虎落笛Lost 1 四面楚歌編

第五鳴 理なき世界

 面映ゆく白銀に煌めく雪原は痛ましい水攻めなど素知らぬ顔である。ふた筋、み筋と地面を抉るそれは生娘の白い脛のよう。空風に身を竦めると愛馬の近くに人影を認めた。  塊は三つ。新涼の装いは雪原に春のやわらぎを与えた。真ん中に柔和な面差しの男が居る。身を潜めるより早く大きな福耳と目が合ってしまった。一難去ってまた一難。再びまずい状況かもしれない。警戒を強める史桜の隣で楽進の声が裏返った。 「劉備殿。それに、関羽殿、張飛殿! どうしてここにいらっしゃるんです」 「ああ、楽進殿。あなた方を待っていたのだ」 「なんと……!」  楽進が史桜を背後に庇うと劉備が目を細めた。不思議と敵意はない。 「お久しぶりだ、史桜殿。以前共に徐州へ住んでいた頃は親しく話したものだが、このような状況では疎遠になってしまい、まことに残念に思う。しかし誤解しないでくれ。私や雲長、翼徳はあなたの味方だ」  目を白黒させて三人と楽進を見比べる女。すると関羽が上から下へ美髭を撫で、慇懃に申し開く。 「話は先ほど木陰で聞かせて頂いた。盗っ人のような真似をして申し訳ないが史桜殿の身の上すべて存じておる。なればこそ兄者はあなたをお助けしたいとここにはせ参じた」  劉備は敵だったはずだ。なにせ連合軍は劉備と曹操が組んで出来たのだ。否。そもそも彼は呂布に城を奪われた被害者。呂布軍に組した史桜を斬り捨てる権利を有り余るほど持っている。 「おいおーい。史桜、なに俯いてるんだよ。敵なのにってか? ああたしかにな、呂布は兄者を裏切った。んでお前はその呂布の下で生きてきたから、自分も罰せられて当然だと思ってるんだろ。でもよ、お前は徐州で一緒にいた時だって兄者や俺達によくしてくれてたろ。――その違いだよ」 「ああ。私はあなたに罪がないことを知っている」  張飛の言い分を劉備が補足する。楽進は愉快そうに肩を揺らした。この彼を上回るお人好しがいるなど誰が考えようか。なるほど。人は他者の犠牲の上で生きている。さりとて同時に他者の優しさの上にも生きているのだ。優しくあることと、他人のために犠牲になること。二つは根本的に違うものだ。  劉玄徳のしなやかな背筋が、包み込むような腕が、温もりある義兄弟の眼差しが。一寸先も見えぬ史桜の道筋を照らした。 「楽進殿。ここからは兄者と我々が引き受けよう。楽進殿は曹操殿の元へ急ぎ帰参なされよ」 「いえ、僭越ながら私も共に」  進み出た一番槍を遮るは赤ら顔の張飛である。 「やめとけって。お前だけ居なくなったら曹操が不審に思うだろ」 「しかし私は史桜殿を逃がすとお約束しましたし」 「――いいから。お前は知らねえ振りしとけって言ってるんだよ。史桜を逃がしたのは俺達、劉備軍。こいつの脱走はお前の預かり知らねえところで起きたんだ。それで互いに引っかかることなし。な、万事解決だろ」  にべもない。しかしそれでは劉備と曹操の仲が悪くなるのではないか。そんな不安が好青年の顔を過ぎる。だが史桜は曹操が自分ごときにそこまで執着すると思えなかった。 「大丈夫ですよ。劉備さまは柔な御方ではありません」  彼なら上手く立ち回るだろう。楽進の心遣いだけで十分嬉しかった。 「どうしてもと言うのなら、南の包囲網を薄くしてくださいませんか。竹林を抜けていくので、出入り口付近を」 「……わかりました。楽文謙、恐縮ながら、その任を引き受けさせて頂きます」  別れ際に手を握られ何かを渡される。掌を開くと濡れ布巾でくるんだ塊が鎮座していた。軟膏である。きちんと治療してくださいね。と目線を合わせて告げるものだから、思わず首に腕を回して礼を繰り返した。 「おい、お前は早く行きやがれ! 曹操がこっち来たらどうすんだよ!」 「す、すみません。では私はこれで」  だが張飛があんまり急き立てるので楽進は後ろ髪を引かれながら任務へ戻っていく。小柄な背をいつまでも見送っていると愛馬が出立を急かすように嘶いた。 「では史桜殿、我らも参ろう。くれぐれも正体を悟られぬように」 「はい、宜しくお願いします」  劉備の号令で四人は馬上に飛び乗った。凍てつく風を切って颯爽と駆け抜ける愛馬、飛躍する蹄、並び立つ群雄――張遼と転戦した記憶が鮮烈に蘇る。人道に照らし合わせれば、呂布は確かに悪である。董卓と呂布を誘惑して親殺しを仕向けた王允も、貂蝉も、天命が求める理から外れている。しかしそれがなんだと言うのだ。天則から外れているのは史桜も同じだ。彼女はこの世界の人間ではないのだから。よしんば、どれほど世間に虐げられようとあの場所には確かなものがあった。それは、理から滑り落ちた史桜だけが見えた光景だった。  ほどなくして劉備軍の兵士が合流した。小隊で動いては逆に目立ちそうなものだがみな頭からすっぽり被りものを被り、誰が誰だか見分けが付かぬようにしている。問い詰められた時は雪が煩わしいからと答えるよう口裏合わせていた。南下を続けるうちに魏兵はまばらになっていく。楽進の計らいか。  史桜には此度の戦いが春めく前の厳冬に見えた。遠目に見ゆる樹木は白い冠を鬱々たる頂きに被り、冬の棘はマントを突き抜け生ある者らをことごとく蹂躙していく。徐州を取り囲むように諸手を広げる深緑、視界をやや西へ逸らすと以前張遼と山火事に遭った竹林とぶつかった。奇怪なことに燃え落ちたはずの竹林は一年と経たず元通りと聞く。先だっての逃亡劇といい史桜には曰く付きの森だった。 「ところで、お三方は曹操殿の側にいなくて大丈夫なのですか。呂布さんの処刑が……」  曹操はあくまで援軍。此度の戦いは劉備と呂布の戦いなのだ。主人公が居らずしてどうするのか。すると先陣切って突き進む史桜の隣に関羽が馬を並べ、 「その件については心配ござらん。呂布殿の采配はいますぐ決する訳ではない。加えて此度の戦い、南方の地はもとより翼徳が請け負っていた。だから多少こちら側で拙者達が愚図ついても何ら疑われることはござらぬ」  用意周到である。どうも劉備は勘付いていたようだ。北や西から徹底的に叩かれた呂布軍が逃亡するなら南だと。敵の動向を監視していたら思わぬ獲物が掛かった、といった塩梅か。  深雪に覆われた森を幾らか進んだところで劉備は手綱を引いた。 「残念だが、我々が共できるのはここまでだ」 「ありがとうございます。なにからなにまで親切にしてくださって、なんとお礼を申し上げればいいか」 「何を言う。我々こそこのような事態を招いてしまって申し訳ない。これはせめてもの罪滅ぼしだ。いつかまた元気な顔を見せに来てくれればいい。あなたはただ、前を向いて進みなさい」  元の世界へ還りたいと思ったときもあった。なぜ自分だけがと隠れて泣いた日もあった。けれど、そのどれもが、史桜がこの世界で生きた証であった。呂布、陳宮、貂蝉、玲綺、厳氏、高順、張遼、楽進、関羽、張飛。そして、劉備。心の中でもう一度、大切な名を反芻する。 「あなた方から受けたご恩、この史桜、決して忘れはしません」  楽進殿、張遼殿にどうぞ宜しくと厳かに拱手する。どこまでもどこまでも。いつの日にか、近い将来散っていく人の恩と志を携えて。史桜は、並みの精神しか持ち得ぬ己はいつかその重みに押しつぶされてしまうだろうと予感したが、同時に、感情の不思議な暗喩が静かに心を満たす瑞々しさも感じた。  時代が震撼する――劉備は女の中に不躾なほど奔放な景色を見た。敢えて喩えるならば果てしなく巨大な獣。それから、彼は頭の隅で猛禽の咆哮と、次代の幕開けを告げる鬨の声を聞いた。 一章完結/二章へ続く

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