虎落笛Lost 1 四面楚歌編
第四鳴 屍に立ちて
葉叢に潜んだまま来た道を見返る。ここから駆けたとして愛馬に飛び乗る前にあえなく捕らえられるのが落ちだ。となれば一か八か交渉するしかあるまい。彼女は腹を括ると、しずしずと姿を現わした。 「ご迷惑をお掛けするつもりでは」 膝を折り拱手する相手が丸腰の女だと見て取ると男は慇懃に目礼した。敵将は頬当てをした小柄な男である。威風堂々の風体、機敏なふるまいはよもや兵卒ではあるまい。彼は史桜の前に跪くと、武器を傍らに置いて人柄良く相好を崩した。 「そのように怖がらないでください。取って喰おうなどと思っていません。私は楽進です」 「私は……可心と申します」 あやうく元の世界の名を挙げかけ背筋が凍る。が、男は別段怪しむ様子もない。史桜は拱手したまま後退った。このまま逃がしてはくれないだろうか。淡い期待を抱く。その折り右腕に鈍い痛みが走った。すると男は常より他者に気を配る性格なのだろう。目敏く史桜の表情を読み取って身を乗り出した。 「怪我をなさっておいでですか」 「あ、あの大丈夫です」 「しかし服に血が滲んで。無礼を承知で失礼します」 凛々しく言い放たれた後、楽進の顔が間近にあった。身構えるなり袖を捲られる。昨夜巻いた布が鮮紅に染まっていた。楽進が息を呑む音に思わず目を背け、史桜は緩慢に血が流れ出る感覚を呆然と味わうしかなかった。 「さぞお辛かったことでしょう。可心殿。恐縮ですが、すぐに我らの本陣へいらしてください。典医に治療させましょう」 「あ、あああの。本当に大丈夫なのです」 楽進が纏うは青い衣。となれば曹操軍であろう。彼の本陣へ行けば逃げ出すどころの騒ぎではない。ましてや夏侯惇とは一度顔合わせをしている。万が一彼に出会えば何を言われるか史桜は動揺を押し隠して首を振った。だが男の親切心が徒になった。楽進は強情な史桜を抱え上げると、 「いけません。そもそも、女性をこんな危ない場所に置いて立ち去るなど」と好青年ぶりを発揮するのである。 誠意は有り難いのだが万事休すだ。折り目正しい態度にほっとしたも束の間厄介なことになった。されど大股で歩き始めた男をどうやって止められよう。相手は筋骨隆々、腕を振り払うも一苦労である。 いっそここは正直に話すべきか。良い人ぶりを披露し続ける楽進になら話が通じるかもしれない。史桜は傾いた心の天秤に従い、静かな声で抗議した。 「楽進さま。どうかお許しください。私は曹操軍の本陣へはいけないのです」 胃が震えた。自分の言葉ひとつで生死が決まる瞬間に冷めやらぬ興奮と恐怖を覚える。もっと知略を学んでおけば良かった。もっと武術を磨いておけば良かった。張遼と別れた日から後悔ばかりである。怪訝そうに見下ろす楽進の瞳を見据え史桜はとうとう言い放った。 「私は呂布軍の出。曹操軍の本陣になど向かえば殺されてしまいます。なにとぞご容赦ください」 「呂布軍の……?!」 敵将は目の色を変えた。狼狽する、凝視する、沈思する。一連の動作を終えて、楽進は史桜を降ろした。そうなのですか、と一言。それだけ呟いて腕を組んだ。直ぐさま武器を取らぬところを見ると交渉の余地がありそうだが男の顔色は冴えない。 「そうか、もしかしてあなたが夏侯惇殿の言っていた……ううん、確かに諸々の特徴が当てはまりますが。しかしどうしてこんな場所にいるのか」 「私が……なんと?」 「先日夏侯惇殿からとある女性のお話を伺いまして。その描写にあなたがそっくりなので、もしやご本人ではと」 もしやどころか張本人だろう。史桜は頬を引きつらせた。戦において迅速な情報伝達は要だがここまで早いとは。曹操軍の徹底ぶりに諸手を挙げるしかない。あなたの名は史桜殿ですか、と率直に問われ、ますます状況が悪化したことを悟った。 「どうして将でもない私の名前が曹操軍に伝わっているのでしょうか……」 これ以上足掻いても無駄だ。嘆息して降りしきる綿雪を掌で溶かす。 「あなたは先日戦場に出ていらしたので。丸腰なのに異常に逃げ足だけ速い女がいたと夏侯惇殿が熱弁していらっしゃったのです」 ちっとも褒めていない。そんな面持ちで乾いた笑いを浮かべると楽進は 「気分を害したのならすみません!」と善人ぶりを窺わせる慌てぶり。楽進といえば剛勇の将と誉れ高いが史桜は敵ながら好意を抱いてしまう。すると男はあたかも無気味な存在を見るように小首を傾げた。 「しかし、なぜこんな戦場にいらっしゃるのですか。酷い怪我までして……ええと、史桜殿とお呼びして宜しいでしょうか」 「はい。可心は呂布様より賜った名ですが、本名は史桜でございます」 どうせ使い慣れぬ名だ。女は頷くと長い沈黙を経て口を割った。全滅した伝令兵の代わりに出陣したこと、用事が済めば城へ戻るつもりだったこと。女一人で放浪する事態に陥った経緯を囁くように打ち開けた。 「では、なぜ今はこのような場所に」 「城が連合軍に囲まれ、戻るに戻れなくなってしまい……。敵兵に見つかるのが恐ろしくて隠れていたのです」 史桜の言い分は真に迫っていた。が、情報が歪められているなどと突っ込んではいけない。あながち嘘でもないのだ。戦えぬのは事実なのだから。これを機に同情して逃がしてくれまいか――我ながら浅ましいと自嘲するが背に腹は代えられなかった。呂布軍の一員として多少手汚い技を使っても生き抜く。それがいま史桜の果たすべき約束だ。 「どうぞお見逃しください」 拱手する腕が、膝が笑う。 「とは言え私どもは曹操さまにあなたの捕獲を命じられており」 「そこを、なんとかお願いいたします。命を賭して張遼さまが逃がしてくださったのです。易々捕まれば面目が立ちません」 「理解は出来ます。ですが右腕の傷だって決して浅くないのですよ。放置すれば病に発展するかもしれません」 「ちゃんと自分で治療します。楽進さま、あなただけが頼りなのです」 「ふむ。曹操さまに仇為さぬと約束してくれるなら考えなくも……」 いける。かなりぐらついている。つい馴れ馴れしく叫んでしまいそうになり史桜は慌てて口を噤む。すべては彼次第なのだ。史桜は固唾を飲んで待った。かくして沈黙が堪え始め、恐々と面を上げた頃合いである。男がはたと動きを止めた。と思うなり不意に肌理粗いものが目元に触れた。 「史桜殿、そんな顔をされては困ります」 閉口した面持ちで腕を伸ばす楽進。平たい指の腹で史桜の目尻を拭った。知らず知らずに塩辛いものが溢れていた。 「泣くほど思い詰めている女性を捕らえるのは私の信念に反します。わかりました。この楽文謙、喜んで罰をお受けしましょう」 「私、そんなつもりでは……勝手に零れてきてしまい」 「良いのです。見ればあなたは戦慣れしていない。そんなおなごが一人、こんなところで辛くないはずがないでしょう」 泣き落としをするつもりは毛頭なかった。そんな女を呂布が認めてくれると思えぬ。芯の強い玲綺がそんなことで窮地を切り抜けると思えぬ。なにより、己が信念に真っ直ぐ生きる張遼と相容れぬ行為だ。だが零れたそれは頬を濡らし続けた。涙はすべてを洗い流す。後悔も、悲しみも。それらを取り去れば彼女に残された思いはひとつ。 史桜は涙を振り払い楽進へ向き直った。 「ひとつお訊きしても宜しいですか。罰とは、一体」 「ああ、そのことですか。あなたを逃がすことは曹操さまの命に反する行為です。しかし私は正直に生きたい。だから今回のあらましを隠し続けるつもりもありません。おそらく、逃がしたと知れば曹操さまはお怒りになるでしょう。あなたに随分と興味がおありでしたから」 「それでは、楽進さまは……」 「構いません。これは私の決断です。あなたを逃がすと、そう決めたのは私なのです」 人は誰かを犠牲にしなければ生きていけないのだろうか。呂布の裏切り、連合軍との戦い。誰しも他人の屍の上へ立っている。それでも前に進むのだ。それがこちらの世界の理、生々しく眼前に突き付けられる現実。さればこそ今の史桜にはこの男に甘えるしか手立てがなかった。 「さて、そうと決まれば私もすることがあります。差し出がましいとお思いかもしれませんが、包囲網の外までお送りしましょう」 やると決めたからには最後まで。曹操軍の重鎮らしい横顔だ。万感の思いを込めて深々と頭を垂れると、楽進は一旦姿を消し、やおら治療道具を携えて戻って来た。 「史桜殿、さあ腕を」 「え?」 「布を交換してから移動しても支障はないと思いますので」 「ああ……なるほど。それではお言葉に甘えまして」 「はい。恐縮です」 何か譲れない部分があるらしい。大人しく袖を捲ると彼は喜色満面で治療を始めた。逃がすと見せかけて援軍を呼びに行ったのでは。一時はそう怪しんだが楽進の裏表ない性格が幸いしたのだろう。馬の居場所を告げると、彼を先頭に薄氷を踏みしめた。
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