藍傘Night 1 花散嵐

第十三夜 眺雨

 暁の横雲が長屋の屋根に棚引いている。密命承諾の報告から十五日経ち、二十日経っても近藤達からの便りは絶えたままだった。急ぎ江戸を発ったなら、そろそろ京に到着しても良い頃合いだ。沖田から一歩遅れて斎藤が続き、両人は無駄口を叩かず、ひたすら足を動かした。通りの屋根瓦は黒く濡れ、未だ雨水を垂らしている。軒下から顔を出す猫は恵みの水だと言わんばかりに大きく鳴いた。  斎藤はちらと一瞥した。まるまる太った三毛猫だ。しかし、どうしたことだろう。普段なら適当な小物を以て真っ先にじゃらす沖田が、今日は脇目もふらず、朝空にひらめき出す煙の後を追いかけて先を急ぐ。突然のにわか雨は訪れた時と同じく唐突に去り、千々れた雲だけが豪雨の名残を残していた。濡れ細った毛先が頬に張り付く倦怠感。それとは裏腹に、実に爽やかな朝だった。  彼らが屯所の扉を潜ると人がごった返していた。朝日も昇りきらぬうちから騒がしいとはちょっとした珍事である。 「やあみんな、いま帰ったぞ!」  すると人混みの中から快活な声が響き渡った。沖田と斎藤は顔を見合わせた。知る人ぞ知る新選組の局長である。その声を聞くやいなや、沖田は隊士をかき分けて渦中の人物と挨拶を交わした。 「おかえりなさい、近藤さん、土方さん。随分遅かったんですね。待ちくたびれちゃいましたよ」  もっと早く帰るものだと思ってました、と水先を土方へ向ける。夜勤明けで苛立った口調だ。寝不足も加わって沖田の目は鋭さを増していた。帰還早々、沖田の態度も相変わらず。土方の苦労を察してか、戒めるように斎藤が後を引き取った。 「女や老人に無理はさせられなかったのだろう。局長も副局長もお疲れのはずだ。あまり困らせるものではない」 「一君、女、老人ってどういうことかな」  諫言は軽くいなす。すると厚みのある原田の声がざっくばらんに切り返した。 「綱道さんと史桜だ。協力してくれるって話聞いてなかったか、総司」 「協力? 医者の話はともかく、後者の子に関しては初耳だけど」  ていうか一君はどうして分かったの、と眉を顰める。知らなかったのは自分だけだったのではと悪い想像が脳裏を過ぎったのだ。薄く開いた隣扉から隊士の様子を伺っていた史桜は、心なしか端正な顔が青ざめたように思えた。 「ある程度ご高齢の医学博士だと話を聞いていたからな。永倉史桜に関しては、先ほど玄関を通った時、小さな草履が増えていた」 「ははあ。ま、それなら頷けるね」  早朝から胸くそ悪い名前を聞いた。さもそう言いたげに沖田は鼻で笑う。土方からの便りによると、薬研究を先導する人間も共に京へ訪れるはずだった。近藤の行く先を心配する青年の心境からすれば、そんな人間とは関わり合いにもなりたくないが、崇拝するその人間が作った「新選組」が背負わなければならぬ重責を考えれば、致し方ないことなのだ、と納得はしていた。  沖田は含み笑いで原田を見遣る。しかし言葉の矛先は土方へ向けられており、副局長は鼻息荒く首を振った。ちったあ事情があってな、便りには書かなかった、と濁される台詞。それを聞いて続く愚痴を飲み込む。平隊士が聞き耳立てるこの場で、これ以上追求しても何も出てこないだろうと悟ったのだ。 「……はいはい、わかりました。詳しい話は後でじっくり聞きますよ」 「悪ぃな、総司」 「だけど貸しですからね。それで、だ。じゃあ……そこで聞き耳立ててるのはあの子だと思って間違いないんだよね?」  渦中の人物、史桜は大きく肩を揺らした。まずい。危機感を抱いた時は既に遅し。音を立てぬようそろりと扉から身体を離した刹那、唐突に引き戸が開かれた。 「わ!」 「はしたないね、史桜ちゃん」 「な、なんのことだか……ああ、いえ、ごめんなさい」  史桜が盗み聞きしていたことは明らかであった。白を切るのは得策でないと判断した彼女は申し訳なさより恥ずかしさに俯いた。一番会いたくない人物に遭遇してしまった――そんな心の内を極力漏さぬよう、徐々に後退りする。沖田とはほとぼり冷めてから顔を合わせたかったのだ。なにせ彼は当初より全面的に羅刹化計画を否定していた人物。何度も「密書を持って帰れ」と脅されたのは記憶に新しい。その彼が史桜と再会して不満を露わするのは容易に想像出来た。だから覚悟を決めてから顔を合わせようと思っていたのに――。  否が応にも引きつってしまう笑顔の裏で文句を垂れる。 「なんで君がいるの」 「居てはいけません……か?」 「前、君に邪魔だって言ったよね。さっさと帰れとも言ったよね。君……人の話、聞いてなかったのかな」 「……総司」  分かったと了承したはずだが、史桜と対面するや否や、矢継ぎ早に責める沖田。呆れたように斎藤が制止する。助けてくれと綱道を振り返ったが、この医者といえばのんきに茶菓子を頬張っているばかり。刺すような黄緑色は史桜を見下ろし、それからその後ろ、少女の視線を追って剃髪の老人をつぶさに観察し始めた。 「初めまして、綱道さん? 沖田総司です」 「ああ、お初にお目に掛かります。仰るとおり私が綱道です。本日のお招き、大変光栄でございます。くだんの話についてはいたく感謝致します」  医者も口元を拭きこうべを垂れた。その時史桜は、医者を見つめる男の瞳に、年若い剣士が刀を振うときに浮かぶ鋭利な輝きを認めた。と同時に、心の荒廃ならぬ諦念と、産声を上げたばかりの年端もいかぬ憎悪なるものが意図せずこぼれ落ち、綱道だけでなく、それが史桜の頭上にも降り注いでいることを感じ取った。  だが不思議と嫌悪感はなかった。沖田の憎悪はどちらかというと彼自身に向けられていたからだ。澄んだ闇の中。目を凝らせば向こう側が見える、そんな透明感を秘めた闇。その中を狼の群れが行く当てなく疾走するかのように、沖田は惑っていた。  史桜は物憂げに瞼を伏せた。  ――お前は乱世の火種だ。  いつだったか。鬼と名乗る男が告げた予言じみた呪いの言葉。ぞわりと頭皮が泡だつ。史桜は知っていた。俗に言う義務教育という世の習わしから得た浅い知識であれ、この時代がどんな道筋を辿るかを。しかしその只中に放り込まれた己がどのように関わっていくかなど想像もつかなかった。  だが江戸城に舞い落ちた時に、既にすべて決まっていたのではなかろうか。選択肢は限られていたといえども、彼女が家定の手を取った時に動乱を選び取ったも同然ではなかったのか、と自問自答した。  そうだ、抗えるはずがない。巨大な時代のうねりに。ただ一人の少女が。三者間に沈黙が立ちこめ、八木邸の騒ぎが遠い出来事に感じた。史桜は自分が沖田を悩ませている一因でもある手前、うかつに発言できず、重たい雰囲気の中で項垂れた。すると穏やかな声が割って入った。 「おや。みなさんお揃いのようですね。夜回りおかえりなさい、総司君、斎藤君。お疲れ様です」 「山南さん、お早うございます」 「ちょうどいいですね。夜勤明けの方々も、疲れていませんか? 大丈夫なら、君たちにも少し見せたいものがあります」  奥の部屋に他の幹部が集っているらしい。近藤に目配せをし、山南はするすると廊下を進む。確かに史桜の兄を始め、馴染みの面々が足りない。寝坊だろうと考えていた沖田も大人しく後を付いていった。 「お前もいくだろ、史桜」  原田が腰を抜かしていた史桜へ手を差し出す。あまりに呆けて見えたのか。抱えてやろうか、と彼は囁いた。冗談にしては甘い色に思わず咽せると大きな掌が頭に乗る。そんな気負うな、と鷹揚に笑う原田の顔がある長州藩士の顔と重なった。  動乱の前では誰もがどんぐりの背比べである。何を嘆こうと、何を謳おうと、時代が「否」と首を振れば彼らの一言は吹きすさぶ逆疾によってかき消される。それでも尚抗おうとするのが人なのか。彼らと共にいれば、自分にもそんな気概が備わるのだろうか――史桜は未だ見ぬ己の真核に迫りつつ、腹に晒しを巻いた男の掌を遠慮気味に握り返した。

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