、曖昧に、 「私とて一介の旗本に過ぎんということだよ」 と言ったぎり黙り込んだ。土方は、こいつも幕府の高官だろうかと男を伺い見た。老中が遠慮するのだ、権力者には違いない。しかし老中がこの実験を不服に思うのは、反対する理由があるからこそ。おおかた副作用に関してだろうが、思っていたよりも事態は芳しくないようだ。 近藤も苦虫を噛み潰したような顔をしていた。こりゃ雲行きが怪しくなってきたぜ、と頭を掻く。彼らはよほど苦い表情を浮かべていたのだろうか。老中は仕方なしと言った風に口角をゆがめ、つつと彼らとの間に誓約書を広げた。 「こんな実験を受け入れる輩はどんな不逞者かと思っていたが、想像よりも新選組の面々は賢いのだな。先の無礼な態度を詫びよう」 「い、いえいえ、詫びなどめっそうもございません。しかし残念ながら、刀だけでは生き残れぬのが今の世の現状です」 「そうだな。いつの世も頭が空っぽでは使い捨てられるだけだ。私は刀を振るうだけの獣連中に任せるなど反対だったが……お前達なら、あの薬を任せても平気かもしれん」と老中は、自分の名の下へ血判を捺すよう促した。この誓約書が在る限り、彼らは身分関係なく同等の責任を担うのだ。 「誓約を破った者には死あるのみ、としかと心に刻め」 「……御意」 最後に老中手づから血判を捺す。近藤や土方は生粋の武士と身分対等に渡り合うことを長年の夢としていたが、こんな形で夢が叶うとは皮肉に思えた。 「薬に関してはここの綱道から話を聞くとよい。どのような体制で研究を進めるかはこやつの方が詳しいのでの」 ことが済むと老中とそそくさと誓約書をしまい、退出のそぶりを見せる。しかし待ってましたと言わんばかりに、土方がそれを押しとどめた。 「ご老中、ちょっと待ってくれ。一つお尋ねしたいことがある」 土方は相手の返事も待たず、質問の核を明確に突いた。 「あの密使、何者なのですか」 「それは、永倉史桜のことを申しているのか」 「はい」 隣の綱道の鼻がひくひくと動いた。老中は助け船を求めるよう彼を一瞥する。と、男は柔らかに微笑み、君達もよく知っているだろうが、と話に割り込んだ。 「あれは松前藩、江戸定府取次役、永倉勘次の養女だ」 「それくらいこっちだって知ってるさ。そいつの次兄が新選組で二番隊組長してるんだからな。だがあの女、最初っから永倉家の養女だった訳じゃないよな。あんたらがこのために何か仕組んだんじゃないのか?」 「トシ、言葉使いがなっとらんぞ」 「近藤さんだっておかしいと思わないのか。怪しい経歴の人間を幕府が密使として使うなんて。誰にも聞かれたくない内容なんだぞ? あの女が間者じゃない可能性はないんだ。なのにあんたらは史桜とか言うあの女を俺たち新選組に派遣した。……なぁあんたら、あの女をどうしようってんだ」 早口でまくし立てる土方に、綱道は嘆息一つ。袂に手を入れて首を振った。 「どうもこうも……彼女は私の大切な助手だ、悪いようにはしまいよ」 彼女が派遣されたのも、自分の助手ゆえだと弁解する綱道。それから彼女の経歴については我々もよく分からないとかぶりを振った。幕府内でも彼女に関して知っている人間は少ない。ただ本人が「義務教育」と呼ぶ、知識の多さには目を見張るものがある。故に良家の出身ではないかとの憶測が飛び交っているが、なんにせよ謎が多かった。 綱道は、今は亡き十三代将軍・家定公なら何か知っていたかもしれないと締めくくった。 「どうしてそこで将軍の名前がてでくる」 「彼女が家定公の側使えだったからだよ」 奇人の遊び相手と呼んだほうが正しいかもしれんがね、と聞き役に徹していた老中が付け加える。新選組局長と副長は目を細めた。将軍ほどの側使えが、どうして部下の家へ養女入りする必要があるだろう。そのままでも十分な恩恵を得られるはずだ。そんな二人の様子を綱道は怪訝そうに眺めていた。 「隊士の永倉君から何も聞いていないのかね。彼ならそれくらいは知ってるんじゃないか」と首を傾げる。 察しの通り、新八からは何も聞いていない。当然だ、新八には史桜を探っているこなど一言も告げていない。面倒なことになるのは目に見えていたからだ。近藤は言葉に詰まって冷めた湯飲みに手をつけた。意外にもそれは温かかった。のどを通って胃に溜まるのがそれと分かる程度にはぬくもりを残していた。 明敏と名高い老中はすぐに事情を把握したようだった。含み笑いと共に、ぱんと乾いた音を立てて扇子を開く。 「うら若き娘が密使ともあれば事情を探りたくなるのも分かる。だが私がお前達に教えられることは、永倉史桜には深入りするなということだけだ」 新選組を潰されても知らんぞ、とだけ残して彼は退室した。 * 「千鶴。千鶴や、いるかい」 「どうしたの父様、いまご飯の支度をしてるんだけど……」 城からそう遠くない大きな川沿いに千鶴と綱道の家はあった。植えられたばかりの木々が水害を防ごうと列を成している。川の表面にはイチョウが余すところなく敷き詰められていた。そこから少し覗いた水面に、枝にわずかばかり残った藤黄色が映る。その枝を辿っていくと間取りの広い平屋にぶつかり、空気の入れ替えのために親指一本ほど開けられた窓から、焼魚の芳香に混じって薬草の匂いがあたりに漏れ出ていた。 「キリのいいところまで準備し終えたら、表へ出ておいで。史桜さんが見えてるぞ」 「史桜さんが?!」 素っ頓狂な声に次いで廊下を走る音が響いた。木造りの床は濃い枯茶色。老人一人と子供一人ではどうしても手が行き届かぬところにうっすらと埃が積もっていた。 千鶴と呼ばれた少女は極力摩擦を抑えられた床を小走りで駆け抜ける。手にはしゃもじ、袂は動きやすいよう結わえられていた。 分り易い態度に苦笑いし史桜は少女の手を取った。 「ただいま、千鶴ちゃん」 「また会えて嬉しいです! 京にお一人で発たれたと聞いたときはどうしようかと思ってました!」 「千鶴ちゃんがお祈りしてくれたお陰で、こうして無事に戻れました」 「良かったです。ほんとに、良かったです。史桜さんが浪士に鉢合わせて、刀で追いかけられでもしたらどうしようってずっと心配してたんです」 まさにその状況に陥ってたとは言えない。彼女の潤んだ瞳に史桜が映る。大げさだが本人は至って本気なのだ。史桜は仕方ないなと呟き、少女の鼻先を軽く弾いた。 「心配しすぎですよ」 「だって何かあったらと思うと怖いです」 千鶴は大きな目を伏せた。色気とは無縁の純粋無垢な少女。「女」と呼ぶにはまだ少し遠い。質素な身なりがさらに彼女を中性的に見せていた。しかしおそらく、まだ幼いだけなのだ。心の経験が足りないだけで、内包された美はいつしか千鶴が蝶となって羽ばたく日まで奥底に隠れているつもりに違いなかった。 千鶴は不安そうに顔の斜め下で纏められた自分の髪へ触れた。 「ときどき、刀傷つけて帰ってくるの知ってます」 「すぐ転ぶんです」 「嘘です。京に行く前だって」 「そのときも、転んだの」 簡潔な返答。芯の通った声色なのに危うげな、ふらふらと誰にも干渉されることなく宙を漂い、地に積み重なる後は大きな樹木の養分となって消えゆく枯れ葉を思い出させる。誤魔化されたのを知りながら千鶴はそれ以上追求出来なかった。彼女に出来るのはただただ消え入りそうなこの人を想い祈るのみ。惹かれる理由など分からないが、史桜という人間は自分に必要な人だと確信していた。 それから、どうぞ家の中へ、と招き入れる。だが女は首を振り石畳の上で娘を見守っていた綱道へ向き直った。 「お気遣いありがとう。でも、綱道さんに渡すものがあって寄っただけなんだ」 そう言って袂からすいと差し出したのは数枚の布。切れ切れになったそれは黒く汚れている。千鶴には刃物でちぎられた跡のように見えた。 それを見た綱道の頬がひくりと動いた。 「千鶴、ご飯の支度の続きをしなさい。父様は彼女と話があるから」 「はい、わかりました」 綱道はそう娘を座敷の奥へ引き払うと汚れた物を触るように布地を受け取った。ひっくり返したり引っ張ったり。納得顔で頷くとささやくように口を開いた。 「随分と薄汚れているが、いいだろう」 「証拠ですから、それだけで十分かと思いまして」 「例の浪士達のかね」 「はい。後片付けは新選組が代わりにしてくださいました」 「そうか、これで一安心だ」 他ならぬ、京へ脱走した羅刹の着物だったそれを乱雑にしまい込む綱道。それから、慰労の言葉を掛ける彼へ胸に抱えていた風呂敷を手渡した。 「あと、お土産です」 「珍しいこともあるものだ。君が私に気を遣ってくれるとは」 「千鶴ちゃんの息災を願ってです」 するとそれまで色の優れなかった綱道の顔が幾分和らいだ。風呂敷から垣間見える漆塗りの箱には反物屋の印。 「通りかかったお店で素敵な布地を見つけたものですから。千鶴ちゃんの帯にでも仕立ててあげてください」 嘘に決まっている。史桜が立ち寄った店は有名な老舗だが、通りかかるような便利な場所に立っていない。綱道は親心ながらに嬉しく思い、口角を緩めた。 「大変良い反物だ。ありがとう、あの子も喜ぶだろう。我が一族の復興を彩るあの子に相応しいよ」 「そういう意味で買ってきた訳じゃ、ないんですけどね」 呆れ顔で返す史桜。しかし人知れず暗躍する鬼の末裔は気づいていない。彼女はこほ、と咳をし、余計な物が体内に入ることを恐れるように口元を覆った。 「労咳じゃあるまいね」 「怖いこと言わないでくださいな……。至って健康体なのは綱道さんがよくご存じでしょう」 「だが希人〈マレビト〉しか掛からぬ病気もあるかもしれない」 ――なにせ希人の生態については一切が謎なのだから。 君への好奇心は絶えないよ、と綱道は笑った。 「ああその命、将軍家へ渡すのはなんと惜しい」 しかし彼女は武家の娘たる毅然とした態度でその手を振り払った。 「家定公の呪いに掛かって死んでも知りませんよ」 むろん綱道は、人間の呪いなど、と嘲笑を浮かべるのみ。相手にもしない。ひと粒ふた粒、雨が降り出した。史桜は予想通りの反応に柳眉をしかめ、こっそり裏口から覗いていた千鶴に目配せをする。それから藤の花をかたどった蛇の目傘を広げ、藍色のそれをくるくる回して城下へ戻っていった。
≪ PREV | 目録 | NEXT ≫