虎落笛Lost 1 四面楚歌編
第三鳴 決断迫る時
「……なんということ」 呆然と女が呟いた。寒さのせいか、それとも急いたせいか。頬が上気している。水圧で城門が破られるのも時間の問題だろう。女は腰まで水に浸かり、蕩々と流れ出でる濁流に押されまいと馬の背へしがみついていた。 「史桜殿のせいではない」 「はい……存じております」 籠城して呂布が酒に溺れた時に勝敗は決まっていたのだ。近いうち侯正が反乱を起こすだろう。今更、説得もへったくれもない。彼女も似たようなことを考え、これ以上味方が減ったら難しいですね、と呟いた。 「袁術殿に援軍を頼みに行くべきでしょうか」 やはり。張遼の読み通り、もう一仕事するつもりなのだ、この娘は。最初から陳宮は史桜を利用するつもりで伝令の内容を漏したに相違なかった。しかし下ヒの地は曹操軍にとり囲まれている。包囲網を破って袁紹の元へ向かうのは至難の技だろう。しかも仮に成功したとして、水攻めによって圧倒的不利に陥った呂布軍へ、一度仲違いした袁術が援軍出すと思えぬ。 「愚かな。あの包囲を一人で抜けられるとお思いか」 「けれどこのままじゃ呂布軍は壊滅です。不可能でも誰かが行かなくては……」 「なりませぬぞ」 では張遼が行けば済む話――否、もはやそんな単純な話ではなかった。張遼の抜けた呂布軍が援軍到着まで持ちこたえている可能性は万に一つも無いのだ。呂布が人中最強だとてたった一人で戦況を覆させるには敗因が揃いすぎていた。 史桜の抗議を後方より響く地鳴りが遮る。夏侯惇の隊だ。張遼はあの男を倒して、籠城し続ける呂布や貂蝉を助けにいかねばなるまい。だが曹操の右腕一人討ち取ったところで戦況は変わるだろうか。いや、どれほど考えても負けは決定的だった。 「では史桜殿。これから私が言うことを心して聞かれよ」 これより先、彼が成すべきこと。それは史桜を無事に逃がすことである――冷たい石像の彼方に張遼の覚悟が紡がれる。 「おそらく呂布軍は負けるだろう。そなたを含め、城内にいる女子供は捕虜となり、将兵らは曹操の采配によって生死を定められる。しかし呂布殿は裏切りを重ねてきた。十中八九、処刑は免れまい。私もとうに覚悟を決めている。おそらく、貂蝉殿や妻子も彼に付き従う所存でしょうぞ。しかしそなたは違う。史桜殿は生きなければならぬ。だから……私がここを食い止める間に逃げ延びよ」 いずれ捕らえられるなら少しでも敵を欺いてやろうではないか――張遼の提案は史桜を驚愕させた。彼は、南の包囲網が薄いこと、もし彼や呂布が捕まり曹操全軍が下ヒ城へ進軍を始めたら頃合いを見て一気に包囲網を突破すること。そしてその後、南に潜むがよろしい、と苦し紛れの願いを告げた。 「放浪暮らしに慣れたそなたなら、曹操の目をかい潜って落ち延びることも出来よう」 荒れ果てた戦場に墜ちた屍鳥。それは女の戦慄に重ねて一声鳴いた。もう諦めるのか。無言の問いが渦を巻く。錆びた鉄のような虚ろな声から娘はより多くのものを読み取ろうとしていた。 「張遼さん、よもや死ぬ気ではありませんね」 「否。諦めた訳ではない。私は最後まで勝利を求めて戦場に身命を賭す。しかし……万が一のことを考え、そなたを逃がすべきと判断した」 「ならば私も最後まで」 弱々しい抗議を片手で制する。彼は自嘲した。なんと稚拙な策だろうかと。 「反論は聞きませぬ。しかしこの張文遠、此度の戦いで勝利した暁には、必ずそなたを迎えに行きましょうぞ」 呂布という大きな獲物に曹操が気を取られてくれればそれだけで十分勝算がある。私情を優先して主君を餌にするなど言語道断だが、ゆくりなく、南方へ逃げ込めればさしもの曹操も諦めよう。異国育ちという点を除けば、一見ちょっと馬術に秀でたくらいの女だ。躍起になって追い掛ける意味などない。 だが史桜は頑として頷かなかった。まなじりを逆立て張遼に食い下がった。 「どうしてそんな見放すようなこと。私はあなた方に拾われた時から、自分も呂布軍の一員だと思っていました。張遼さんが処刑されるなら私もそうされるべきではないのですか」 「馬鹿をお仰るな。我々と共に処刑を望む? それは思い上がりというものですぞ。満足に剣を奮うこともできないおなごと我々戦人を一緒にしないで頂きたい!」 厳しく言い立てると女は唇を噛みしめた。羞恥で頬に紅が射す。戦場という地獄は史桜の平凡さがことさら際立つ場所だった。みだれ落ちる雪は乱世に染まりきれぬ女の身の上へ、肌理細やかな薄片をほとほとと降り落としていく。さながら肢体を汚すがごとく、独占欲を代弁した無数の傷跡は彼の情欲をかき立てた。 「張遼さんは……相変わらず冷めた顔で痛いところを突いていらっしゃる」 誰が冷めた顔など。張遼は笑い出したくて堪らなかった。しかし好都合だ。あふれ出す感情の疎隔、男は堂々たる表情を取り繕った。 「左様。私は武人だ。史桜殿とは生きる世界が違う。だから、あなたは生き延びて普通の暮らしをするべきだ。……我々に出会ったことがそもそもの間違いだったのだから」 女の瞳が涙で濡れた。物静かに見えて存外気丈な性格である。ひょっとしたら悔し涙かもしれない。溢れんばかりの水滴がふるりと眼孔で揺れた。奇妙な感覚だ。この六年間、過酷な生活を強いたにもかかわらず泣き顔を見るのは初めてに思えた。 「どうしてもですか」 「どうしてもですぞ」 「……嫌です、張」 「文遠、と」 瞬いた拍子に大粒の雫がひとつ。 「再会した暁には、そう呼んで頂きたい。嘘八百にならぬよう尽力しますゆえ」 華やかな笑顔を向けて欲しかったが慰めるのはこれが精一杯であった。女は苦笑した。曹操軍の将は目と鼻の先である。夏候将軍は勇壮な出で立ちで二人の前へ踊り出ると、雄々しく立ちふさがった。 「張遼。貴様によく会う日だ。愛しい女との別れは済んだか」 「心配ご無用だ。ここから先は張文遠がお相手しよう。我が武、受けられよ!」 双方の間に火花が散る。最初の剣戟が鳴り響き、二戟、三戟と続く。朴刀と双鉞が不快な金属音で交わった。張遼が抑えている間に逃げなければ。彼の厚意を無碍には出来ない。史桜は覚悟を決め馬首を返した。 「約束です。勝って迎えに来ていらしてください。私も、必ず生き延びます」 「あいわかった。我が武道にかけて誓おう!」 いつか彼を「文遠」と呼べる日まで。史桜は四肢の痛みなどとうに忘れていた。夏侯惇が張り上げた制止の声を無視して水門を離れる。分かっている。呂布軍に勝ち目などない。ここで呂布が落ち延びたとして、弱り目に祟り目、一気呵成に諸侯が押し寄せよう。 史桜は無心で早駆けた。ひらけた場所では戦いののろしが上がり続ける。曹操軍の勢いは留まることを知らないようだ。おもむろに足下を見ると、おやと喉まで声が出掛かる。かなり水位が引いていた。それが指し示すものはひとつ。呂布らを護る門が破られ、城内に水がなだれ込んだのだ。もはや敗北は決定的である。呂布は妻子や貂蝉を護りきれるだろうか。陳宮は? 彼らの元へ駆けつけたい。ありがとうと言って、今までの恩を返したい。しかし彼女は苦汁の決断をくだした。 「戻ってはいけない。大丈夫、きっとまた会える」 張遼と約束したのだ。彼が間違ったことがあったろうか。いいや、こんな時だからこそ名だたる騎馬隊長の判断を信じよう。史桜は愛馬を降りて人目につかぬよう岩陰に隠れた。冬季の河川が足の感覚を奪っていく。凍えそうだった。身も心も。そのうち夜になり冴えた星々が天上に昇る。小高い草むらへ移動すると見覚えある旗印を付けた馬が何頭も倒れていた。城からいたく離れたこの場所なら夜も明かせよう。矢傷が疼く右腕から鏃を抜き、せめてもの処置を施すと、かつて仲間だった死者を風よけにして愛馬の温もりへ浸った。 ――城を出奔してから幾度太陽が昇り水平線へ落ちたろうか。戦場は城内へ移り、辺りをうろつく兵士が激減した。見つかる懸念がない一方で情報も途絶える。張遼の立てた逃亡作戦はタイミングこそ重要であり史桜は深々と降り積もる綿雪をかき分けて人の気配を探した。途中に馬を繋いで徒歩の偵察を始める。と、見廻り兵が奇妙な形に抉られた窪地に座っていた。水攻めの傷跡か。血潮が溶け入った水脈路は死者の通り道に見えた。 背後から、耳が大きい、癖毛の将が駆け付ける。 「おいおいお前ら。殿が呂布を捕らえたって話だ。こんなとこでのんびりしてる暇はねえぜ。揃って進軍開始だ!」 「なんと、曹操さまが呂布を……!」 「へっへ。そろそろって気がしてたんだ、俺。予感的中だな」 「さすが李典さまです」 朝露を突き抜けて夕影に汚れた絶望が史桜を覆った。恩人の死を孕んだ知らせは魏軍に無情な歓声を、史桜に深い悲しみをもたらした。呂布が囚われの身ということは既に張遼も――いや、いや、それでも大丈夫だ。処刑されるかどうかは曹操次第だ。彼ならきっとどうにかして切り抜ける――史桜は水門で交わした約束だけを心の拠り所に曹操軍が消えるまで木陰へ潜む。 さてこれからどうすべきか。張遼は南を抜けろと残した。だが数日調べて回ったところ曹操・劉備連合軍も抜かりない。期待したほど手薄な警備という訳でもなく、果たして本当に包囲網を突破できるか不安になった。ひとまず馬を取りに戻らねばなるまいか。こちらの世界へ参って六年、史桜の取り柄は馬のみだった。 しかし動揺していたせいか、踏み出した途端、足元の氷が烈音を立てて割れた。聞き咎めた諸兵が戻って来ないとも限らぬ。慌てて茂みに隠れると同時に、やはりというべきか、凜とした声が脊髄を貫いた。 「何者だ」 声の主は史桜が隠れた茂みを凝視しているようだ。草葉の陰から連合軍の服装をした脚が見える。誤魔化しの利く距離ではない。史桜はしばし逡巡して――【ストーリー分岐】 ▼ 降参して大人しく姿を現す (本筋ルート)▽ どうにか脱出を試みてみる (IF魏ルート/短編へ)
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