藍傘Night 1 花散嵐

第十四夜 冬菊

 かくも時雨は少女の瞳を濡らし、丹念に作られた高価な傘を穿ち、ぼつぼつと音を立てて史桜を大きく包み込む。蛇の巻柄を象った藤の花は恵みの雨を吸い込んだ。だがそれは時を経るにつれ、少しずつ色あせ、薄紫の花弁だか地の藍色だか区別が付かなくなってしまった。  史桜がこの世界に来てどれほど経ったろう。実際に重ねてきた年数より少ないことは言わずもがなであるが、もう半世紀以上暮らしている心地がする。ここは史桜が生まれた土地よりも人同士の関わりが深かった。そのせいかもしれない、家定をはじめ、己の中に幾人もの生き様を刻んできた気がするのだ。  史桜は八木邸の前に佇んでいた。しばしの仮宿。それは出格子といった昔ながらの面影を残し、壬生きっての旧家が腰を落ち着ける場所であった。名家中の名家である。史桜は恐縮する思いがした。家定の側近だったとはいえ元は四民平等、現代からやって来た平凡な家の出である。 「物珍しそうにしているが。何か見つけたか」  斎藤が隣へ並び立つ。黒髪は漆のよう、健康的に太く艶やかだ。が、それでいて風が吹くと薄のように柔らかく頬と戯れる。綺麗な人。何度見ても思う。晩秋、冬菊が芽吹く頃が相応しい人だと思った。 「私が、こんなお宅に居候して宜しいものか、と不安になりまして」  言外に、余所の宿を借りたいと込める。それに気付いてか否か、冬菊を彷彿とさせるこの男は「局長が決めたことだ。案ずることはない」と薄く微笑む。 「だが俺達に関わっていると余計な人間からも狙われやすくなる。極力独りで外出するのは避けた方が良いだろう」 「お昼もですか」 「安全とは言えんな」  だから関わりたくなかったのに、と深い溜息。史桜は綱道の甘言に乗せられた昔の自分を恨めしく思った。この時代に来てから無駄に命を狙われている。それも、誰かの側近だから、誰かの関係者だから、という己の所業によってではなく。 「(はー、帰りたい)」  心中で呟いて、即座に反駁する。一体どこへ。現代か。江戸の永倉家か、それとも生みの親以上に史桜を慈しんでくれた、家定がいたあの時代だろうか。にわかに湧き上がった郷愁は宙ぶらりんのまま脳裏を漂った。帯に忍ばせた千鶴のお守りを、着物の上からそっと指の腹で撫ぜる。 「これからどこかへ行く予定があるなら付き合おう。京もまだ不慣れだろう。局長からお前を案内するようにと言付かっている」 「え、いいんですか? 今日から実験始めるって山南さんが仰ってましたけど」 「遅くならなければ大丈夫だろう。それに今日は、俺達に詳しい説明をするだけだと聞いた」 「そうでしたか」  史桜がここへ居を移して数日になる。あらかた研究について説明し終わった綱道は江戸へトンボ帰り。あとの実験はすべて新選組に放り投げて消えた。綱道もずっと共にいるものだと思っていた史桜は戸惑っていた。江戸に居た頃も実験に付き合っていたとは言え独りで担ったことはない。  そもそも、実験に付き合うなど遠慮したい気持ちのほうが大きかった。薬の効果がどんなものか身に染みて分かっているだけに。そうはいっても中身が中身なだけに、長年薬にかかずらっていた人間が立ち会わなければ危険だ。だから致し方なく実験にも付き合わなければならない。もっとも、あの山南ならすぐに慣れ、助力など必要なくなるだろうが。 「以前も数週間滞在しておりましたし、京の中心はある程度把握していますが……少し寄りたいところがあるんです。お言葉に甘えて付き添いお願いしても宜しいですか」 「相分かった」  史桜は一旦中へ入り、風呂敷で包んだ赤ん坊ほどの荷物を持ってくると、隊士達が出入りする東へ臨み、斎藤と軽い世間話を交わしながら目的地へ向かった。 「どこへ向かっている?」 「飛脚の集荷場です。実家へ息災を伝えたくて」  江戸に帰った時は時間がなくて会えなかったんです。そう苦笑する。二人は堀川通りを越え烏丸を目指した。本当ならばもう少し近くに集荷場があったのだが、折角斎藤が付き合ってくれるというのだ。散策も兼ねてもう一本遠出をしようと決める。まばらだった人が一気に増えた。新選組の羽織を八木邸へ置いてきたらしく、斎藤の黒い着物は民衆に混じり、影のように側へ控えていた。  しばし後、用事を済ませて茶屋で喉を潤していると、ふと用心棒が、「立ち入ったことを聞くが」と声を低くした。 「新八とは血のつながりはないと聞くが。何か理由があって養子縁組をしたのか」 「え? あ、はい……そうですね。ちょっとしたいざこざを避けるために永倉家へ」   斎藤からこの手の質問を投げられるとは予想だにせず。他人の私的部分にさほど関心がないように思えたからだ。 「お前達は実の兄妹と見間違えるほど仲が良い。長いのだろうな」 「いいえ。それが、兄様と一緒に暮らしたのはたった数ヶ月なんです。けれど以前から親交がありましたので、永倉家へ迎え居れられる時は両親も私も違和感はありませんでした。……何か、気になることが?」 「いや、大した事ではない。ただ、お前は最近、隊士達の専らの関心事なのでな。だから俺も少し興味が湧いた」  女人禁制の新選組へ女が紛れ込んでいたら気になるのも道理。戦闘に役立ちそうでもないし、近藤達が江戸へ向かったことと関係深いということは皆気付いているはずだ。しかし斎藤の中で史桜の立場は、一種見世物小屋の珍獣と同格なのでは、と嬉しくない想像が過ぎった。 「件のいざこざとは、お上に関することか」  一層声を潜めて黒髪の剣士は尋ねた。秘密は美酒である。よしんば彼のように他人を気にせず、我が道を行く男にしても、将来新選組に関わるかもしれない秘密には敏感だった。彼らが自分の身辺調査をしていることを知っていたため、斎藤の言わんとすることを察して口元を緩めた。そして続きを紡ごうとした刹那、張りのある声が店先にこだました。 「斎藤に史桜じゃねぇか。いよお、いいもん食ってんな!」 「お、おい、よせってば新八」  浅黄色の羽織を棚引かせて兄と原田が茶屋の入り口から店内を覗いていた。巡回の帰りとみえる。もうそんな時間かと丸窓から空を仰ぐと、西の端から橙色が迫っていた。西日に照らされた原田が申し訳なさそうに苦笑すると、目元に深い影が出来、男らしい角張りがことさら強調された。 「悪ぃな、邪魔だったろ。止めたんだが聞かなくってよ」と義兄を肘で小突く。にべもない。新八は心外といった表情を浮かべた。 「家族と話して何が悪ぃんだよ」 「そういう意味じゃねえよ、馬鹿。折角の休息を兄貴のばかでけぇ声で邪魔すんなっつってんだよ」 「だぁれが馬鹿だ!」 「食いつくとこはそこじゃねぇだろ、馬鹿新八」  新八は決して馬鹿ではないのだが、原田といるとどうもそう見えて仕方がない。史桜は控えめに同意を示しながら斎藤へ目配せした。勘定し、言い争う二人を残して界隈へ抜け出す。江戸より帰還してからも斎藤や原田は変わらず接してくれる。それが嬉しかった。しかし直に実験を見たとしたら彼らはどう思うだろう。このままでいられるだろうか。初対面が羅刹との遭遇だった斎藤はともかく、原田は――。  匂い立つ花の香りが胸を満たした。芳しいが西洋的なそれではない。百合のような、しかしきんと澄み切り、無臭の雪のようでもある。黒装束の剣士が史桜を真っ直ぐに見返していた。その懐から小さな野菊が覗く。来る途中で道ばたに屈んでいたのは知っていたが、そんな趣味があるとこれまた意外な一面を垣間見た。  斎藤は言い争う仲間には構わず、そっと白菊を差し出した。 「総司や他の者達はどうかしらないが、俺はお前が来て良かったと思っている」  艶やかな菊の葉が、斎藤の華奢な下顎の輪郭を映し出す。 「お前が来る前、例の薬に似たものが夢に出てきた。そしてお前に出会った。だからこれは、天命なのだと、俺は思う」  なんとも飛躍した論理だ。心なしか耳が赤いのは気のせいか。しかし彼の射貫くような瞳は、ひたと深桜を見据えていた。初めて廊下で対峙したあの時のように。 「天命だと思いますか。咎ではなく」 「ああ」  その言葉を待っていたのかもしれない。長く伸びる影を前に史桜は考え込む。冬菊のまとふはおのがひかりのみ――不意に、異なる世界で見掛けた歌が浮かんだ。どんなに黒く染まっても、強い光を浴びれば白く輝いて見えるように。そんなひたむきさを感じ、差し出された白菊を橙色の斜陽に照らしては湧き上がる喜びに胸を弾ませた。

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