藍傘Night 1 花散嵐
第十五夜 月痕
平隊士を先に帰し、影を四つ並べて歩く。大きさはてんでばらばら。その中で最も小さく、華奢で異彩を放っているのが史桜の影だ。焦げ茶色の、葉脈が際立って浮き出た落ち葉を踏みしめた時、彼女はおずおずと口を開いた。 「斎藤さん。さっき私の養子入りがお上と関わることか、と訊きましたよね」 「……ああ、そうだが」 にわかに話を振られ居合いの剣士は狼狽した。新八が怪訝な顔をしたことに焦りも感じた。永倉家の次男坊が家族を探られ放っておける性格ではないことは承知済みだ。 「なんの話だ」 「やめろ」 原田が興味を示すのと新八が制止をかけるのは同時であった。しかし少女はゆったりと首を振り、幹部の方々は知る権利があると一言で説いた。 「大層な話ではありません。あなた方が知りたいと仰るなら私にも教える義務があります」 その瞳が映し出すものはなんであったか。芋料理を作る虚弱な将軍の背か。金髪の男との生臭い出会いか。隠すべきことなど何一つ無い、とでもいうように、簡潔に語った。 「私が元々、どこで働いていたかは土方さんから聞き及んでいると思います。そして家定公の沙汰も」 斎藤と原田は神妙な顔つきで頷いた。家定公がお隠れになって五年になる。今は彼の養子、家茂が将軍の座に就いている。彼こそが新選組が守るべき御仁。しかし前将軍・家定公は身体が弱かったせいで、就任直後から家茂公とは別の一派が将軍の座を狙っていたという。そんな折り、かの有名な桜田門外の変が起こる。その事件により家定の死後、史桜が頼りとしていた上層の人間が殺されてしまったのだ。 加えて史桜はそもそも異世界の人間であった。後ろ立てなど家定公以外に持たない。したがって少女は危険な立場に立たされた。そこで元将軍の取り計らいにより、武家の家で、かつどの派閥へも顔が利く永倉家へ預けたと言うわけだ。 実際に語らいではかなり省かれたが、だいたいの内容を告げた史桜を、浅黄色を羽織りし男達はまじまじと眺めた。原田の口から思わず漏れる憐憫。 「お前も意外と苦労してたんだな……」 「そういう風に同情されると居心地悪いから黙っていたんですけども」 当人の台詞にぐうの音も出ない。史桜は憐れみが欲しいのではない。仕事をする上で腹を探り合うのは賢明ではないと判断したから打ち開けただけだ。 「だからご安心ください。新選組の方々に迷惑掛けることはないはずです。少なくとも、養女入りに関しては」 潔白を証明すると斎藤の淡水色の瞳が伏せられた。 「……面目ない。先の質問は新選組のためだったのだが」 「構いません。けれど、大した事ない話だといっても、幹部の方々以外には出来るだけ内緒でお願いしますね」 腫れ物扱いは嫌ですから。その台詞に新八は快活に笑った。それが史桜の性質だと言っても過言ではなかった。彼女はかねてより相手と対等であることを欲した。従順を美徳に掲げる他の女には見られない性質だったが、江戸時代の習わし通り、自分の数歩後ろを歩かれるよりよっぽど接しやすい。 「無論だ」 隊士、双方が頷く。いつの間にか目の前に屯所があった。話は打ち切りと言わんばかりに史桜は歩幅大きく八木邸へ入る。このまま会議があるため屯所の裏屋敷にある自室へは向かわない。斎藤達と別れ、原田の気配を背に薬の保管庫へ向かった。そこは最奥に位置し鍵も史桜がもっている――いずれ山南へ渡るだろうが。藍色の袖をまくり、南京錠を解いた。 原田は淀んだ空気に立ち眩みを起こした。しばらく新選組の重要な資料室として使われていたが、ここ数日の改装で薬棚がずらりと並べられた。どれくらい原液を薄めたものか、いついつに仕入れたものか、すべて記してある。密命担う少女はラベルを個々に確認しながら、部屋の中を縫って歩いた。 「いつのまにこんな診療所みたいになったんだ」 「綱道さんと山南さん、私でこっそり改装したんです。危険なものを扱うなら、分り易いほうが良いと思って」 「そりゃ助かるな」 薬の管理は山南がかって出ている。したがって原田が薬に手を触れることは少ないだろうが、恰幅のいい、乱雑に赤茶の髪を肩まで伸ばした男は感謝を述べた。史桜は複雑そうに一瞥をくれた。意図せず立ち止まると、辛くなったらすぐ言えよ、と肩に温もりが乗る。原田の手だった。互いに心を許しきっている訳ではないが兄に似た安らぎを覚える。屯所に来て、その手が何度心を慰めてくれたか。新八が親友と認めるのも理解出来た気がした。 しかし皆やはりどこかに同情の気持ちを持って史桜と接していることに、一抹の寂しさを覚えた。史桜は答えなかった。彼は未だ変若水の真の姿を知らない。そして棚を辿っていた少女の白い指が、つと、ある箇所で止まった。 「……あれ」 「どうした」 「試験管が一本ない、です」 薄闇の中で無気味な存在感を醸し出す桃色の液体。それがあるべき場所に置かれていなかった。改装したばかりだし、どこかに紛れたのかもしれない。そう言って中央に鎮座する大きな机をまさぐる。整理仕切れなかった資料が乱雑に積まれていた。 その時である。埃臭い部屋の片隅で何かが蠢いたのを認めた。視認しがたい薄闇の中。机に両手をつき、身体を乗り出して確認する。 ――それが過ちだったのだ。 ぱさり。柔らかい音がして黒髪が手元に散る。つむじから頬に掛かる横髪だった。赤い瞳と視線が絡み合うと、心臓を鷲づかみされたように息が詰まった。 「原田さ……っ」 「伏せろ!」 後頭部に衝撃を感じ地面に押さえつけられる。唸る風を頭上に、原田は史桜の安否を確認して舌打ちした。あわやのところで救われた様だった。得物を構える原田の傍らで屈む形になると、机の下に縦長の、割れたガラス瓶を見いだした。慌ててかき集める。ラベルにはオランダ語で原液と記されていた。 「どうして原液が」 通常液はかなり薄めているため、血に狂うのも猶予がある。だが原液は強力な反面、喉元過ぎれば即座に狂ってしまう。 「もしかして、誰かが飲んだ……」 それも、たった今だ。出入り口を見遣ると、固く閉めていたはずのそこから淡い外光が漏れていた。 手が震える。史桜の問いには誰も答えない。背後で何かが弾けた。原田が苦戦を強いられ、壁にたたきつけられた音だった。相手はこちらが視界に入っていないようだが、隊士の一人であった。名は知らない。酒に酔った新八が昨夜絡んでいた記憶だけが鮮明に浮かび上がる。 「くそ、仕方ねえ……史桜! その扉を閉めろ! 他の平隊士が集まってきたら事だ!」 「は、はい」 言う通りにすると剣戟がすぐ側まで迫っていた。隊士の剣先が耳元を過ぎり、深々と薬棚へ突き刺さる。男が抜こうと力むと同時に僅かな隙が出来る。戦いの玄人、原田はその瞬間を見逃さず、以前史桜が告げた通りに心臓をひと思いに突き刺した。 羅刹であった若者は痙攣を繰り返す。と、唐突に事切れた。そのまま鍛え抜かれた身体は薬棚へ雪崩込む。気づいた時、史桜は原田を大きく突き飛ばしていた。人間から逸脱した羅刹の抜け殻は棚を押し倒し、綺麗に整列された瓶から液体が氾濫する。刻一刻と降り注ぐ淡紅の液体を仰ぎ、何かを刻みつけるように瞳を大きく見開いた。 散り散りに舞う変若水は花弁のごとく。史桜の心に、悲しいまでに美しい夜桜が映っていた。
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