藍傘Night 1 花散嵐
第十二夜 帰花
連なれば破れ、断ち切れば元の楔を追い求める。流れというのは人が作るものではない。時の狭間で幾つもの偶然が重なりたまたま生まれるものだ。しかし八百万の神々さえ関知せぬ事柄をこの手で、脆き小さな人の手で変えようというのだから苦難して当然である。史桜は記憶の彼方で、誰かがそう言っていたのをぼんやりと思い出した。 思い出した、では多少語弊があるかもしれない。意識は判然とせず、頭の中の引き出しが勝手に開いたり閉まったりしている。その度ごとに現代の記憶、この時代の記憶、家定の記憶が混ざり合い、問い掛けてくる。史桜はめまぐるしい幻惑についていくのがやっとだった。だが起き上がる力はない。京から江戸までの長旅でひどく体力を消耗していた。すだれを降ろした窓から橙に染まる幾筋の斜光が差し込み、宿前の通りが日中最後の賑わいを見せ始めたことで、もうそんな時間かと寝返りを打った。 夕餉の香りが鼻孔をくすぐる。意志とは関係なく開かれた思い出の引き出し、そこから漂う芋の香りは食欲をそそった。砂糖漬けの芋料理だ。柔らかくしたから具合が悪いときでも食べられるはずだと、史桜の口元へ運ぶ皮だらけの手。一口頬張る。普段より薄味で難なく食べられた。一口、二口と飲み込む。相手は疲れた顔で笑った。良かったと。史桜もけだるさを感じながら、精一杯微笑んだ。 「芋公方と呼ばれるだけあるじゃろ」 「はい。家定公の料理は美味しいです」 「そうじゃろ、好きなだけ食べよ」 最後の声が歪んで聞こえた。箸が顔の上に落ちてくる。反射的に目を瞑ると椀を片手に微笑んでいた人がうめき声を上げた。苦しそうに胸元を掻きむしる。支えたかったのに身体が重くて動かなかった。彼は血を吐いた。ばたばたと屋敷が騒がしくなり、側近たちが集まってきた。白髪の人は史桜、史桜と叫ぶ。ここにいます、大丈夫です、と何度も声を振り絞った。しかし叫べば叫ぶほど自分の声が小さく聞こえた。史桜は渾身の力を振り絞って跳ね起きた―― 「……あ、れ」 そこは史桜と平助が数日間腰を落ち着けている宿だった。夕日が放つ赤光が目を射る。枕元に茶と、水の入った桶が置かれていた。界隈は夕餉の支度をする女子供の買い物客で賑わっているようだ。夢だったのか、と脂汗を拭いた。 そこに襖の向こうから控えめの声が掛かった。 「史桜。やっと目覚めたのか?」 「うん……ごめんこんな時間まで寝てて」 「いーっていーって、熱あったみたいだし」 開けるぞという台詞と共に、平助が顔を出した。 「どうしたんだよ? 大きな声上げてたけど」 「大丈夫。平気」 「平気な声じゃあなかっただろーが、馬鹿野郎が」 平助の上からもう二つ顔が現れる。鬼の副長と仏の局長だ。彼らはここからほど近い場所に宿を取っている。土方は皺の取れない眉間をより歪めて襖を開いた。すぱん、と気持ちいい音が響く。三人は史桜の前に腰を下ろした。 「私……熱があったんですか」 「そうそう。史桜ってばあんまり起きてこないから、部屋覗いてみたんだ。そしたらうなされててさ」 朝、気怠かったのはそのせいだったのかと合点がいった。女将が看病してくれたとのこと。早々に迷惑を掛けた。そう謝り、布団から起き上がる。まだ寝ていろと言われたが、身体は随分と楽になっていた。寝間着のまま姿勢を正す。なにしろ近藤は隠し事が出来ないたちで、史桜はその顔が何か話したそうにしていたのを見逃さなかった。 「それで、お三方。何か私にお話があるのでは」 「ああ、話が早くて助かるぜ」 土方が皮肉ったように唇を歪めた。そして、体調悪いときに話す内容でもないがと前置きをし、近藤が口を開いた。 「史桜くん! 我々は先日、ご高名な幕臣に面会して参った!」 「はい」 「そこでご老中にお会いし、お話を聞いてきてな」 「ええ」 「それで……」 近藤は一言一言区切って話す。これから告げる内容に間違いがないか確かめるように。史桜は合いの手を入れて先を促した。それがまるで音頭を取っているようで、平助はこっそり笑いを我慢していた。 「それで、血判書に捺印して参った」 「そうですか……。お疲れ様でした」 放心したように頷く史桜。さすがに将軍は表に出てこなかったかと納得する。しかし老中ともなればくだんの重大さが痛いほど身に染みるというもの。史桜は同情を込めて慰労した。だがこの労りの言葉、本来なら彼らが茨道を抜け、無事に研究を完成させた暁に掛けるべき言葉だったろう。 近藤は自分達が選ばれて光栄であるとか、本当は戦力など自分達だけでもなんとかなるのにとか、とうとうと胸の内を語った。近藤と土方の二人で会合に行ってきたらしいが、平助もあらかじめ子細について教えられていたと見える。腕組みしながら平助も頷いていた。 「しかるに我々は全力をあげ、ご公儀の願いをかなえるべく奔走すると誓って参った!」 近藤は強い語調で締めくくった。日に焼けた幅の広い顔は晴れ晴れとしていた。心配することなど何もない。土方達の思惑もよそに、彼一人がそう感じているようだった。 「それでは……私の役目もここまでと言うことですね。みなさま、しばしの間お世話になりました」 史桜は床に額づく。数週間、否、この旅も含めればおよそ一ヶ月以上に及ぶ密使としての使命も終わったも同然だった。これでさらばだと言わんばかりに深々と礼をする。だが、面々の顔色が優れない。怪訝に思い、どうしたかと首を傾げる。すると土方が鼻息荒く低い声で唸った。 「てめぇ、まさかここで俺達とさよならだとか思ってんじゃねぇだろうな」 「……思ってます、が?」 「馬鹿野郎が。てめぇは俺達と一緒に京へかえんだよ」 あまりの間抜け面に平助が吹き出した。史桜が非難がましい目を向けると彼は口を押さえ、忍び笑いのまま土方の話を引き継いだ。 「だーかーらー、老中がさ、史桜も連れてけっていったんだって」 「え? な、なんで」 すると近藤が輝やかしい笑みを浮かべる。君を尊敬してやまない。そんな類いの笑みだ。近藤は胸を膨らませ、 「史桜君、君はかねてよりこの研究に詳しいらしいな。なんたって綱道さんの一番弟子だというじゃないか。君はしばらく新選組に滞在していて勝手も分かっているし、京の本部でぜひ綱道さんの手助けをしてやってほしいとの旨をご老中から授かった」 全身に衝撃が走った。将軍から密命を賜った時も大層驚いたが。まったく油断をしていた時分に放たれた言葉は史桜を凍り付かせた。 「なんだその顔は。いやなのか」 「いえ……いえいえ」 「の割には随分と不服そうな顔だな」 「本当に、驚いているだけです」 実のところ土方の指摘は正しいのだが。これ以上羅刹計画に関わりたくないのが本心だった。綱道の手伝いで始めたとは言え、史桜はこの実験が成功すると信じていなかった。 だが幕府が史桜を手放すと思えないのもまた事実である。すべてを知っている人間を野放しにするほど甘い人間達ではないし、綱道に至っては何か別の秘密も把握している。ならばどうしてその手を放すか。逃げられる場所はないのだ。最期のその瞬間まで救いの手を差し伸べてくれた家定公はもういないのだから。 「史桜君が共に来てくれると実に心強い! なにせ俺達はそのー、自分で言うのもなんだが、無骨者が多くてな。そういう実験やら薬やらは分からん。だから一人でも知識がある人がいると安心できてなあ。それに史桜君が居ると総司も新八も一層元気になるんだ」 近藤の白い歯が光った。最後の一言に史桜の顔が引きつる。沖田総司のあれは元気になるとは言い難い。どちらかというと日々嫌がらせに邁進している彼だ。史桜の同伴を歓迎するはずがない。土方と平助も近藤が放った台詞の語弊に気付き、顔を見合わせた。 「けれど新選組は女人禁制ではないのですか」 「ああ、その点なら安心してくれ。問題ない」 本部がある八木邸の反対側。つまり八木邸の人々から貸し出されている方ではなく、家主が住む場所。八木家の人々と共に暮らすという提案をされた。それなら近いし、薬の管理も容易いだろうと。 「要するに八木家に居候、ってことじゃん?」 快活に平助が纏める。なんと容易く言い放つことか。むろん、史桜にしても沖田総司がいる時点で新選組と共に暮らすことは窮屈だったが、 「私だけ余所に住んではいけませんか……? 旅館とか、ほかの宿とか」と密かな願望を告げることにする。 「駄目だ」 ぴしゃりと跳ね返される。さすが鬼の土方。断り方がこなれている。無言のまま睨み合っていると、彼は嘆息して付け加えた。 「外に住まいを移したら、お前はそこで資料を見たり研究するだろう」 「しません」 「いや、しないとも限らねぇ。だがくだんの話は外部に漏すわけにいかねぇんだ。だったらお前を八木邸に置いておくのが最善の策ってもんだ」 「でしたら綱道さんはどうなのです。その策だって……八木家の方に見られないとも限らないのでは」 不公平さを感じて食い下がる。しかも綱道は自由に動き回って良いと聞いては尚更だ。なぜ自分だけ、言外にそう言い含めて土方を詰る。 「てめぇも言うようになったな。いいからお前は言う通りにしろ。もちろん、八木家の人間の前で薬の話や資料を広げて見ろ、上がなんと言おうとぶった斬るからな」 問答無用とばかりに一方的に話を断ち切られる。史桜は憮然とした。史桜は新選組の隊士でもなければ土方の命令に従わなければならぬ義務があるわけではない。だのに随分と高圧的である。纏う威圧感と、武士としての心意気が土方の命令に従わなければいけない気にさせるとはいえ、理不尽だと思った。 「……納得できる理由がなければそのご命令には従えません」 「そうかそうか。てめぇ、そんなにぶった斬られたいかあ?」 「ちょっ、ちょっとちょっと、土方さん顔怖いって……!」 鬼の副長は片膝を立て、刀に手を添えた。平助の制止など聞こえていないようだった。釣られ史桜も三つ指をついて面を上げる。 「お上がそう仰ったのですか。新選組に、私を八木邸に閉じ込めろと」 史桜は江戸女に比べればさほど気丈な娘ではない。しかし自由を奪うものに対してはどこか敏感で、この時代のおなごなら誰でも当たり前のごとく持ち合わせている「女は夫に付き従い、子供が成人した後は子供に付き従う」という慎ましやかな感性にも賛同しかねた。幕府という旧体制に身を沈めながら、彼女が現代から運んだ思想は倒幕派そのものだったのだ。それは遙か先の未来で当たり前のように育まれた自由平等の精神。抗いがたい時代が生み出した現代の風だった。しかしそのそよ風は嵐を呼ぶ台風の目のごとし――この時代の男には不遜な考えに見えただろう。 それは土方も例に漏れず。 「てめぇ自分で何言っているのか分かってんのか」 「承知しています。けれど……私は新選組に付き従う義務はありません」 土方が抜き身の刀を翳す。斬られる――そう思った刹那、近藤の一言が場を収めた。 「まあまあ、トシ。史桜君も、ちょっと我々新選組の言い分も聞いてくれんか」 聞いてやらんことも無い。そんな体で彼女はつと口を噤む。 「そうだ。実はな、将軍どのが史桜君のことをとても心配してらっしゃってな。一人で治安の悪い京に置いておくのは不安だと零されているそうなのだ。それなら我々と共に暮らしたほうが安全だが、なにせ新選組は女人禁制だ。ならば八木家のほうに居を構えれば我々もすぐに駆けつけられるし、八木家の人々もいるから君も安全、かつ寂しくないだろうと思ってな」 トシの言い方がいかんのだ、と近藤は土方をたしなめた。史桜をどうこうした訳ではないのだと頭を下げる篤実な男。これトシも謝れ、と後頭部を押され、土方は畳に額を強打した。 「いってぇな近藤さん!」 「おなごに刀を向けるのがいかん」 「だが喧嘩売ってきたのはこの女のほうだぜ」 「トシがあんな風に脅すからだろう」 仲の良い掛け合いが続く。史桜は気が抜けた顔でそれを眺めていた。そして、すぐに申し訳なくなった。史桜の身の安全を考えてのことだったのだ。ただし、かなり上から目線だったが。こちらこそ申し訳ありませんと謝罪する。近藤はまたはにかんで「気にせんでくれ」と片手を振り、落着したように見えた。 「じゃあ俺、飯持ってくるよ。朝餉を作り直したのあるみたいだから」 平助が去る。近藤も喉が渇いたと席を立った。土方と史桜だけ。とてつもなく今一緒にいたくない人間と、同じ部屋で対面する形になった。 しかし土方は既に気持ちを切り替えたようで、辛いなら寝ていろと促す。若干の目眩を感じ始めていた史桜は大人しく布団に潜った。 「……さきほどは失礼致しました」 「もう気にすんじゃねえ。俺もちったあ言い過ぎた」 これが大人というものなのだろうか。時々子供のように怒鳴り散らすが、基本的に彼は器が大きい人なのだろうと納得した。ちゃぷ、という水音が響く。土方が桶に手を入れた音だった。彼は「少し温いな」と呟いて、水を含んだ布を絞る。雫が桶に戻る音が涼しかった。それから土方は史桜を覗き込み、額にそっと濡れ布巾を置いた。 土方はそれを温いと評していたが、十分気持ちよかった。朝より楽になったとは言えまだ熱があるのだろう。普段なら滅多にしない行動をしてしまったのもそのせいだと形の定まらぬ考えが脳裏を過ぎった。 「ありがとうございます……」 「さっさと回復しろ。熱が下がったら急いで京に戻るぞ」 「はい」 どうしてか、土方の史桜を見つめる目が憐憫に満ちているように思えてならなかった。平助はまだ戻らない。刻々と陽は落ちていた。閑静な一室で刀を携えた大の男が看病をしている図は滑稽だった。 土方が息を吐く。その吐息に乗せられた言葉はまたもや史桜を驚かせた。しかし怒りは覚えなかった。ただ、知られたくなかったという恥じらいの気持ちだけがあった。 「お前、家定公の側仕えだったんだな」 史桜は黙している。目覚める前に見た夢がまざまざと瞼の裏に浮かんだ。あの芋料理が食べたいと思った。何も発さない史桜の隣で土方は湯飲みを持ち上げた。 「なぜ永倉家に養女に入ったんだ?」 「家定公のお望みで。永倉家なら、私を守ってくれると判断したそうです」 その理由は聞くに及ぶまい。跡継ぎ問題が収集つかないほど激化していた事実だけでも十分理解できる。土方はそうか、と一言だけ告げ、手にした湯飲みを傾けた。 「元々の生まれはどこなんだ。将軍の側仕えになるくらいだ、良家なんだろう」 「……この日の本ですよ」 「ふざけてんのかてめぇは」 「そんな滅相も、ない――」 吐く息が熱かった。瞼が重い。だんだんと落ちてくるそれに抗うことも出来ず、夢半ばで史桜は否定した。すると土方は言い争う気力も失せたようだ。熱に浮かされているのだろうと勝手に先を続ける。 「この実験は自分から志願したのか」 「分かりません。……私には、もう」 睡魔に襲われて何も考えられなかった。ただ、はっきり覚醒してたとてこの質問には真面目に答えられなかったろう。史桜は寝息を立て始めた。土方はしばし寝顔を観察していたが、その頬に一筋涙が流れたのを見た。指を伸ばして拭き取る。薬の実験に荷担している点で史桜を快く受け入れられるはずもなかったが、この娘もいち被害者に過ぎないのだとどこかで直感していた。 彼は茶を飲み干すと、振り向かずそのままの姿勢で背中に声を掛けた。 「平助、立ち聞きとは行儀が悪いな」 「あー、人聞き悪いなあ。他の誰かが立ち聞きしないように見張ってたんだって。逆に感謝してくれたっていいと思うんだけど」 「なぁにが見張ってた、だ」 へへ、と笑う平助はまた寝入ってしまった少女の隣に飯を置いた。 「なんだ、寝ちゃったのかよ。折角夕餉もってきたのに」 「まだ熱が高い。平助お前、旅の途中で無理させたんじゃねぇのか」 「してないって! さっきからひでえよ!」 平助は床に座り、足と足の裏をくっつける。史桜の顔を眺めて何か思案していたが、茶を注ぐ土方を一瞥して、また押し黙った。 「さっきから黙り込んで、なんだ」 「……いや、その、史桜のこと考えててさ」 史桜が深い眠りに陥っていることを確認して口を開く。平助は唇を尖らせて声を低めた。 「側仕えって本当なのかよ」 「老中がそう言っていたのは確かだ。だが――」 「出生が公開されていない?」 平助はある種の親近感を感じて問い掛けた。土方は柳眉を逆立て、切れ長の目で警告を促すが、平助は興奮を抑えきれないようだった。 「出生を明かさないってことは、もしかして良家の私生児だったり」 「さあな」 否定はしない土方。まんざら嘘だと思っていないようだ。調子に乗った平助は幾分声を大きくした。 「ていうかひょっとしたら、将軍の妾の子……だったりしねぇの?」 「奇遇だな。俺もそれは考えた」 でなければ何も身分もない娘が側仕えになれるはずがない。江戸時代の側仕えとはある意味、大奥での権力者である。この年端もいかぬ娘がそんな巨大な権力を握っていたようには見えない。しかし彼らの中でその説をより決定的なものにしたのは当時流れていた家定の側仕えの噂だ。家定はかねてより奇人と揶揄されていたが、彼の側仕えに一人だけ若い娘がいた。それを大層可愛がっていたと聞く。それこそ正妻である天璋院が嫉妬するほどに。恋仲ではなかったが、嫡子として養子に入った現将軍・家茂公よりも慈しんでいたと有名だった。そのせいで彼女も時代の波にのまれていったようだが、本当に史桜がこの側仕えであったなら――。 平助は不思議な縁を感じた。彼もまた妾の子として生まれた私生児だった。実家から贈られてくる資金のお陰で生活には困らないが、同様に出生を明かせぬ身だった。哀れみよりも、もっと史桜の心に近づきたいと思った。近藤が大きな足音を鳴らしながら戻ってくる。平助はずり落ちた濡れ布巾を元の位置に直してやった。直に新八に問うてみたいところだが、きっと彼は教えてくれまい。しかし平助はそれでいいと思った。史桜本人が話したくなったらでいい。本当に私生児だったらならば史桜の複雑な心境は痛いほど分かったから。最も――史桜が置かれている境遇は更に混み入っていたが。 すっかり陽は落ちていた。まだ女は起きそうにない。近藤が三人で飯を食おう、良い店があると提案して、皆で部屋を出た。平助が襖を閉めた時、最後に隙間から中を覗くと史桜が微かに笑みを浮かべた。折節どこからか芋のような甘い香りが漂ってきて、平助の腹を鳴らした。それは錯覚のようでもあり、それでいて妙に鼻に残るのであった。
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